ハイヒールを脱ぎ捨てろ 4
見ない振りをするにしても、そこをどいてもらわないと通れません。それならちゃんと声をかけて、もし困っているなら助けてあげなくちゃ……と、コニーは思いました。
彼女は、小道を塞ぐように佇んでいる男の背中に声をかけました。
「――――おにーさん」
男の肩が、ぴくりと揺れました。
息を飲む気配に、コニーが小首を傾げます。そんなに驚かなくても、と。
「まいごになっちゃったの?」
すると彼は少しの間をおいて、ゆっくりと後ろを振り返りました。
「……ああ、うん、そんなとこ」
その瞳は、どこか安堵したような色を含んでいました。
だからコニーは、声をかけてよかったと思いました。
ほっとしたように息を吐いて口の端に笑みを浮かべたのは、きっと人に会って安心したからだと思ったのです。迷子になったら、彼のような大人だって心細くなるに決まっています。
「えっと……でぐちなら、あっちよ」
コニーは努めて優しく、穏やかな声で教えてあげました。
早く歩いてくれないかな、早く帰らないとパパに怒られちゃうんだけどな。大人なんだから、きっと林から出さえすれば自分でなんとかするだろう……なんて、そんなことを思いながら。
「わたし、コニーっていうの。
おにーさん、おなまえは?」
先を歩くコニーが、目だけでちらっと振り返って尋ねました。
すると目が合って微笑んだ男は、彼女の視線が再び前を向いた刹那にその目を細めます。もし彼女がその顔を見ていたら、迷わず“蛇みたいな目ね”と呟いたでしょう。
「……クリスでいいよ。
君は、ここで何を?」
穏やかな口調は、なんだかクレイグみたいです。声音も、ちょっと似ているような気がします。親しみを覚えたコニーは、短いポニーテールをぴょこぴょこ跳ねさせて答えました。
「えっとね、おはなつんでたの。
かんむりつくるんだ~」
「花で、冠ねぇ……」
男は、彼女の言葉を噛んで含むようにくり返します。
何かを考えるように視線を彷徨わせていた彼……クリスは、ゆっくりと口を開きました。揺れるポニーテールを、邪魔そうに見つめて。
「花嫁さんでもいるの?
……もしかして、お姫様とか」
足を止めたコニーが、振り返って小首を傾げました。
「うーんと……おねえさんなら、すんでるけど?」
子どもの口から飛び出した拍子抜けする呼称に、クリスは内心で首を捻りながら呟きました。
「お姉さんて……?」
「でもねー、おひめさまみたいに、きれいなの」
作った花冠を嬉しそうに飾ってくれたことを思い出して、コニーの頬がふにゃりと緩みます。思わず鼻歌を唄うように、声を弾ませて言いました。
「マーガレットっていうんだよ!」
その瞬間、男の唇が歪みました。いえ、本人はもしかしたら思った通りに事が運んだことに、思わず笑みを零したつもりだったのかも知れません。
けれどその瞳には、楽しさとは真逆の何かが煌々と輝いているようでした。
「――――そうか。
マーガレット……皇女殿下を、知ってるのか」
抑揚のない声に、コニーは訝しげに眉根を寄せました。
とはいっても、別にクリスのこと怪しんだわけじゃありません。ただ、楽しそうなのに声が低くなったり。笑っているのに怒っているようでもあって。
この人、なんだかへんてこりんな顔をする……と思ったのです。
人の悪意に触れる機会がないことは、子どもにとって幸せなことでしょう。けれど、もしこれまでに一度でも恐ろしい目に遭っていれば、今、幸運と不運のしっぽを見分けることが出来たのかも知れません。
そしてコニーはそれを見分けることが出来ずに、あっさりと頷いてしまったのでした。
「うん、しってるよ。おともだちなの。
わたし、いまから、おねえさんのおうちにかえるんだ」
その時です。
口角を上げた男は、コニーの短いポニーテールを力任せに掴みあげました。
「――――あっ、いっ……!」
痛い、と言えないほど、言葉を正確に最後の一文字まで紡ぐ余裕もないほどの痛みに、コニーが顔をぐしゃぐしゃにしました。
視界がチカチカして、目が勝手に涙を流します。路地で遊んでいて派手に転んだ時だって、こんなふうにはなりません。
自分の身に降りかかったことが理解出来ないコニーには構わずに、クリスが低い声で囁きました。歪む彼女の顔を覗き込んで。
「皇女様、呼んで来てよ」
「は、な……し、てっ」
空気混じりの拒絶の言葉に、彼は何も言わずに掴んだ髪をさらに持ち上げました。
すると、ぷちぷちっ、と何本かが切れる音が。
走った痛みに、コニーが息を飲みました。「ひっ……」と、声が喉に貼りつきます。
「……とりあえず、林から出るか」
思うような答えが返ってこなかったことに舌打ちしたクリスは、そのまま声も出ないコニーを引きずるようにして小道を歩き始めました。
「愚図だなぁ……。
もっと早く歩けないの?」
溜息混じりに言い放ったクリスが、コニーを引きずって歩きます。
大人とまではいかないまでも、ほとんど大人のような体格の男の歩幅に幼いコニーがついていけるはずがありません。
けれど、そんなことなんてクリスにはどうでもいいことのようでした。
コニーは歯を食いしばりながら、バスケットを抱えていました。
秘密で出てきて、ようやく必要な分の花を揃えたのです。元気のないマーガレットに花冠を作ってあげるために。
だから彼女は、髪を掴まれながらもバスケットだけは離すまいと歯を食いしばっているのでした。
そんなふたりが林の出口に差し掛かったところで、クリスは足を止めて言いました。その視線の先にあるのは、マーガレットの宮殿です。
「あれが、皇女の住まい……?
なんだよ、うちの方が断然大きいじゃないか」
宮殿というほどの大きさも豪華さもない建物を前に、彼が訝しげに眉根を寄せます。
本当に、ここに皇女が住んでいるというのか。いくら孤児院で暮らしたことがあるとはいえ、皇女の住まいというには無理がある。
胸の内で呟いた彼は、難しい表情をそのままに零しました。
「ヘタしたら孤児院の方が綺麗で立派だぞ……どうなってるんだ」
彼がこれまでの人生で見たことのある孤児院は、ちょっとした商家の屋敷くらいの見た目をしていたのです。
けれど、彼は知りません。両親がひとりの女の子を引き取る際に寄付として、その孤児院にひとまとまりの財産を譲り渡していたことも、孤児院がその財産を元手に建て替えたことも。
そして当時、まだ子どもだったマーガレットを引き渡す際に、皇帝陛下を相手にいろいろとふっかけたということも……。
「――――はなしてよっ」
クリスが呆然と目の前の建物を見つめていると、ふいに声が響きました。いつの間にか、ポニーテールを掴む手が緩んでいたようです。
彼は舌打ちをして、ぐっと手に力を込めて握ったものを引き上げました。
その途端に、小さな呻き声が聴こえてきます。
「うるさいなぁ……っ。
お前が最初から僕の言うことを聞いてれば、放してやったさ」
髪を掴んだまま、クリスがコニーのこめかみのあたりを小突きました。
その時です。
不意打ちのようにして横からかけられた力に、コニーの腕が緩みました。
「あ……っ」
小さな口から声が零れ、同時にバスケットが落ちました。それは軋んだ音を立てて、地面を転がっていきます。
もうダメでした。
驚きに大きく見開いた瞳から、みるみるうちに涙が溢れだしてきます。口元がひくひくと歪んでいき、鼻の奥がつんと痛くなって。
コニーは思い切り、声の限りを尽くして泣き喚きました。
だって、もう頑張る理由がないのです。
寂しそうに笑ったマーガレットに、どうしても花冠を作ってあげたかった。だから、髪を掴まれても絶対にバスケットの中身だけは守ろうと思ったのです。
それに今までだって、髪を引っ張られたことはありました。大抵は男の子。そういう子は相手が泣いたりすると、調子に乗ってしまうことがあります。
クリスという男が近所の男の子と同じかどうかは分からないけれど、今までの経験から悟った方法で、コニーはコニーなりに頑張っていたのです。
……だけど、もうダメでした。
「なっ……」
突然の大泣きに、クリスは慌てました。
「しっ、静かにしろよ!」
さっきまで気を失っているのかと思うくらい静かだったのに、急に大声で泣き出すなんて。彼にとっては青天の霹靂です。
脅せば言うことを簡単に聞く、と思っていただけに、どうしていいのか分かりません。彼は、コニーの髪を掴んだまま、おろおろするばかりでした。
「泣くな!」
子どもは割とすぐに泣きます。涙腺が緩いとか、そういう意味ではなく。そういう感情表現の方が、彼らにとっては手っ取り早かったりするからです。
そしてそれは、まわりの大人への救難信号でもあるのでした。
「ああもうっ、黙れっ。
近衛に聴こえるだろ!」
言葉にならないことを喚き泣くコニーに、苛立ちが頂点に達したクリスがとうとう手を振り上げました。
その時です。
「コニー?!」
熊のような男が、必死の形相で駆け寄ってきたのでした。
ポニーテールを乱暴に掴まれて泣くコニーの姿。そして、若い男。
それから、ひっくり返った小さなバスケットと、散らばった花――――。
「ぱ、ぱぁ……っ」
えぐ、としゃくりあげるコニーを一瞥して、クレイグは鋭く尖らせた視線を、その男に突き刺して言いました。
「娘に、何をした」
惨状を見れば、大体の想像はつきます。けれど、彼は敢えて尋ねました。そうすることで必要な分だけ、落ち着こうと思ったのです。
コニーは泣くのを止めて、鼻を啜って父親を見つめていました。
もう大丈夫だという気持ちと、これはもう怒られてオヤツ抜きに甘んじるしかない、という諦めの気持ちの両方を抱えて。
「なんだよ。お前に用はない」
分が悪くなったと自覚した男は、駆け寄って来たクレイグを思い切り睨みつけました。
するとそこへ、ほんの少し遅れてエリカが追いつきました。
「コニー……!」
彼女はポニーテールを乱暴に掴まれて涙を堪えているコニーを見つめて、悲壮な声を零しました。足元に散らばるバスケットと花が視界に入って、状況をなんとなく理解したのです。
そして彼女の足が、数歩うしろに退きました。
「――――あ……」
「エリカ……っ」
引きつけを起こしたように息を飲んで、今にも膝が折れてしまいそうなエリカの背中に、咄嗟にクレイグが腕を回して支えます。
コニーのことだけで手がいっぱいだとか、そんな薄情なことが頭の隅をよぎりそうになった彼は、エリカの横顔を見て眉根を寄せました。
苦しそうに胸のあたりを押さえた彼女が、尋常ではないくらいの驚き方をしているのです。その目は、縫いつけられたように、目の前の男に向けられています。
血の気の引いた顔が、マーガレットのように真っ白で。
クレイグは何を尋ねればいいのか混乱しながらも、支えた手のひらから早鐘のように打つエリカの鼓動を聞いていました。
そして、彼は気づきました。
驚きと怯えの入り混じるエリカのこの表情を、自分はつい先日、真夜中の客室で見たばかりじゃないか……と。
「まさか、エリカ」
耳元で聴こえるクレイグの囁きにも、彼女は視線を剥がすことが出来ませんでした。
男は、クレイグに支えられてやっと立っているエリカを見て目を細め、唇を歪めました。
「こんな所にいたのか……」
その表情は一見すると、なんだか泣きそうにも見えます。
けれどエリカはその声を聞いた瞬間に、かくんと膝を折りました。
突然のことに驚いたクレイグが出来たのは、自分も同じように膝をついて、崩れ落ちた彼女の肩を抱き寄せることだけ。
そんなふたりを見つめて顔をしかめると、男は言いました。
「遅くなってごめん。
迎えにきたよ――――姉さん」




