ハイヒールを脱ぎ捨てろ 9
それまで唖然としていた警備隊員たちが駆け寄ってきて、何かを喚く青年を引き摺って広間の外に連れて行きます。日に焼けた青年はがっしりした体つきをしていましたが、日頃から訓練を積んでいる隊員たちの前では抵抗すらさせてもらえないようです。
マーガレットは肩に掛けられたテーブルクロスを握りしめて、その光景を眺めていました。
すると、救いの手を差し伸べた彼女が、ぼんやりしているマーガレットに耳打ちしました。
「まずは吠え癖から躾け直しですわね。
それが済んだら、“お座り”も教えて差し上げなくちゃ」
言葉の隙間に、くすくす笑う声が混じっています。
その心地よい声音に、マーガレットはようやく詰めていた息を吐き出しました。そして、溜息混じりに言いました。
「そうですね。
それならぜひ、“待て”と“伏せ”も」
「……あらま、皇女様も結構言いますのね」
マーガレットの言葉に、彼女は口に手を当てて上品に驚いて見せました。もちろん、くすくす笑って楽しそうに。
彼女は、テーブルクロスを肩から掛けているマーガレットの背中を、そっと押しました。そして警備隊のひとりに肩を掴まれた長身の男性に視線を走らせながら、口早に囁きました。
「まあ、これくらいにして。
着替えて、とっとと戻って来ましょう、ね?」
「――――おいおいおいおいリチャード」
入り口とは反対側の扉から広間を出たマーガレットの背中を追いかけようとしたリチャードを、どこからか現れたハンスが引き留めました。がしっと肩を掴んで、彼は言います。
「待て。そして落ちつけ。いいから落ち着け。
……だぁぁっ、お前は先にやることあるだろーがっ」
「うるさい。放せ」
「いいから、先に書類にサインしろ!
一筆もらわないと、注意警告だけで奴は野放しだぞ。
それが皇女様のためになるってんなら、それでいいけど!」
氷のような冷たい怒りを正面から薙ぎ払うように言い放って、ハンスは肩で息をつきました。マーガレットのことしか見えなくなってしまったリチャードが、はたと我に返ったからです。
「あーもーめんどくさー。
お前らほんと、めんどくさー……」
リチャードの肩から手を離したハンスは、天を仰いで呟きます。その小さな声は、騒然とする群衆の声に掻き消されていきました。
広間の裏へ抜けたマーガレット達は、建物の中にある客室のひとつに案内されていました。
皇帝や皇妃の住まう宮殿にも客室がありますが、こちらは質素がそのまま部屋になったような造りをしています。街にある、安価なホテルのようです。
もしかしたら、招待客のお付きで来た者達の宿舎なのかも知れません。
小さな部屋に入ったマーガレットは、肩からテーブルクロスを剥ぎ取って言いました。
「ありがとうございました。
ごめんなさい、お客様の手を煩わせてしまいましたね。
もうわたし、ひとりで……従者も追って来ると思いますし――――」
「さっきの」
広間では勇ましい口上を述べた彼女が、穏やかな声でマーガレットの言葉を遮ります。
くっ、と途中で言葉を飲みこんだマーガレットは、思わず目を瞠りました。助けてくれたことには感謝していますが、まさか自分の言葉が遮られるとは思いもしなかったのです。
今までにそんなことをしたのは、父と皇妃、本当は何人いるのかハッキリしない兄姉、それから小姑のような従者だけでしたから。
ぴた、と動きを止めて驚いているらしいマーガレットを見て、彼女は小さく笑みを零して続けました。
「あのガキんちょ……っと……言葉が悪かったかしら、失礼」
「い、いえ……」
どこか自分と同じ空気を感じて、マーガレットはぎこちなく頷きます。
すると、口を押さえて肩を竦めた彼女が言いました。
「あれは名乗らなかったけれど、皇妃様と無関係ではない家の者です。
……かといって、警備隊が手を緩められる距離ではないですけれど」
「え……?!」
マーガレットは愕然としました。事前に調べさせた時には、分からなかったことなのです。
「ああ、調べてもすぐに分かることじゃないんです。
皇妃様の幼馴染の姉の、婿の弟の嫁の弟ですから」
「……はぁ……」
ぽかん、と口を開けたマーガレットは、何が何だか分からないまま、なんとなく頷いていたのでした。そりゃ赤の他人だ……なんて、心の中で呟いて。
すると彼女は、呆然とするマーガレットに言いました。
「ええ、分かりますよその気持ち。結局赤の他人同士ですもの。
でもね、血の繋がりはなくとも心の距離というものがあります。
皇妃様のことをお慕いしている、って小耳に挟んだこともありますし。
……あ、ごめんなさいね。
皇族のアレコレは、ちょっとだけ存じてますの」
「じゃあ結果的に、皇妃の思惑とは無関係かも知れませんね……」
なんだか力が抜けたマーガレットは、天を仰ぎたくなりました。
そりゃそうです。皇妃には徹底的にやり返して、向こうの方から“関わると労力ばっかりかかって面白くもなんともない面倒な相手”と認識されているはずなのです。
そして今、“よく分からん面倒そうな奴”から受けた屈辱。
「あーなんか……腹立ってきました……!
平手打ちでもしておけば良かったかしら」
初めて直接的な嫌がらせを受けたショックから立ち直るや否や、怒りが湧いてきます。マーガレットは、ぷるぷる震える拳を握りしめて呟きました。
「……まあ、今回のことは鳥のフンが落ちてきたとでも思いましょ。
ほら、新しいドレスが届いたみたいですし」
控えめなノックの音に視線を走らせた彼女が言いました。
「――――ところで、あの3人はどうしてます?」
背中のリボンを綺麗に結った彼女は、唐突に口を開きました。
「えっ?」
彼女が何を言っているのか、一瞬のうちには理解することが出来ません。マーガレットの目が点になりました。このドレスなんだかスースーする……なんて思ったことも忘れて。
すると彼女は、悪戯っぽく微笑んで小首を傾げました。結い上げている金色の髪から、おくれ毛が流れていきます。
「申し遅れました。
わたくし、ジーナといいます。
実は、市場で小さな衣料品店を営んでいて……」
そこまで話したところで、マーガレットが人差し指を突きつけて息を飲みました。
「あぁっ?!
エリカが刺繍を頼まれてるっていう……?!」
「ええ。
クレイグさんの靴も、置かせていただいてます」
うふふ、と楽しそうに笑うジーナとは対照的にマーガレットは口をぱくぱくさせて、驚きを隠せないようです。
そんな彼女を前に上機嫌なジーナは、もう一度尋ねました。
「お手紙をいただいた時はびっくりして……あ、もちろん光栄でしたよ。
でもそれ以上に心配していたんです。
あの3人は、元気にしてますか?」
ひとしきり驚いたマーガレットでしたが、少し時間を置いて平常心を取り戻したらしく、こほんと咳払いをして口を開きました。冷静になったら、当然の疑問が浮かんできたのです。
「わたし、ジーナさんにも招待状を……?」
「いいえ?」
彼女はあっさりと首を横に振りました。
それは一歩間違えたら、クリスと同じ扱いをしなくてはなりません。マーガレットは、びくりと跳ねる心臓を宥めながら言葉を続けました。
「じゃあ、どうして……」
「ハンスさんが市場の聞き込みをしている時に聞いたんです。
エリカさんの義理の弟が……っていう、話を。
それで、人数が減ったなら是非こちらに参加したい、と……。
案外すんなり仲間に入れていただけました」
「そんな簡単に……?!」
しれっと答えたジーナはもちろんですが、無断で招待客以外の者を入れたハンスが、けろっとしていることにもゾッとします。警備隊の副隊長がそんなことでいいのか、と。
けれど、マーガレットが言葉を失ったことにも顔色ひとつ変えずに、ジーナは言いました。
「これでも陛下の従姉の孫ですから。
……絶賛家出中なのが申し訳ないですけれどね」
そのひと言に、マーガレットは脱力して乾いた笑みを浮かべるしかありませんでした。結果論ではあるけれど、ジーナに助けてもらったことに変わりはなかったからです。従者のリチャードを呼ぶのは、本当にどうしようもない時だけと決まっていますし。
それに今となっては、ハンスなりの気遣いだったのかも……とも思えます。だってあの場には、困った時に駆け寄ってくれる女友達なんていなかったのですから。
「――――よかった、3人は元気にしてるのね。
それだけ聞ければ、もう十分だわ」
なんでもない話をした最後にジーナは、ほぅ、息をつきました。
舞踏会が始まるまでの間、招待客たちに自分の名刺を配って営業活動をしていたとはいえ、皇女様から3人の様子を聞けるかどうかハラハラしていたのです。
「わたくし、そろそろ戻らなくちゃ。
明日店に出す商品の検品、まだ残っているの」
するとマーガレットが、ちょっとばかり不安そうに彼女を見つめました。いくつか会話をするうちに、すっかり打ち解けたのです。ジーナの商売根性には感服し、性格や価値観は彼女と近いものがあり……。
こうなったらもう、舞踏会に紛れ込んだ経緯なんてどうでもいいことでした。
「……せっかく来たなら、最後までいればいいのに……」
「また必ず会えますってば。あなた宮殿を出るんでしょう?
その時は、一番に市場のわたくしの店にいらしてね。
お友だち価格でご提供しますから」
困った顔をして微笑んだジーナは、最後にもう一度マーガレットの新しいドレスに変なところがないかチェックをします。衣料品店の主人らしく、そういうところは気になるようです。
そして彼女は、寂しそうに溜息をついたマーガレットに囁きました。
「さあ、そろそろ従者の方が迎えにいらっしゃるわ。
……ちょっと刺激が強いかもですけれど、ま、問題ないでしょ。
じゃあね、メグ。お元気で」
ジーナの意味深な言葉に、マーガレットは首を捻るしかありませんでした。だって、呼び止めようとした時には、すでに彼女はドアから滑り出てしまった後でしたから。
だから、マーガレットが「嵐みたいな人だったわね……」と呟いた声を、彼女が聞くこともなかったのです。
ぱたん、とドアを後ろ手に閉めて、ジーナは溜息をつきました。そしてすぐに、廊下の向こうから長身の男性が一直線にこちらへ歩いてくるのに気づきました。
「……あ」
たしかあれはマーガレットの従者のはず……そう気づいたジーナは、軽く手を上げながら彼に駆け寄ります。
すると彼は、怪訝そうにしながらも彼女の前で立ち止まりました。
「よかった。
広間を出る前の目配せ、気づいていらしたのね。
来なかったら、呼びに行こうかと思っていました」
ジーナのいきなりな言葉にリチャードは片眉をぴくりと動かしました。そして、苛立ちを飲み込んで口を開きました。
「……マーガレット様のお部屋は、どこですか」
「皇女様なら、そこ……もうひとつ向こうのお部屋です。
お着替えを済ませてお待ちですわ。
早く行って差し上げて」
無愛想な従者に軽く手を振った彼女は、それだけ言うとスタスタと行ってしまいます。
咄嗟に呼び止めようとしたリチャードでしたが、すぐにマーガレットが優先だと思い直して歩きだしました。
ふぅ、と息をついた彼は、ドアを控えめにノックしました。
マーガレットがいるという部屋の前に、控えている者はいません。ただ、廊下の突き当たりに警備隊と近衛兵が佇んでいます。
さっきの彼女が人払いをしたのか、と怪訝そうに目を細めましたが、そんな考えはすぐに掻き消されてしまいました。部屋の中から、返事があったのです。
「失礼します。お迎えに――――」
中に入るように言われたリチャードはドアを開け、そして固まりました。
マーガレットは思わず振り返りました。お決まりの台詞を吐いて、ついでに小言のひとつやふたつも投げてくると思っていたのです。
「ん?
どうしたのリチャード」
きょとん、と小首を傾げた彼女は、とてて、と固まって動かなくなった従者のもとに駆け寄りました。
すると、我に返ったリチャードが一歩後ろに下がります。手で口元を押さえて。
「……あ、いえ」
なんとも歯切れの悪い返事に、マーガレットは怪訝そうに彼の顔を覗き込みました。彼が視線を合わせてくれないのです。それになんだか、珍しく何かに動揺しているみたいで。
「なによ……気持ち悪いわねぇ。
いつもは言わなくていいことまでズケズケ言ってくれるのに」
なんだか調子狂うわ、と彼女は呟いて、溜息をついたのでした。
リチャードのハッキリしない態度に見切りをつけたマーガレットは、ジーナが掛けてくれたテーブルクロスを手に、口を開きました。
「来てくれてありがと。
……それじゃ、戻りましょ」
すると、リチャードが弾かれたように彼女に視線を向けました。
その瞬間、ぱちり、とふたりの目が合います。
マーガレットは何か言いたそうな従者の顔を見つめて、小首を傾げました。
「お客様をほったらかして来ちゃったし。
早く戻った方がいいわよね?」
正しいことを言っていると疑わない彼女の言葉に、リチャードは歯ぎしりしたい気持ちを押し殺して口を開きました。
「……マーガレット様」
「なに?」
彼女はもう溜息混じりです。若干疲れているのかも知れません。いろいろとありましたから。
リチャードは目の前の小娘に自分が呆れられているのを自覚しながらも、それに対しての怒りとはまた別の気持ちを胸いっぱいに抱えて言いました。
「別のドレスにした方がよろしいかと」
瞬きをくり返したマーガレットが、口を尖らせました。
「どういう意味よ。
そんなに可笑しい……?」
するとリチャードは、苦虫を噛み潰したような表情で首を振ります。それは、彼の顔を見上げることの多い彼女ですら、あまり見たことのない表情で。
「いや、そういうことでは……」
言いながら、視線がうろうろ。
本当に言いたいことは、それとは違うんだろうな……とマーガレットが思ってしまうのも仕方のないことでしょう。
彼女はハッキリしない従者に腹を立てました。拗ねた、という表現も妥当かも知れません。
「ちゃんと言って。
宮殿でわたしにハッキリ物を言えるのは、あなただけなの。
あなたが言葉を濁したら、わたしは誰を信用したらいいのよ……!」
声を荒げるわけにもいかない皇女様が精一杯感情を爆発させると、その従者は眉間にしわを寄せて奥歯を噛みしめました。
もう言うしかありません。一応言葉を選ぶ必要がありますが、言うより他なさそうです。自分のこととなると、途端に察知能力が落ちてしまう彼女のことです。きっと広間に行って、年頃の青年達の視線に戸惑って気づくのでしょう。
リチャードは、深く息を吐き出してから口を開きました。
「大胆過ぎます。肌の露出を抑えるべきです。
正直に申し上げて、目のやり場に困ります。
さきほどのクソガキのような輩が寄って……きたとしても――――」
そこまで一気に捲し立てた彼が、額を押さえました。
その時、リチャードは思いました。ああもう駄目だ、と。
苛立ちがまったく収まらないのです。マーガレットのドレスを破いた品のない青年は、ちゃんと警備隊がお持ち帰りしてくれたというのに。正しい方法で、正しい手順で罰することになるというのに。
彼女の無防備さを目の当たりにしたら、もう、苛立ちどころの話じゃなくなってしまいました。
そしてリチャードは、囁きほどの声で言ったのです。
「ただの従者の俺じゃ、何もしてやれない」




