蔦も根を張る意地っぱり 1
短気で強気でつよがりな皇女様と従順でないけれど優しい従者が、舞踏会の喧騒に紛れるようにして秘密の話をしている頃。
「――――エリカ、ちょっといいかな」
お茶を淹れようとしているエリカに、クレイグは穏やかな口調で言いました。寝室をごろごろ転がりながら熟睡しているコニーを起こさないように、声を落として。
「はい」
乾燥させたカモミールの花をガラス瓶から取り出していたエリカは小首を傾げると、手を止めてクレイグの隣に腰を下ろしました。ふかふかの高級ソファが、彼女を包み込むように静かに沈みます。
「何でしょう?」
「あ、ああ……」
見上げられて、クレイグは一瞬言葉に詰まってしまいました。この家出娘はいつの間に、自分をまっすぐに見つめるようになったのだろう……そんなことを考えて。
身構えてしまっている自分を誤魔化すように、彼は咳払いをして続けます。
「今日はいろいろあったけど……その、大丈夫かい?」
尋ねられた刹那に思い出したのは、義弟クリスの暴挙です。けれど、つい数時間前の出来事が彼女を怯えさせることはありませんでした。
それどころか、クレイグが遠慮がちに言葉を選んでいるのが伝わってきて、彼女は口元にほんのりと笑みを浮かべて頷いたのでした。
「……はい」
あっさり頷いたエリカに、クレイグは訝しげに眉根を寄せました。
すると、彼女が口を開きます。
「怖かったし腹も立ったけど、今は胸がスッとしてます。
自分でも不思議なくらい気持ちが軽くて……」
「……そうか」
エリカの瞳に、暗いものがちらつく気配はありません。彼女の言葉が何かを誤魔化しているようには思えなくて、クレイグは肩から力を抜きました。
そんな彼の表情を見たエリカは、はたと我に返りました。笑みさえ浮かんでいた頬が強張り、膝の上に置いた手が服の裾にしわを作ります。
自分の身に起きたことで頭の中がいっぱいだったけれど、そもそも巻き込んだのは自分の方だったことを思い出したのです。
「あ、の……っ」
ほっとしたのも束の間、唐突に表情を曇らせた彼女に、クレイグは少なからず動揺しました。話しづらいことを打ち明ける時のような雰囲気は、どうしようもなく苦手なのです。
けれど、そんな彼の心情になど気づくはずもなく。エリカは大急ぎで言葉を並べたてました。
「ごめんなさい!
私、巻き込んだくせに暢気なことを……っ。
クレイグさんの方こそ、大丈夫ですか?
どうしよう、時間が経って腫れたりしないかな……?!」
一気に捲し立てたエリカの手が、クレイグの利き手を掴みます。興奮しているせいか思いのほか勢いよく、小気味良い音すら響かせて。
それに驚いた彼が目を丸くしても、彼女の視線が動くことはありませんでした。熊のように大きな手の甲の上を、行ったり来たりするばかりです。
クレイグは自由になる方の大きな手で、必死の形相で手を見つめるエリカの頭を、ぽふぽふと軽く叩きました。コニーを寝かしつける時のように、安らかな気持ちで。
「心配ないよ。大丈夫だ。
どこも痛くないし、なんともない」
「でも、やっぱりお医者様に診てもらった方が……。
今は大丈夫でも、のちのち靴が作れなくなったら大変ですし!
コニーのこと、抱っこ出来なくなりでもしたら……!
そんなことになったらローグじいさんにも申し訳が……っ」
今は亡き師匠にまで謝り倒す勢いのエリカを見て、クレイグが苦笑混じりに肩を揺らしました。自分も彼女も笑ったり慌てたり、初めて会った日とはまるで別人のようだ、と思いながら。
「さすがにそれは心配しすぎだよ、エリカ」
困ったように笑う彼は、どこか嬉しそうでもあって。エリカは、彼の言葉をそのまま信じるしかありませんでした。
「それで……」
クレイグが溜めていた息を吐き出し、自分の手をがっしりと掴んだままのエリカの手を、そっと剥がしました。そして、どこか遠慮がちに言いました。
「これからのこと、なんだけど」
そう言いかけて口を閉じたクレイグの表情が、それまでとは打って変わって曇ったことに、エリカは内心で首を捻ります。けれど、その理由を尋ねることは出来ませんでした。彼が、続きを話そうと息を吸い込む気配がしたのです。
なんとなく神妙にしなくてはならない気がして、彼女は静かに頷きました。
クレイグはエリカが言葉の続きを待っているのを察して、頬を強張らせます。
「明日にでも、靴屋に帰ろうと思うんだ」
「あ……」
そのひと言に、彼女は何も言えませんでした。何を言ったらいいのか、どんな顔をしたらいいのか分からなかったのです。相槌でも打てば良かったのかと思うけれど、それも何かが違うような気がして。
閉じきれなかった唇から間抜けな声を零したエリカは、咄嗟にクレイグの顔を見上げました。
すると、クレイグが小さく頷きます。
「これからのバルフォア家の信用の堕ち方は、凄まじいと思う。
皇帝陛下と皇女様の不興を買ったんだから当然だな。
でも、おかげでエリカに構っている余裕はなくなるだろう。
逆に負債を抱えて、彼らが追われる立場になるかも知れないし。
……同情するかい?」
言葉の最後に質問を投げかけた彼に、エリカは返事をすることが出来ませんでした。“はい”と“いいえ”のふたつきりの選択肢になんて、この気持ちが収まるわけがありません。
彼女は、少し考えてから口を開きました。
「分かりません……。
気の毒に思えるけど、でも、自業自得だとも思えるし……」
視線を彷徨わせたエリカを見つめて、クレイグは囁きます。
「エリカ」
彼は一度剥がした彼女の手をとって、軽く握りました。そして、複雑そうな表情を浮かべる彼女の顔を覗き込みました。
「――――君はもう、自由になっていいんだよ。
もう、あの家とは縁が切れたんだ。どこにだって行ける」
「じゆう……」
エリカは、半ば呆然と呟きました。
言葉の意味は知っています。バルフォアの養女になってからの人生は、見えない鎖に繋がれるような理不尽さでいっぱいでした。だから屋敷を飛び出して駆け抜けた葡萄畑の緑の匂いに、どんなに胸が満たされたことか。
初めて自由に使ったお金。初めて自由に選んだ服。初めて自由に過ごした時間。
どれも落ち着かなくて、でも、嬉しくて。わくわく、ドキドキ、時には舞い上がってコニーに迷惑をかけたこともありました。
「エリカ……?」
クレイグは、心配そうにエリカの瞳を見つめました。呆けたように呟いたきりの彼女を見ていても、喜んでいるのかどうか分からなかったのです。そもそも自分の言ったことも伝わったのかどうか……。
表情を曇らせた彼に呼ばれても、彼女は返事をしませんでした。
なんだか、しっくりこないのです。自由だと言われたのに、あんまり嬉しくないのです。今までに感じた高揚感を、自分の中のどこにも見つけられません。
ぽつり、とエリカは呟きました。
「私は、自由……」
もう一度言葉にしても、嬉しさは湧きません。それどころか寂しさのようなものが、胸の奥で軋むような音を立てて存在を主張しています。
その痛みの正体が何なのか、彼女がぼんやりと考え始めた時でした。
どんっ。
突然、くぐもった重たい音が響きました。
それまで呆然としていたエリカは、はたと我に返りました。
そして刹那の間も空けず、ほんの少し開けておいた寝室のドアの隙間から、コニーの泣き声が漏れ聴こえてきます。
「ちゃんとクッションを置いておいたのに……ごめん、エリカ」
呟いたクレイグは顔をしかめて、エリカの手を離しました。そして素早く腰を上げると、早足で寝室に向かいました。
「いたいーっ、パパぁぁっ!」
「ちょっ、コニー……?!」
「やだっ、パパっ……パパーっ」
寝起きの掠れた声で泣きじゃくるコニーが、抱き起した父親の腕の中で暴れています。クレイグが宥めようとして何か言おうにも、声を聞くたびにコニーが暴れるのでどうしようもありません。
慌てて彼の後を追って寝室にやって来たエリカは、そんな光景を目の当たりにした瞬間、体が硬直して動けなくなってしまいました。靴屋で生活していた頃にも、夜遅くにコニーが起きて泣いている様子はありましたが……。
目の前の光景に圧倒されてしまったエリカでしたが、立ち尽くしている場合じゃない。自分にも何か出来ることはないか……と、ふたりに近づきます。
そして暴れるコニーを一瞥した彼女は、慌てふためきながらも宥めようとしているクレイグに言いました。
「とりあえず、何か冷やすものを持ってきますね。
ベッドから落ちた時に、どこか打ってるかも知れないし」
すると、エリカの声を聞き取ったコニーが勢いよく手を伸ばします。
「エリカちゃん……?!
こわいっ、エリカちゃん!」
「えっ?」
クレイグの返事も待たずに踵を返そうとしていた彼女は、驚いて振り返りました。
そこには、父親の腕の中から出ようともがくコニーの姿が。
「エリカちゃん!」
わけが分からないエリカでしたが、必死に名前を叫ばれて無視出来るわけがありません。彼女は戸惑いながらも、暴れるコニーのもとに駆け寄りました。
クレイグは困惑を通り越して苛立っているようにも見えます。眉根を寄せた彼は声を上げたいのを堪えて、暴れる愛娘をどう宥めたらいいのか考えを巡らせているようです。
横から手を出すのも……と迷いながら、彼女がしゃがみこんだ時でした。
「たすけてパパ、エリカちゃん……っ。
こわいの、おにいさんがこわい!」
「え……?」
悲鳴まじりの言葉を聞いたクレイグが、思わず声を零しました。
締め付けられるように痛む胸を押さえたエリカは、両手を伸ばしました。叫んだきり歯の根が合わなくなってしまったコニーに向かって。
彼女は、何が起きたのかを悟ったのです。
「――――大丈夫よ、コニー。
怖いお兄さんはパパがやっつけてくれたからね。もう大丈夫」
すん、と鼻を啜る音に混じって、寝息が聴こえてきます。
規則正しいそれに耳を澄ませていたエリカは、そっと口を開きました。毛布の上から、コニーのお腹に手を当てたまま。
「ごめんなさい……」
「君のせいじゃない」
起こさないように囁かれた言葉に、クレイグが首を振ります。エリカと並んでベッドの縁に腰掛けた彼は、落ち着いた様子の我が子を見つめて呟きました。
「あんなことがあって、平気なわけがないんだ。
……我慢強い性格が裏目に出てるのかもな……。
だとしたら、私のせいだ。父親として足りないことばかりで」
クレイグの重たい溜息を打ち消すように、エリカは首を振ります。
「クレイグさんみたいに素敵なパパがダメなわけありませんよ。
きっと、怖い夢から覚めた途端にクリスと見間違えたんです……」
「自由……」
規則正しい寝息を聴きながら、エリカは誰にでもなく呟きました。
クレイグは、夜中に起きたコニーが自分を見て気が動転してしまったら可哀想だから……と、ソファに横になっているはずです。きっと聴こえはしないでしょう。
瞼を閉じてみましたが、目が冴えて眠れそうにありません。溜息を零したエリカは、少し前に感じた胸の軋みについて考えを巡らせました。
「私は自由。だから、どこにでも――――」
クレイグの言葉を辿っていたエリカは「あ……」と、口を開けました。
分かってしまったのです。何が引っかかっていたのか。
思わず口元を押さえた彼女は、ゆるゆると詰めていた息を吐き出しました。心臓がびっくりして、鼓動が速くなっていきます。
「そっか……」
バルフォア家が自分に構っていられない状態になれば、マーガレットの力を借りて結婚する必要はなくなる。もともと乗り気ではなかったから、それは嬉しい。けれど同時にローグの靴屋で匿ってもらう生活も、もう続ける必要がない……。
エリカは“自由”の意味を、そう理解したのです。つまり、どこにでも行けるかわりに、靴屋にいる理由を失ったのだと。
「明日、クレイグさんとコニーが靴屋に帰っても……私は……」
その夜、眠れないエリカが思い出していたのは、熊のように大きなクレイグの手が温かいこと。市場でコニーと食べた綿飴のこと。
それから、食卓の真ん中にタンポポの花を活けた小瓶を置いた日のこと。それを見た彼が、時期が来たらクチナシの花も摘んでおいで、と言ってくれたこと。
「靴下の穴、頑張って全部塞いでおけば良かった。
ピクルスも、もっと作っておけば良かったな……」
呟いたエリカの睫毛は、ふるふると震えていました。




