ハイヒールを脱ぎ捨てろ 3
正門の前に座りこんでいた酔っ払いは、のっそりと重い腰を上げました。その瞬間に、たたらを踏んで体が傾きます。
それを見ていた夜勤明けの門番は、深々と溜息をつきました。
「ったく……なんだってんだよ……」
けれどその呟きは帝都の喧騒にかき消されるだけで、よっぱらいが振り返る気配はありません。寝不足が原因の苛立ちは、そっくりそのまま自分と交代するはずの近衛兵に向けられました。
だからきっと、彼は気づかなかったのでしょう。ちょうど彼が酔っ払いの背中に向けてぼやいた時、ひとりの男が人の波に紛れて門をくぐって行ったことに。
寝不足の門番は欠伸を噛み殺して、再び門の脇に佇みました。
反対側に佇む同僚が彼と目を合わせて、肩を竦めました。おそらく先ほどの酔っ払いのことを指して、「ツイてないな」なんて言っているのでしょう。
門番は交代にやって来ない同僚に心の中で恨み言を紡ぎながら、あとからあとからやって来る訪問者の波を出迎えます。恨み言のせいか、彼の目が険しくなります。
もしかしたら、夜明け前に届けられた指示書に“年若い男性が門を通る際には、呼び止めて確認すること”と書かれているのを思い出したのかも知れません。
「いっぱいさいてるー!」
歓声をあげてしゃがみ込んだコニーは、競うように咲いている花を見渡して、そのなかのひとつに手を伸ばしました。
木漏れ日の差す林の中には、小鳥の鳴き交わす声があちこちから聴こえてきます。
最初のひと声こそ上げたものの、花を摘むことに集中し始めた彼女は、息を詰めて手を動かし始めました。
ぷち、と摘み取る音が小さく響きます。赤い花、黄色い花、白い花。持ってきたバスケットは、すぐにいっぱいになりました。
夢中になっていたコニーは、ふと我に返ってバスケットの中を覗きこみました。そして小首を傾げて呟きます。
「……ん、もういいかなぁ……?」
実はこの間、ドレスで着せ替え遊びをさせてもらった時に、マーガレットの笑顔に覇気がなかったことが気にかかっていたのです。
花嫁さんになるらしい、ということはコニーにも分かりました。ベールの端っこにエリカが刺繍を施しているのを見ていたから。
だけど変だ、と彼女は思いました。
お姫様みたいなドレスを着て結婚式をするなら、もっとニコニコして、鼻歌混じりに小躍りしてもいいような気がする……と。
そこで、幸か不幸か、朝からぼけっとしている父親とエリカを見ていてひらめいたのでした。花冠を作ってプレゼントしよう。四つ葉のクローバーが見つかったら、それも一緒に――――。
「この間は、ありがとうございました」
エリカが口早に告げると、年かさの使用人がふわりと微笑みました。
「花冠のことでしょうか。
……わたしも孫娘と遊んでいるようで、とても楽しかったです」
慌ただしく次から次へと仕事をこなさなければならない使用人の彼女は、けれど苛立つ様子もなく小首を傾げています。その余裕は、いわゆる年の甲というやつでしょうか。
彼女は笑みを浮かべたままの格好で、エリカのあとを追ってきたクレイグを見て会釈をしました。彼の顔に浮かぶ表情を見て、お礼を言うために呼び止められたのではなさそうだ、と思ったのです。
エリカの隣に立ったクレイグは、用意していた言葉を紡ぎました。
「先日は、娘がお世話になりました。
それで、今、その娘を探しているところで……」
「……そうでしたか」
クレイグの言葉に、使用人が驚いたように目を丸くしました。
「もしかして、見かけたんですか?」
エリカが食いつくように尋ねました。
すると使用人は、曖昧に頷いて口を閉じます。その視線が、言葉を探すように右と左を行ったり来たりし始めました。
やがて、彼女は言いました。
「先ほど、控えの部屋に訪ねていらっしゃいました。
今日はいらなくなった花はないのか、と……」
「では、そちらにお邪魔しているんですね」
息を飲んだクレイグの言葉に、使用人は首を振りました。申し訳なさそうに、視線を落として。
「申し訳ありません。
お譲り出来る花がなかったものですから」
「じゃあ、使用人さん達の所には……?」
「いいえ、もう……。
分かった、と言ってどこかへ行ってしまわれました」
顔を強張らせてエリカが尋ねると、使用人が不安そうに眉を下げて言いました。
「あっ……たぁぁ……っ」
瞳を輝かせたコニーが、小さな手で見つけたものを摘まみます。弾んだ声が響き渡りそうになるのを堪えて、彼女は噛みしめるように言いました。
「よつばのクローバー……!」
木漏れ日のなかで必死に探して、運よくさほど時間をかけずに見つけることが出来たのです。それだけで、ちょっと運を使った気もしますが。
コニーは、見つけたクローバーをバスケットの中にしまって頷きました。
「……よし」
これで任務は完了。誰にも秘密で必要なものを手に入れて、おまけに四つ葉のクローバーまで見つけちゃって。わたし、なかなかやる。
鼻歌混じりに立ち上がったコニーは、スカートの裾をぱしぱし叩きました。そしてバスケットを抱えると、転ばないように気をつけながら来た道を戻り始めたのでした。
狭い歩幅でしばらく進んだ時です。
「あれ……?」
コニーは思わず首を傾げました。
マーガレットの宮殿へと続く小道を、誰かが塞いでいるのに気づいたのです。
近くを通りかかった使用人に「コニーを探しに行ってくる」と伝えて外に出た途端に、エリカは硬い声で言いました。
「ごめんなさい、クレイグさん」
「……え?」
気持ちが林の中に向かって一色線だったクレイグは、突然謝られて戸惑ってしまいました。
何が、とも言えないままの彼に、エリカが口を開きます。
「コニーのこと……。
一緒にいたのに、ぼーっとして気づかなかったから」
「エリカが気に病むことはないのに」
クレイグは、目を伏せる彼女の頭をぽふぽふと軽く叩いて言いました。そして、ぽふぽふした手が名残惜しそうに髪を撫で、するりと離れていきます。
エリカはなんだか物足りなさを覚えて、思わずクレイグを見上げました。
すると彼は、口の端に笑みを乗せて口を開きます。
「実は私も、コニーに目を配っていられなかったんだ。
……君が今朝、あんな話をしたから」
クレイグの言葉に、エリカは俯くしかありませんでした。
「それは……」
「恥ずかしいことに、ちょっと動揺してしまった。
きっと家の中が少し静かになるんだろうね……寂しくなるな。
……ああ、これじゃあコニーがお嫁に行く時が恐ろしいよ」
困ったように眉を下げた彼が言うと、彼女は弾かれたように顔を上げました。
まさかクレイグの口から、「寂しい」だなんて言葉を聞くとは思わなかったのです。今朝、結婚について前向きに検討しているところです、と伝えた時は、ただ口をぱくぱくさせるばかりで……。
だから彼がどう思っているのか不安で、ずっと気もそぞろだったのです。
クレイグの言葉を聞いたエリカは、咄嗟にこう言っていました。
「――――私も、寂しいです」
まるで、心がそのまま言葉になって生まれたような台詞でした。純度の高い、混じり気のない気持ちがいっぱいに詰まっています。
……いえ、ほんの少し“嬉しい”気持ちが入り込んでしまったかも知れません。
それが伝わったのかどうか、クレイグはわずかに口の端を持ち上げました。それは微妙で曖昧な、何かをぼかすような笑み。
エリカは寂しい気持ちを持て余しながら、風に乱された髪を整えました。
緩やかな時間を断ち切ったクレイグの視線が、林の入り口に向けられます。それを追うように、エリカも視線を走らせました。
今から、子ウサギのようにぴょんぴょん跳ねるコニーを捕まえに行くのです。
「……捕まえたら説教だ。
当然だけど、おやつは抜き」
言葉の割に低い声で呟いたクレイグを横目に、エリカは心の中でこっそり謝りました。もちろんコニーに、です。
……だって、もし自分がぼんやりしていなかったら、コニーがひとりで林に入ることはなかったかも知れないから。そうしたらクレイグさんに叱られるようなことにも、ならなかったはず。
自己犠牲の精神が人よりも豊富なエリカが、そんなことを考えた時です。
子どもの喚き泣く声が響いて、ふたりは駆け出しました。
息を切らせたふたりが林の入り口で見たのは、ポニーテールを乱暴に掴まれて泣くコニーの姿。そして、何かを口走る男。
それから、ひっくり返った小さなバスケットと、散らばった花――――。




