ハイヒールを脱ぎ捨てろ 5
「姉さんが世話になったみたいだね。
それなら、挨拶くらいはしておこうかな。
どうも。僕はクリストファー・バルフォア」
上滑りする嬉しそうな声とは裏腹に、その手にはコニーの髪が握られたまま。
鼓動が早鐘のように打ち付けるたびに、体温が奪われていくようです。土に触れた手のひらは冷たくて、これが悪夢でないことをエリカに突き付けています。
すべてが振り出しに戻されたのを悟った彼女は、底なしの沼に引きずり込まれるような感覚に目を閉じるしかありませんでした。
その一方で、少しだけ冷静さを取り戻したクレイグは思い出していました。
たしか、リチャードが言っていたのです。「マーガレット様は陛下にご報告した上で、バルフォア家には舞踏会参加辞退のお願いをするそうだ」と。それは事実上、今日、宮殿にあがることは禁止されているということ。
それが何故、どうして本人がこんな所で、こんなことをしているのか……。
内心で首を捻りながら、クレイグはクリストファーと名乗った男を見上げました。コニーのことは心配だけれど、今のところ彼の注意はエリカにだけ向けられているようです。
コニーが錯乱も抵抗もせずにいるのを確認して、思い切って口を開きました。
「君は、ここには入れないはずだ。
辞退を促す手紙は届かなかったのか?」
彼の言葉に、クリスの目が険しくなりました。
「なんで、あんたがそれを……」
どんな言葉を選べばいいのかなんて考える余裕もなかったクレイグは、すぐに後悔しました。
こういう種類の人間は、自分がこの世で一番偉くて特別なのです。昔、家業を継ぐべく勉強していた時の学友のなかにも、そういう者がいました。
だから、きっと投げた言葉はクリスの癇に障ったのだとクレイグは思いました。もしかしたら自分に向けられた怒りが、コニーに飛び火するかも知れない、とも。
……もっと冷静にならないと、相手の調子に飲み込まれてしまうかも知れない。
わずかな間に考えを巡らせたクレイグは、急いで息を吸い込みました。
「エリカの友人が教えてくれた」
自分の名前を聞き取ったエリカは、ぱちっと目を開けました。彼の唇が自分の名前を紡いだ、というだけのことなのに。急に意識がハッキリしたのです。
まだ膝が笑って立ち上がることは出来そうにないけれど、胸の中に溜まる一方だった息を吐き出して顔を上げます。
目の前でコニーの髪を掴む、どうしようもなく理不尽で我儘な男は他でもない自分の義弟なのです。望んだわけではないけれど。
逃げ出すキッカケになった義弟を前に、エリカは震える唇を開きました。
「だ……、誰にも言わない……。
だからクリス、このまま帰って……!」
「な……」
面と向かってぶつけられた彼女の言葉に驚いたのか、クリスは絶句しました。
そして、そのひと言は当のクリスはもちろん、クレイグにとっても衝撃的でした。あんなに取り乱す原因になった義弟に向かって、“帰れ”と言えるとは思わなかったのです。
「……エリカ……」
感心半分に呟くと、クレイグはエリカの腕をそっとさすりました。
その時です。
「――――いたいぃっ」
「クリス……!」
響いた金切り声に、エリカが今にも泣きそうな顔をして言いました。
そんな彼女の咎めるような視線を受けたクリスは、あからさまに顔をしかめてコニーの髪を掴む手に力を入れました。
その途端にまた、コニーの涙声が小さな口から零れます。
可愛い娘が見知らぬ男に理不尽に泣かされているのを見て、クレイグはこれ以上ないくらいに激昂していました。けれど、同じくらいに冷静でした。
クリスを睨みつけた彼は、エリカの頭を軽くぽふぽふしてから、ゆっくりと立ち上がりました。義弟に向かって意思表示が出来るなら、とりあえず大丈夫。そう思ったのです。
「ここに入ってしまった以上、君は近衛に捕えられる。
そしてきっと、その罪はバルフォア家が被ることになるだろう」
クレイグは静かな声に怒りを滲ませて言いました。
「――――娘を返すんだ」
その言葉を、クリスは鼻で笑って肩を竦めました。
彼にはクレイグにかける言葉なんて、ないのかも知れません。
「じゃあ姉さん、行こうか」
「……え……?」
エリカの唇から、掠れた声が零れました。呆然とする彼女の目には、不敵な笑みを浮かべる義弟の姿が映るばかりです。
つい今しがた、“迎えにきた”という義弟を拒絶したばかりなのに。なのに、どうしてそんなことを。
よく分からないながらも、頭の奥の方で警鐘が鳴り続けていることに、エリカは気づいていました。
いえ、屋敷を出た今だからちゃんと感じ取れたのかも知れません。義弟はどうやら、尋常ではなさそうだ、と。
「本当に姉さんは……。
まあ、言って分かれば僕も苦労しないんだけどさ」
エリカが呆然として一向に首を縦に振らないことに、クリスは舌打ちをして言いました。そして無造作にポケットに手を突っ込んで取り出したのは、小ぶりのナイフ。
それは、色とりどりの花が散らばる場所にはあまりに似合わない、鈍い色をした悪意を放って、コニーの頬に向けられました。
その冷たく小さな刃がぴたりと触れた瞬間。
コニーの目も頬も、全身が、一瞬のうちに恐怖に引き攣りました。みるみるうちに呼吸が乱れて、今にも大声で泣いて暴れてしまいそうです。
恐怖に引き攣って発狂しそうなのは、クレイグとエリカも同じでした。いえ、エリカの方は、もうどうにかなってしまいそうでした。
その口からは、悲鳴じみた声しか出てきません。
「――――やめ……っ、クリス!」
力が入らないはずのエリカの足が、がくがくと震えます。吐き気に似た気持ち悪さに、彼女は息を詰まらせました。
すると今度は、クレイグが口を開きます。
「万が一……傷つけてみろ、もう後戻りは出来ないぞ。
皇女様はもちろん、陛下がここで血を流すことを許されるわけがない」
押し殺した静かな声は、怒りに満ちていました。何も考えずに聞いたら、1周して、なんとも思っていないんじゃないかと錯覚してしまいそうなくらい。
何も気にせず、なりふり構わずに行動していいなら、きっとクレイグはその熊のような腕でコニーを奪い返していたでしょう。
若い頃の苦労と引き換えに得た彼の頑丈な腕に、クリスの細い腕で振るわれる小さなナイフでは、たいした傷をつけることは出来ないはずです。
もちろん無傷で、というのは無理な相談です。けれど、コニーを奪い返すことは絶対に出来る……クレイグは、そう確信していました。
それでも彼がクリスに向かっていかないのは、ここが皇帝陛下の住まう宮殿のある場所だから。絶対に血を流してはいけない場所だからです。
そして何より、幼いコニーに血を見せたくはなかったから。
クリスの手が、ぴくりと震えました。怖いもの知らずかと思われた彼でも、さすがに皇帝陛下の名が出て躊躇したようです。
自分の娘の命運が彼に委ねられているクレイグは、内心でほんの少し安堵しました。むやみに傷つけるほど周りが見えなくなっているわけではなさそうだ、と思って。
けれど一瞬迷う素振りを見せたクリスは、すぐに険しい表情をして言いました。
「僕はね、帝都にこんなガキを探しに来たわけじゃないんだよ。
本当に欲しいものが手に入るなら、こんなのくれてやる。
――――姉さん、言ってる意味分かるよね?」
「……っ、お前……!」
クレイグが息を飲んで、怒りを滲ませました。
自分に向かって飛んできた言葉に、エリカは目を瞠りました。そして、義弟が何を言わんとしているのかを理解した瞬間に、頭の中が真っ白に染まりました。
義弟は、エリカがバルフォア家に戻るのと引き換えにコニーを解放すると、そう言っているのです。
理解したところで、エリカの気持ちはもう決まっていました。
屋敷の外でひとりで生きていくのは、簡単じゃありません。だけど、振り出しに戻るなんて冗談じゃありません。
そう、そんな理不尽、冗談じゃない……。
「なんなの……」
誰にも聴こえない声で呟いて、エリカは地面を握りしめました。手荒れの少なくなった指先が土を削って、爪の間に入り込んできます。
「なんなのよ、一体」
血が滲みそうなほど力を込めて、彼女は息を吐き出しました。荒れ狂った感情が髪の一本一本にまで行き渡って、肩がふるふると小刻みに震えます。
どうしようもない怒りなのか、悲しみなのか、それとも絶望なのか。名前のつけようもない気持ちを持て余して、エリカは目を閉じました。
そして、ゆっくりと呼吸を整えました。
エリカが息を吐ききったのと同時に、クリスが苛立ちを露わに言いました。
「選ぶ権利なんて、あると思ってるの?
姉さんは僕と一緒にいればいいんだよ」
そう急かすものの、彼はエリカの腕を取ろうとはしません。クレイグに近づけば、分が悪くなると知っているのです。
彼は、コニーの髪を掴む手を引き上げました。
「ぱぱぁ……っ」
ナイフが向けられているのを理解しているコニーの口から聴こえるのは、弱々しい声。そして、喉をひくつかせるような呼吸音だけ。
娘の苦痛と恐怖に歪む顔を見つめて、クレイグが歯を食いしばります。
腐っても大商家の息子。しかも後継ぎ。ならば、きっと駆け引きのひとつやふたつ出来るだろう……そう思ったのですが。
皇女様からの手紙の内容を、エリカの友人から聞いたということ――――それを考えれば、自分達の背後にマーガレット皇女殿下本人がついているということくらい、容易に想像出来そうなものです。そしてその仮定を真剣に捉えたら、何もせずに逃げ帰るのが最良だ、とも。
そのつもりで言葉を選び直したというのに。思っていたよりもエリカの義弟は愚からしい……とクレイグは思いました。
クレイグの口から軋むような音が聴こえたエリカは、ゆっくりと目を開けました。そして、まだ震える足に力を入れて、静かに立ち上がりました。
「エリカ……?」
馬鹿には実力行使しかないか……と胸の中で呟いていたクレイグは、戸惑って声をかけました。
けれどエリカは、そんな彼の声には振り返りもしません。土のついた手をきつく握りしめて、ただ、クリスを睨むように見据えています。
そして怯えるコニーを一瞥したエリカは、唇を噛みました。
振り出しに戻るなんて、絶対にいや。
でもクレイグさんやコニーが傷つけられるのは、もっといやだ。
だから、離れて誰かと結婚することも方法のひとつに数えたのに。
「――――待て」
クレイグは咄嗟に、半ば反射的にエリカの手を掴んでいました。ちょっとばかり乱暴になってしまったのは、もう彼にも余裕がなかったからです。
ぐっ、と眉間に力を入れて、彼は言いました。
「身投げのような真似はするな」
……ああ、怒ってる。温厚なクレイグさんが。私に。
何も言わずにクレイグの顔を見つめたエリカは、そんなことを思いました。今までにない突き刺さるような、輪郭のはっきりした感情に心が震えてしまいそうです。
彼女は、わずかに口の端を持ち上げて囁きました。
「コニーは、必ず無事にお返しします」
絶対に義弟に聴こえないように、と念じながら口早に告げたエリカは、クレイグの手をそっと剥がします。
「私は……大丈夫ですから」
彼女は、その瞳を苛立つ義弟へと向けました。
エリカが何をしようとしているのか確信を得たクレイグは、行き場を失った手を握りしめました。そして、同じように手を握りしめて歩きだした彼女の背中を見つめました。
この時、彼が考えたことは、たったひとつだけ。多少の血が流れても、目的のためなら仕方ない……ということ。
だって、一瞬にして想像出来てしまったのです。バルフォア家に戻ったエリカに、義弟が何をするのかを……。
目の前が真っ赤になって、全身の血が逆流したのかと思いました。それほど、我を忘れてしまいそうに憤慨したのです。
――――腕の1本や2本折ってやっても構わないか、いや歯の1本や2本にしておくか。それとも足だったら逃げようもないし、近衛が助かるか。
暴力に対しての枷が外れておかしな思考回路が繋がってしまったクレイグは、歩きだしたエリカが義弟のすぐそばに辿り着いたところで、土を踏む足に力を込めました。
「コニーを放して」
震える足を叱咤して、エリカは言いました。出来る限り冷徹に、鋼のように声を硬くして。
するとクリスは、にっこり微笑んで頷きました。
「そうやって素直に来れば、この子も痛い目に遭わなかったんだよ。
まったくもう……姉さんは他人に迷惑ばかりかけるんだから」
嬉々として言い放たれた言葉に、エリカは顔をしかめそうになりました。
屋敷にいた頃は右から左へ聞き流せた言葉だったかも知れません。でも、言葉に宿る温かさがあることを、彼女はクレイグとコニーから教えてもらったのです。
生理的嫌悪――――そんな表現が、しっくりきます。
わずかに表情を強張らせたエリカを見つめて、クリスは言いました。その目は、もう少し離れた所にいるクレイグのことなんて、映す気はないようです。
「ひっ……エ、リカっ、ちゃん……っ」
我慢に我慢を重ねたコニーの口から、嗚咽混じりの声が零れました。
「頑張ったね、コニー。
ごめんね、もう大丈夫だからね」
出来る限り普通に声をかけたエリカを見つめて、コニーが顔をくしゃくしゃにしました。緊迫した空気に晒され続けて、小さな女の子は限界をとうに超えていたのです。
だから、かも知れません。
こんなに近くにエリカがいるのに解放される気配がないことに、コニーは感情を爆発させました。ただし言葉ではなく、行動で。
――――がぶり。
彼女は思い切り噛みついたのです。もちろん、乱暴で偉そうなクリスという男の腕に。
父親に「噛むのはダメ」だと言われていたけれど、そんなの関係ありません。コニーにだって、一矢報いてやりたい気持ちがあるのです。
刹那、クリスが叫びました。言葉にもならない、聞き苦しい声で。
そして、その瞬間にクレイグが駆けました。
クリスに突き飛ばされたコニーを見て、エリカは息を飲んで。投げ出されたコニーが、エリカの胸に抱きとめられて。
同時に翻ったナイフの鈍い輝きに、エリカの心臓が凍りついて。咄嗟に彼女は、コニーを抱きしめたままクリスに背を向けて。
あっという間でした。
エリカとコニーが目を瞑っている間に、事は片付いていたのです。
腕を噛まれた痛みと怒りで我を忘れ、エリカの背中めがけてナイフを振り下ろそうとしたクリスの腕を、クレイグが思い切り払ったのでした。
手からナイフが飛び、払われて仰け反った彼の横っ面をこぶしで一発。倒れかかったところを、思い切り足払い。
だから、エリカとコニーに聴こえたのは「がっ」とか「うあぁぁぁっ」とか、なんだか断末魔の叫びのようなものだけでした。それから、何か重たそうなものが地面に落ちた音も。
けれどその音すらも、ふたりにとっては大惨事の予感でしかありません。目を開けて、血に塗れたクリスが笑っていたらと思うと、体が動きませんでした。
「――――怪我はないね?」
低い声が聴こえて、エリカとコニーは顔を上げました。そして振り返って、ようやく、自分達の目の前から脅威が消えたことを悟ったのでした。
ぼこぼこにされたクリスが、すぐそこで両手両足を投げ出して唸っています。
その姿がふたりからは見えないように、クレイグは膝をつきました。すると、ぼろぼろ泣き始めたコニーが、エリカの手を離れてクレイグに飛びつきます。
彼女は、父親の首に短い腕を精一杯巻きつけて、しがみつきました。
「ぱぱぁ……っ」
「うん、もう大丈夫だよ。
……すぐに助けられなくてごめん」
娘のぼさぼさにされた髪を撫でながら、彼は何度も声をかけました。
そんな父子をぼんやり見つめていたエリカは、ふたりの傍らに座り込んでしまいました。もう、足に力が入りそうにありません。
クレイグは、空いている方の手をエリカに向かって伸ばしました。
「すまない。
もっと早くに、こうしておくべきだった」
言葉に含まれた憂いを感じ取って、エリカは首を振ります。そして頬に触れたクレイグの手をそっと取った彼女は、言葉を失いました。
彼の手が熱をもって、真っ赤になっていたのです。
「これ……」
エリカは呆然と呟きました。
クレイグの手の、握るとゴツゴツした部分が真っ赤なのです。血なのか、ぶつけた痕なのか……全然分かりません。分からないけれど、それはとても痛々しくて。
じっと彼の手を見つめていたエリカは息を飲んで、顔を上げました。
分かってしまったのです。クリスを殴ったから、こんな手になってしまったのだと。
「クレイグさん」
「君が気にすることじゃないよ」
思いつめた表情を浮かべたエリカに、クレイグは言いました。
「君のせいじゃない」
不思議と頬が緩みそうになるのを、彼は抑えられませんでした。人を殴って、気分がどうしようもなく高揚しているのかも知れません。
でも他にも、理由があるのです。
エリカは場違いなほどに穏やかに話すクレイグのこぶしに、おでこをくっ付けて口を開きました。
「ごめんなさい。クレイグさんの手、汚させちゃった……」
祈るような言葉が、涙と一緒に溢れてきます。
「でも……ありがとう。
コニーもクレイグさんも、無事でよかった……!」
蚊の鳴くような声で同じ言葉をくり返すエリカに、クレイグは思わず苦笑を洩らしました。
「エリカ。ごめんなさい、は無しだ。
――――これは、名誉の負傷なんだから」
その囁きは、エリカの耳を優しく満たしたのでした。
ところが、3人がようやく落ち着きを取り戻しかけた、その時です。
「――――そこにいるのは、バルフォアの息子か」
3人は顔を上げて、視線を走らせました。
すると、しわの寄った声の主を見つめたコニーが、こてんと小首を傾げました。
「あれ……?」
誰だっけ……と、首を捻る彼女をよそに、クレイグとエリカが顔を見合せます。目の前に佇む老人と知り合う機会なんて、どこに転がっていたんだろう、と。
不思議で頭がいっぱいになった大人ふたりを見なかった振りで、老人は言いました。
「靴屋のコニー。
お前に用があるのだが」
名指しされたコニーはしばらく老人を見つめていましたが、やがて「あ!」と口を大きく開けて指を差しました。
「よつばのおじいさん!」




