ハイヒールを脱ぎ捨てろ 10
音が消えた。
彼女はぼんやりと、そう思いました。
痛いくらいの沈黙に、マーガレットは視線を落としました。何の前触れもなく、まったくの別人のようになってしまったリチャードを前に、どうしたらいいのか分からなくなって。
従者のくせに全然忠実じゃない態度を取ることには、もう慣れました。一緒にいて、そこが一番心地良いことも、心がどうにかなりそうなくらい自覚しています。
彼個人の言葉をぶつけられる時が、またやってくるなんて。
嬉しさに胸の奥が軋む音が、マーガレットには聴こえた気がしました。だから耳の奥に残りそうな台詞を、溜息と一緒に追い出します。
あれはきっと至らない皇女を感情のままに叱りつけただけ、それだけのこと――――だって、いつまでもわたしの従者だ、って言われたじゃない……と、心の中で囁いて。
「……ありがと」
そう言われて、リチャードが訝しげに眉をひそめます。
けれど視線を落とした彼女は、そんな彼の顔なんて見ることもせずに呟きました。その口元には、ほんのりとした笑みが浮かんでいます。
「ハッキリ言ってもらって助かったわ。
そうね、違うのに着替える。
さっきみたいなことが起きる原因をわたしが持ってちゃダメよね。
……悪いけど、誰か呼んできてくれる?」
その言葉を聞いて、リチャードは自分が吐き捨てた言葉を後悔しました。そして何を言うべきかを考えるまでもなく、いえ、考えようとするより早く、彼の口が勝手に言葉を紡ぎます。
「そういう意味じゃない。
ドレスなんてどうでもいい」
彼は、ただのリチャードになっていました。従者という立場から降りてしまった自分に気づいて、でも、自分を止めることが出来ません。
半ば、自暴自棄。やぶれかぶれ。
どうせこのまま、遅かれ早かれ別れの時がやって来るなら。それを受け入れるしかないなら――――そんなことを、頭の中のもうひとりの自分が訴えるのです。
リチャードは恐ろしく素直なもうひとりの自分に流されるまま、再び口を開いたのでした。それは長いこと考えていたよりもずっと、簡単なことでした。
するとマーガレットが、ぱっと顔を上げました。ちょっぴり小馬鹿にしているような敬語を取り払った彼の声が、どこか怒っているように思えたのです。
「どうでもいい……?」
言葉を砕いて紡いだリチャードを睨むように見据えて、彼女は呟きました。手が、いつの間にか拳を作っています。
昨日のうちに切り忘れた爪が手のひらに食い込むのをそのままに、彼女は言いました。開きかけた口を閉じてしまった彼の横を、すり抜けるようにして。
「あぁ、そう。じゃあもう戻りましょ。
お客様がほったらかしだもの」
口を開いた瞬間に言葉の行き場を失ってしまったリチャードは、咄嗟に手を伸ばしました。戻る、と言い放ったマーガレットが自分の横をすり抜けるのを目にしたのと同時に、体が勝手に動いてしまったのです。
そうして蔦がお日様に向かうように自然に伸びた手は、彼女の腕を掴んでいました。ぱしっ、という小さな音が静かな部屋に響きます。
もちろんマーガレットは驚いて、息を飲みました。目を瞠って、そして自分の腕を捕えたものを視線で追いかけて。だって、従者が主人に触れることなんて、どうしても手を貸さなくてはならない時だけと決まっているのです。
そんな彼女の様子に、リチャードは眉根を寄せました。口に出しても出さなくても、どっちみち苦しいのです。従者として傍にいることが許されても、許されなくても。ずっと。ずっとそうでした。
「……でも、もういいんだ」
自分の耳ですら聞き取れないほどの囁きのあと、彼は言いました。
「――――行くな、メグ」
「リチャード……?」
教会に寄付をしに行く馬車の中ですら、もう少し距離があった気がします。
マーガレットは掴まれた腕を振りほどくことも忘れて、自分が聞いた言葉に驚いて、ただ茫然とリチャードを見上げていました。
そして彼の瞳が揺れることなく自分を見つめ返していることに気づいて、ようやく彼女は言葉を振り絞りました。
「いま……わたしの、こと」
唇がみるみるうちに乾いていきます。心臓がおかしなリズムを刻み、声が震えてしまって、どうしようもありません。
もつれる足で夢の中を走っているようなもどかしさに、マーガレットを己を叱咤しました。しっかりしろ、と。
すると彼女が何か言おうとするのと同時に、リチャードが口を開きました。ほんの少しだけ、眉尻を下げて。震える声を聞いても目を合わせられるだけの心の強さは、持てそうにありませんでした。
「メグ、と……。
すまない。つい口が滑っ――――」
その時です。
“口が滑って”と言おうとしていた彼に、どんっ、という衝撃が走りました。マーガレットが、勢いよく彼の胸にぶつかっていったのです。
「――――嬉しい」
慌てて受け止めたリチャードに口を開かせる間を与えずに、彼女は言いました。
「聞き間違いじゃないよね……?!」
言葉を振り絞って顔を上げたマーガレットの瞳から、歓喜が溢れて零れ落ちます。ぼろぼろと、一向に止まる気配もなく。
鼻先にしわを寄せた彼女が背中にしがみつくように抱きついて、ようやくリチャードは我に返りました。泣いている彼女をそのままにしておいて、いいはずがありません。
「従者でいれば、メグの傍にいられると思っていたんだが……」
彼の口が紡ぐ愛称は何度目かになって、やっとマーガレットの耳に沁み込んでいきます。それは呼吸と共に全身を巡り、彼女の体を小さく震わせました。
「このまま受け入れるのは、納得がいかない。
今日ようやく踏ん切りがついた。
……というか、俺には耐えられそうにないと気がついた」
大抵のことを器用にこなす細い指が、そっと彼女の目尻を拭っていきます。こんなことをするのは、彼女がまだ泣き虫の小さな子どもだった頃以来です。
リチャードは不安そうに揺れるマーガレットの瞳を覗き込むようにして、静かに息を吸い込みました。そして、出来る限り平静を装って言いました。
「メグ、俺――――」
ところがです。彼の言葉を遮るようにして、彼女が言いました。
「結婚しよう、リチャード」
言いたいことをそのままそっくり持っていかれて、リチャードは開いた口を閉じることが出来ませんでした。自分の耳が聞き取ったことが、信じられません。
出来ればもう一度お願いしたい、と彼が思った時でした。
従者の皮を被っていた彼が何も言わないのを焦ったマーガレットが、追い打ちをかけるようにして言い募りました。
今のうちに思いのたけを伝えておかなければ。瞬きしている間に、ちょっと迷っている間にリチャードが従者に戻ってしまう。
もう、悪い結果のことなんて考えられませんでした。体じゅうを駆け巡るのは、彼に向かう気持ちだけです。
「お願い、わたしと結婚して。
リチャードが好き。大好き。好きすぎて心臓が止まりそう。
だから助けて、結婚して。わたしと一生、一緒にいてよ」
矢継ぎ早に投げられた言葉は、どれもこれも真っ直ぐで。開いたままだった口が自然と笑みの形に変わって、リチャードは溜息をつきました。幸せな、温かな溜息を。
「全然変わらないな、メグは」
そう呟く彼の脳裏に蘇るのは、まだ子どもだったマーガレットです。
「子どもみたいに、一気に捲し立てて……」
懐かしさと恥ずかしさと嬉しさと……いろんな気持ちがごっちゃになって、彼は思わず苦笑を浮かべて呟きました。
「でも、そういうところも好きだ。
一生だなんて、簡単に言うけど……」
「簡単に言ったらいけないの?
そうしたいのは、本当のことなのに」
食ってかかるようなマーガレットを前に、リチャードはまた笑ってしまいました。だって、せっかく気持ちを見せたというのに、興奮した彼女は全然聞き取れていないようなのです。
ここにきて、どうして喧嘩腰になるのか。理解出来ない彼は、苦笑混じりに彼女の頬を撫でました。
するとマーガレットが、思い切り口を尖らせました。自分が駄々をこねて、それをリチャードが苦笑混じりに宥めているようにしか思えなくて。
「……リチャードは、いや?
一生一緒にいるのがわたしじゃ、ダメ?」
小さな声で呟いて、マーガレットは不安そうに眉根を寄せました。
リチャードはそんな彼女の頬を軽く抓ると、そっと身を屈めます。
その唇は何かを囁いて、柔らかく弧を描いたのでした。




