ハイヒールを脱ぎ捨てろ 7
ドアノブには、“起こさないで下さい”と書かれた札がかけてあります。
その閉ざされたドアの前に立ち尽くしたマーガレットは、小さな溜息を零しました。
舞踏会の会場になる広間に出向いている間に起こった出来事は、彼女を戦慄させ、そして後悔のどん底に叩き落としました。
バルフォア家の後継ぎが舞踏会への“参加自粛のお願い”に腹を立て、皇帝陛下の庭であるこの場所に忍び込んだことは、取り調べに立ち会ったという警備隊副隊長のハンスの口から教えてもらったことです。
事の詳細を聞いたマーガレットは、自分を責めました。
他ならぬ自分が、クリスに手紙を出したのです。もっと他の方法があったかも知れない、などと思わずにはいられません。
「マーガレット様」
暗い気持ちで佇む彼女に声をかけたのは、従者のリチャードです。
彼は溜息を口の中で噛み殺して言いました。もちろん、さっきまで手を繋いでいた子どもの眠りを妨げないよう、出来るだけ声を潜めて。
「クリストファーに自粛を求めたことは間違ってなどいません。
彼の街での振る舞いは、少々目に余るものがあったそうですし。
それに……我々に出来ることは、もとから多くはなかったはずです。
エリカが先に出会ってしまったことが不運だったのですよ。
むしろ、マーガレット様が鉢合わせしなくて良かっ……」
「――――リチャード」
相手に言葉を最後まで言わせないなんて、マーガレットにしては珍しいことでした。だから、彼は思わず息を詰まらせてしまいます。
彼女は振り返らずに、静かな声で言いました。
「やめて。
……そんなこと言わないでよ」
感情の籠らない声の内側に隠した激情を感じ取って、リチャードは口を噤みました。その手が、ぎゅっと握りしめられます。
いつもそうだ……と、彼は内心で独りごちました。
このお姫様は、頑なに壁を作る。子どもの頃から、ちっとも変わらない。慰めることすら他人に許そうとしない。
仲良くなった使用人に皇妃が難癖をつけて辞めさせた時も、可愛がっていた猫がいなくなり、変わり果てた姿で戻ってきた時も。
反撃どころか百倍返しをするくせに、殻に閉じこもる。誰にも助けを求めず自力で乗り越える代わりに、誰も寄せ付けない。
リチャードは心の中で、いえ頭の中で溜息をつきました。ほんの少しでも空気が揺れれば、きっとマーガレットは気づくでしょうから。
出来ることなら、今、この場で言ってやりたい言葉はいくつもあります。けれど、言ってしまえばマーガレットは彼のことですら、遠ざけようとするでしょう。
マーガレットには部屋付きの使用人も、皇女でなくても相応に身分やお金があれば付くはずの侍女もいません。
それは、いろんな人から受けた数々の嫌がらせの結果でした。
「わたしだけに手を出しなさいよ。そうしたら、ぜんぶ受け止めて捻り潰してやる」と、動かなくなった猫を抱いて呟いたのは、彼女が14の時だったでしょうか。
それ以来、彼女は自分の世話をする人間を極力減らしてきたのです。彼らの食い扶持がなくならないように、帝都にいくつかある教会と孤児院に仕事を用意したりして。それだって、国から割り当てられた彼女のための予算を遣いました。
もちろん言葉の通りに、嫌がらせの根源は全部ぶっ潰しました。それでも「何をきっかけに嫌がらせが始まるかは分からない。だから、このままでいい」と、今も人を遠ざけたまま。
ともかくそういうわけで、リチャードはマーガレットに腹を立てているのです。絶対に絶対に、勘付かせはしませんが。
最後まで遠ざけないつもりなら最後くらいは甘えてほしい、そう願うのは、従者の我儘ではないと思うのです。
重たいドレスを着たマーガレットが、馬車に乗って小さな宮殿を出発した頃。クレイグとエリカは、夕食の席についていました。
ぎこちなかった初日を振り返れば、ここ数日はずいぶん明るい雰囲気で食事をとることが出来ていたはずでした。けれど今日ばかりは、食べ物の味も分からなくなりそうです。
「――――あれ?
コニーは?」
遅れて部屋に入ってきたハンスの言葉に、エリカが口を開きました。本当なら立ち上がって挨拶をしたいところですが、椅子にお尻がくっ付いて離れません。
「やっと眠ったので、起こさずに来ました。
今は、コニーと仲良しの使用人さんが付いてくれてます」
「ぐずって大変だったんだ。
寝たり起きたりを何回もくり返して」
エリカに負けず疲れた顔をした友人が付け足すように言ったのを聞いて、ハンスが申し訳なさそうに眉間にしわを寄せました。
「ごめん、ほんとに何て言ったらいいか……」
そう言って、彼は頭を下げます。
会ったのは靴屋にやって来た、あの一度きりでした。けれど、その時のへらへらと陽気な印象が強かっただけに、エリカは目の前のハンスの態度に驚いて言葉が出てきませんでした。
するとクレイグが、ぼそりと言いました。
「もういいって。
お前の腰が低いとか、ちょっと気持ち悪い」
エリカが咄嗟に頷いてしまったのは、きっと疲れていたからです。
クレイグの「今日は、全部の料理を一緒に持ってきて下さいますか。本当なら、給仕をしていただく立場ではありませんから」というひと言に眉を八の字に下げた使用人が、なんだかちょっと悲しそうに料理を並べていきます。
肉の焼ける香ばしい匂いや、瑞々しい果物。それから湯気の立ち昇るスープ。すごく美味しいことは舌とお腹が知っているのに、まったくもって食欲が湧きません。
エリカは、そっと溜息をつきました。なんだかもう、座っているだけで精一杯かも知れません。
使用人が料理を並べ終えたところで、ハンスが口を開きました。
「今日は、さ」
彼が話し始めた途端に、クレイグが顔をしかめます。
するとハンスは、手を振りながら言いました。
「はいはい気持ち悪くてすみませんねー」
その表情は憮然としていて。けれど、どこかに苦笑が混じっています。
だからエリカは、思わず噴き出してしまいました。
彼女は慌てて口元を押さえましたが、あんまり意味はなかったようです。ハンスが、溜息混じりに口を開きました。
「ま、睨まれるよりいっか……」
エリカの頬が緩んだのを見て、クレイグも肩から力を抜いたのでした。彼女とコニーの手前、気丈に振る舞っていましたが、やっぱり大の男でもいろいろあれば疲れるようです。
「ええと、だから……」
ハンスは、最初に言おうとしていたことを思い出しながら言いました。
バルフォアの話題を耳に入れてもエリカが大丈夫なら、とクレイグはフォークを手に取りました。何か胃に入れないと、とれる疲れもとれません。
「今日は舞踏会の警備の打ち合わせで、こっちにいたんだ。
ついでにバルフォアの坊っちゃんのこと、相談しててさ。
――――あ、侵入経路も分かったよ。
街をふらついてたおっさんに金渡して、門番の気を引かせたらしい。
で、その間に門を抜けて、林の中を移動してたんだとさ。
そのへんは近衛の問題だから、詳しくは教えてもらなかったけど」
「そう、だったんですか……」
エリカがぎこちなく頷きました。知りたいような、知るのが怖いような。でも、逃げてはいけないような気もします。
すると、ハンスが手近にあったワインのボトルを手にして口を開きました。
その様子を横目にクレイグがしかめ面をしていますが、本人は気づいているのにどこ吹く風。「飲まなきゃやってらんねーもん」なんて口を尖らせてエリカに向けてウインク。
ウインクする男の人なんて初めてみたものですから、彼女は乾いた笑みを浮かべるしかありませんでした。胸の内で、ハンスさんまだお仕事中だった気がする……なんて呟きながら。
グラスに注いだワインを一気に流し込んだハンスは、飲む前と何ら変わりなく言葉を続けました。彼にとって、ワインと水は同じく喉を潤すために飲むものなのかも知れません。
「大変だったよね、エリカちゃんも。
本人から聞いた話しか知らんけど、なんだかもう、ね。
あんなのと一緒に暮らしてたら、そりゃ逃げたくなるわ」
同情たっぷりなハンスのひと言に、クレイグは咀嚼していたものを急いで飲み込んで口を開きました。
「彼は何を話したんだ」
「うーん……会話の再現は自主規制するわ。聞かせらんない。
すんごい意訳するとだな……。
思いを告げた翌日にいなくなったから、血眼になって探したんだと。
世の中を知らない義理の姉を守れるのは、自分しかいないらしい。
だから帝都で痛い目に遭う前に家に連れて帰るんだ、って言い張ってる。
参加自粛の手紙を寄越した皇女様に抗議したくて忍び込んだけど、
偶然義理の姉に再会したんだと。
これはお互いに引き合ってる、ふたりは一緒にいる運命!
……なんだとさ」
「狂ってるな……」
呟いたクレイグの顔が、これ以上ないくらいに歪められます。その表情をうっかり見てしまった使用人が、料理が美味しくなかったのかとハラハラしてしまうほど。
するとエリカが、水の入っていたグラスを勢いよくテーブルに置きました。
どんっ、という音が響いて使用人が首を竦めます。空になっているのを見ると、どうやら彼女が一気に飲み干したようです。
「ちょっ……エリカ……?」
瞳に戸惑いの色を浮かべて、クレイグが囁きました。
するとエリカは、手をぎゅっと握りしめて息を吸い込みます。
「――――あの子、ちゃんと罰を受けるんですよね?
自分の思い通りにならないからって、コニーをあんな目に……!
私はいいんです。そういうの慣れてるし。
でもコニーとクレイグさんを巻き込んだのだけは、許せない」
畳みかけるような勢いで思いの丈を口にしたエリカは、震える息を吐き出しました。唇を噛んで、眉間にしわを寄せて。
そして、最後のひと息をつくのと同時に呟きました。
「でも、自分のことが一番許せない……。
何も出来なかったもの。
クレイグさんとコニーのこと、守りたかったのに」
ふいに、ハンスが立ち上がります。
絞り出すように呟いたきり俯いていたエリカは、はっと我に返って口を開きました。
けれど彼女が何か言う前に、彼がひらひらと手を振りました。にっ、と意味ありげな笑みを口の端に忍ばせて。
「仕事戻るわ。
エリカちゃんの意向は、しっかり陛下に伝えとくよ。
バルフォア家をぶっ潰せ、ってやんわり言ってみるねー」
「へ、陛下にですか……」
エリカの声がうわずります。発言の内容よりも宛先を気にしてしまうあたり、彼女の心にぶら下がっていたものも、そろそろ消える頃なのかも知れません。
クレイグも止めないところを見ると、彼も平気な顔をして怒り心頭なのでしょう。そりゃそうです。気を許した女の子と愛する娘を傷つけられて平気な男は、男じゃありません。
そんなことを考えて意味深な笑みを深めたハンスは、視線を走らせました。もちろん、平気な振りをしているクレイグに。
「俺に出来るのは、それくらいだからねー」
「……おい」
言葉に何か潜めてあるのを感じ取ったクレイグが、訝しげに眉根を寄せます。
ハンスは、よく分からない、といった表情を浮かべて首を傾げているエリカを一瞥してから、もう一度クレイグと目を合わせて言いました。
「女の子に“守りたい”だなんて言わせんな。ばーか」
口の中に砂利を敷き詰められたのかと思うような居心地の悪さに、クレイグが思い切り顔をしかめました。
するとハンスは、ダメ押し、とばかりに言いました。
「お前もそろそろ、前見たって良い頃だろ。
あ、人生って何回でもやり直せるらしいっすよー」
俺もやり直してぇー、なんてボヤキが、背中から聴こえてきます。
「……余計なお世話だ」
そう言いながらもクレイグが口の端に笑みを乗せた理由は、エリカにはまったく見当もつきませんでした。食事中ずっと考えても、さっぱりです。
おかげで、食べ物の味がごちゃごちゃになってしまったのでした。




