ハイヒールを脱ぎ捨てろ 6
背筋のしゃんとした老人は、ふむ、と吐息を漏らしました。
彼は、倒れたまま時折呻いているクリスを一瞥すると、髪がぼさぼさで顔がぐしゃぐしゃのコニーに視線を移しました。それから疲れた顔のクレイグ、頬に涙の痕が残るエリカに目を遣ります。
その間、彼は無言で。とても鋭い目つきをしていて。
だから、顔見知りであるらしいコニーですら、なんとなく口を開くことが出来ませんでいた。無意識に人を警戒してしまうくらいには、クリスにされたことは彼女の心に傷となって残っているのです。
「何があった」
どこか緊張感を伴う沈黙を破って、老人は言いました。
彼の口調と雰囲気から、クレイグは思うところがありました。この“ひょっとして……”は、マーガレットが靴屋にやって来た時にも感じたものです。
けれど精神的に疲労感でいっぱいの彼は、その予感をねじ伏せることにしました。きっと気のせいだと、自分に言い聞かせて。
とにかく今は、マーガレットの住まいに戻って休まなくては。コニーもエリカも、もちろん自分も。もうくたくたです。
彼は、何も言えないで固まってしまった娘の代わりに言いました。
「どういうお知り合いでしょうか」
すると老人が片方の眉をぴくりと跳ね上げて、ゆっくりと口を開きました。
「そういうお前は、何者か」
「私は――――」
クレイグがコニーの父親だと名乗ろうとした、その時でした。
にわかに人が集まってくる気配がして、彼は思わず口を閉ざしました。
バタバタと足音を立てて駆けてきたのは、手に槍や剣を持った近衛兵でした。
彼らは駆けつけるなり散り散りになって、クレイグ達を取り囲みました。そして、持っていた武器を躊躇なく向けてきます。
「……これは」
一体どういうことなのか。
そう尋ねようとしたクレイグを、老人が手で制しました。
「お前達は手を出すな。さがっていろ。
私は、この者達に用があるのだ」
四方から鋭い視線を浴びたコニーが、首を竦めて目だけを動かして様子を見ています。普段目にする機会のない剣や槍を前に、興味関心が全開になる気配もありません。
そんな娘を抱きしめる腕に力を込めて、クレイグは老人を見返しました。
エリカもクレイグの痛々しい手を握ったまま、事の成り行きを固唾を飲んで見つめていることしか出来ません。
3人は、本当に何がなんだか分かりませんでした。
そして、近衛兵達が指示に戸惑って動くに動けないのを見かねたのか、老人が再び口を開いた、その時でした。
「――――いなくなったと思ったら、こんなことに……」
「ちょっ、えっ、何これどうなってんの」
溜息混じりの、どちらかといえば呆れ半分な声と、驚きにうわずった声。
そのどちらも知っているクレイグとコニーとエリカの3人は、詰めていた息を思い切り吐き出して全身の強張りを解いたのでした。
「この場は自分が引き受ける。ひとまず――――
そこに転がってるバルフォアのご子息を、丁重かつ慎重に運べ。
どこでも構わないから、とりあえず客室に閉じ込めておいて欲しい。
……いや、最上階がいいか。
監視の方法は任せると隊長に伝えろ。
おそらくマーガレット様が様子を見に行かれるだろう、とも。
分かっているだろうが、絶対に逃がすなよ」
テキパキと指示を出したリチャードに、近衛兵が敬礼します。一糸乱れぬ動作から、日ごろの訓練の成果が垣間見えるようです。
すると彼らの内の数人がクリスの体を起こそうとして、リチャードを仰ぎ見ました。
「リチャード殿、骨が折れているようです……」
「は……?」
訝しげに眉根を寄せた彼は、はっとした表情を浮かべて視線を走らせました。その先にいるのは、もちろんクレイグです。
リチャードが目を向けたのを察した近衛兵達や老人、さらにはエリカ達までがクレイグを見つめました。
「あー……」
注目を浴びたクレイグは、気まずそうに頬を掻いて近衛兵に言いました。
「凶器を持っていたので、こちらも必死で記憶がちょっと……。
とりあえず、手と足、片方ずつ折れているかも知れません。
……それから、歯も。何本か、たぶん」
「……隊長に指示を仰いでくれるか」
リチャードは、ちょっとだけ面倒くさそうに言いました。こっそり溜息を零しているのが聴こえてきます。
クレイグはクリスの怪我について、近衛兵から何やら尋ねられているようですし、あの老人はどこからかやって来たお付きの人らしき数名に囲まれて、これまた何やら話をしています。
そんなわけで、思わぬ時間が出来たエリカは、コニーの髪を手で梳いているところなのですが。
絡まった毛を丁寧に梳いているつもりが、ラベンダーの匂いを染み込ませた柔らかいコニーの髪が、エリカの指に絡まって抜け落ちていきます。
すぐに分かりました。エリカの手によって今、抜けたのではありません。おそらくクリスに強い力で引っ張られたせいでしょう。
エリカは自分の手についたコニーの髪を見て、泣きたい気持ちになりました。
すると、こんな小さな女の子に……と唇を噛みしめていたエリカを肩越しに振り返って、コニーが小さな声で囁きました。
「エリカちゃん?
……だいじょーぶ?」
心配そうに瞳を揺らす彼女を前に、エリカは思わず手を止めました。紐で結ぼうとしていたポニーテールが、ぱさりと舞います。
「……エリカちゃん?」
エリカは、胸を軋ませる痛みごとコニーの小さな体を抱きしめました。もしかしたら知らず知らずのうちに、幼い日の自分をコニーに重ねていたのかも知れません。一番怖い思いをしたはずのコニーの口から零れた言葉が、痛々しく思えたのです。
彼女は、そっと息を吸い込んで口を開きました。
「――――ごめん……」
他にどう謝ればいいのか分からなくて、彼女は抱きしめる腕に力を込めました。すると腕の中の温もりが身に沁みたのと同時に、瞼の裏にクリスの振り上げたナイフの鈍い輝きが翻ります。
エリカは声が震えそうになるのを押し殺して、吐息混じりに囁きました。
「コニーが無事でよかった……ほんと、よかった……」
ふと、エリカの腕の中でおとなしくしていたコニーが項垂れて言いました。
「おはな……ダメになっちゃった……」
そういえばすっかり忘れていましたが、大事に抱えていたバスケットがあったはずなのです。それを探して、コニーは視線を走らせました。
その時です。
「――――花が欲しいのか、靴屋のコニー」
いつの間にそこに佇んでいたのか、老人が言いました。
コニーとエリカが、弾かれたように顔を上げます。
「う、うんっ」
すると勢いよく頷いた彼女を見た老人が、ゆっくりと身を屈めて口を開きました。
「私の庭で、怖い思いをさせた詫びをしよう。
この間の贈り物の礼もしたい」
エリカは内心で首を捻りました。老人はしかめ面で、しかも全然お礼をしたいと思っているような雰囲気ではないのです。
コニーったら、こんな人といつ知り合ったんだろう……。
彼女がそんなことを考えていると、近衛兵達と話し終えたらしいリチャードがやってきました。
「――――ご政務はよろしいのですか」
一直線に歩いてきた彼はそう言って、エリカとコニーには目もくれずに、老人の前に膝をつきました。
すると、同じように話を終えたクレイグともう一人、見知った顔がやって来て跪きます。
集まった男達に下から見上げられて、老人は嫌そうに顔をしかめました。
「……立て。
畏まった挨拶は好かぬ」
ぽかん、としたのはエリカです。
自分が蚊帳の外なのは分かりますが、なんとなく口を挟んでいい雰囲気じゃないことも分かります。
だから彼女は、相手が畏まってしまうのはお爺さんが怖いからじゃ……なんて、そんな失礼なことを考えながら、口をぴったり閉じました。
コニーはコニーで、特に驚いたふうもなく老人を見上げていました。
自分の父親が膝をついて誰かに接しているのを見るのは珍しくはないのです。靴を作る時に、お客さんの足を計測しているのを見てきましたから。
老人の言葉に、リチャードとクレイグが立ち上がります。
けれど、あと一人が膝をついたまま言いました。
「申し訳ありません。
今回のことは、警備隊が未然に防げたはずです。
それが、よりによって陛下のお住まいでこのようなことに……」
彼の言葉に、クレイグは“やっぱりな”と胸の中で独りごちました。
予感はしていましたが、まさか本人の目の前で尋ねて確かめるわけにもいかず……。けれど、一応リチャードと同じように振る舞ってみて正解だったようです。
数人の共しか連れていない目の前の老人は、やっぱり皇帝陛下だったのです。
「お前はたしか……副隊長のハンスだったか」
老人がいくらか声を和らげると、彼は顔を上げました。いつかエリカが言葉を交わした、どこか頭の軽そうで陽気な男性とはまるで別人のようです。
「気に病むな。
悪意の芽を摘むのは容易ではない。
私とて、事態に対処することが精一杯だ」
“あれ”と聞いて、エリカがわずかに顔をしかめました。
どうしようもない男でしたが、生まれた時から見てきた義弟なのです。それなりに可愛らしい時期もありました。
……そんなことを思い出した今でも、肩を持とうだなんて気はさらさらありませんが。
皇帝陛下といくつかの会話をして、ハンスが立ち上がります。横からクレイグが何やら言いたげな視線を送っていますが、彼はどこ吹く風。まったく気にする素振りを見せません。
そんなふたりは目に入らないのか、皇帝陛下は少し身を屈めてコニーに向き直りました。
「……それで、靴屋のコニー」
「なあに、おじいちゃん?」
我が子の豪胆っぷりに、クレイグは絶句しました。というか、顔面が蒼白になりました。血の気が引いて、なんだかふらっとします。
そしてリチャードは呆れ顔になり、ハンスは口をあんぐり開けたまま固まってしまいました。
けれど当のコニーはへっちゃらです。大人たちの反応なんて眼中にないのか、皇帝陛下に向かって小首を傾げました。
「礼と詫びをしたいのだが。
お前の望むものは何か、言ってみるがいい」
「んー……と……?」
怖い顔で問いかけられて、コニーは困りました。言葉がちょっと難しいのです。
困った彼女は、そばにいたエリカを見つめました。
「ええっと……」
エリカはちらりと皇帝陛下を見遣ってから、コニーに囁きました。
「お爺さんがね、コニーに何かプレゼントしたいんだって。
何が欲しいか、言ってごらん、ってことみたい」
少しは世間慣れしたかと思われたエリカまでもが皇帝陛下を“お爺さん”呼ばわりして、クレイグは額を押さえて天を仰ぎました。
これならクリスが暴れた時の方が、百倍心臓に優しかった気がする……と。
隣では、ハンスが噴き出しそうになったのを必死に堪えています。
するとエリカが囁いた瞬間に、コニーの顔がぱっと明るくなりました。
そこはかとなく嫌な予感がした父親が口を挟もうとしますが、手遅れです。彼が息を吸い込んだのと同時に、小さな両手が元気にパチン、と音を立てました。
「わたし、ばしゃにのりたい!」
「……叶えよう」
多少の沈黙があったものの、皇帝陛下がふたつ返事で頷きます。思っていたのとは違ったようですが、ひとまずお礼としての格好は整いそうだ、と。
彼は難しい顔をそのままに、言いました。
「それだけか?
怖い思いをさせた詫びに、もうひとつ望むものはないか」
「んー……」
考えて答えたことを横に置かれて、コニーは頬をぷうっと膨らませました。けれど、すぐにそれが萎んでいきます。
いいことを思いついたのです。興味あるものに突撃して、気の済むまで突き詰めるコニーにしては、至極真っ当ですばらしい、名案ともいえることを。
彼女は小さな唇で、さえずるように言いました。
「あのねわたし、おねえさんのおねがい、かなえたい。
ほんとは、おはなでかんむりをつくって、あげようとおもって。
でも、おはな、ダメになっちゃったから……。
だからおじーさんが、おねえさんをげんきにしてあげて」
皇帝陛下は、今度こそ沈黙しました。
もともと子どもと意思疎通をするのは、彼には無理があるような気はします。いくらコニーが話の分かる、賢い子どもだとしても。
困っているのか怒っているのか。それとも呆れているのかも、表情が読めません。
エリカはコニーが小首を傾げて返事を待っていることに気づいて、口をぴっちり閉じた皇帝陛下に、そっと声をかけました。とりあえず、今彼女が理解していることだけでも伝えるつもりで。
「この子、マーガレット皇女様に花冠を作るつもりだったみたいです。
でも、一生懸命集めた花をクリスがバラバラに……」
「よつばのクローバーも!
……どっかいっちゃった……」
エリカの代弁に、そう付け足したコニーが俯きます。
すると皇帝陛下は、小さな頭に手を置きました。
「いいだろう。
マーガレットに直接、望みを尋ねることにする」
「コニー、陛下に何をしたんだ?
いつの間に、礼をされるようなことを?」
聞きたいことを聞けたらしい皇帝陛下が去ってすぐに、リチャードがコニーに尋ねました。
少し離れた所では、クレイグが何やらハンスを問い詰めています。エリカは何とかクレイグを止めようと、わたわたしているようです。
「ん?」
ふいに声をかけられたコニーは、転がっているバスケットを拾って答えました。
落ちて踏まれた花達を拾うかどうか迷う小さな手が、ぎゅっと握りしめられてから、思い切りよくリチャードに伸ばされます。
「よつばのクローバーあげたの。
……リチャくん。て、つなご!」
「なんでそうなるんだ……」
ぼやきながらも、リチャードは小さな手を取りました。ついでとばかりに、コニーの手から掠めるようにバスケットを取り上げます。
そして彼は、口の端にほんのりを笑みを乗せて呟きます。
「……四つ葉のクローバーか……」
その瞼の裏に浮かぶのは、やっぱり白い花の皇女様なのでした。




