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ハイヒールを脱ぎ捨てろ 2








驚いて息を飲んだところを瞬間冷凍したように固まっていたエリカが、短く息を吐き出して、そして吸い込みました。


「――――なっ……なんっ……?!」

我に返った彼女は、声を荒げました。恥ずかしさや焦りと一緒に溢れた言葉は絡まってしまって、うまく口から出てこないのですが。


彼女の指を解放したクレイグは、ポケットからハンカチを取り出しました。そして、彼の唾液で濡れた部分をそっと拭いながら、口を開きました。

「すまない、驚かせてしまったね」

そう言いながらも彼の胸の内には、申し訳なかった、という気持ちはありません。

何故エリカの指を口に含んだりしたのか、自分でも分かりません。けれど、どこか気持ちは満たされているのでした。まるで、実はずっと触れたかったのかも、と思ってしまうくらい。


エリカは目を白黒させながらも、クレイグの言葉に頷きました。

義弟のように、悪意があるわけじゃないと知っています。彼女にだって、自分がよくない感情を向けられているかどうかくらい分かります。

そもそも、びっくりしただけで嫌悪してはいません。


「いえ、あの……私もちょっと、ぼーっとしてて――――」

言いかけたエリカは絶句しました。

頼まれたドレスに血がついていたら大変だ、と目を落としたら、へんてこな刺繍が出来上がっていることに気づいたのです。マーガレットから預かったビーズを、言われた通りに取り付けていただけのはず。なのに、どうしてこんなことに。

幸いなことに、縫いつけていたのは短い袖の部分なので、今からでも十分失敗を取り戻すことは出来そうですが……。

愕然としながらも、エリカは急いで刺繍糸を抜き取る作業を始めました。


そして彼女は、裁縫用のハサミを絡まった糸の浮いた部分にあてたところで、今度こそ我に返りました。針で指で刺したのはクレイグに呼ばれて驚いたからだ、と思い出したのです。

「そういえば、私に何かご用だったんですよね……?」




顔を上げた彼女の目を見て、彼が頷きました。その視線は部屋の中をぐるりと見回して、エリカのところに戻ってきます。

「コニーの姿が見えないけど、どこに行ったか分かるかい?」

「え……?

 いないんですか?」

彼女は何度か瞬きをしてから、小首を傾げました。そして、さっきまでコニーがいたはずのソファを見遣りました。けれどそこには、紙と色鉛筆が置いてあるだけです。

「声をかけて行かなかったのか……」

クレイグの声が、ほんの少し低くなります。いろんなことが頭の中を駆け巡るのを、息を潜めて抑えているのです。

ここは安全ですが、そこから自発的に飛び出したら安全とは言えません。今いる場所の安全は皇女様のためであり、コニーのためではないのです。


エリカは裁縫道具をまとめて、立ち上がりました。そして、コニーがやりっ放しにした色鉛筆を、そっと木箱に戻しました。

「……珍しいですね」

彼女は思いました。

短い間ではありますが、一緒に暮らしていて知っているのです。クレイグの、礼儀と身の回りのことに関する躾がしつこいくらいなのを、すぐ近くで聞いてきましたから。

「片づけもしないなんて……」

ピンクの色鉛筆が、何かに気づいて放りだしたみたいな格好になっていたのを思い出しながら呟くと、クレイグが息を飲みました。ものすごく嫌な予感がします。


コニーが何かを放り出す時は、次の何かに夢中になっている時です。例えば、何か綺麗なものを見つけたとか。誰かと約束しているだとか。

そして残念なことに、大概の場合、幼い愛娘はこれと決めたものに対して猪突猛進なのです。気が済むまで一直線なのです。瞳を輝かせて、危険があるかも知れないなんて欠片も想像せずに。

ここは遊び慣れた帝都の片隅とは真逆の場所。マーガレットはあまり好まないようですが、廊下には触れてはいけない高価な調度品が飾られています。外に出れば馬もいます。林に入れば、もしかしたら蛇や毒虫の類だって……。


「――――探してくる」

「待ってクレイグさん、私も……!」

言うなり部屋から出ようとしたクレイグを呼びとめて、エリカは言いました。






使用人達が忙しなく動き回っているのを横目に、ふたりは厨房を覗き込みました。ちょうどお昼前なのを思い出したエリカが、コニーはおやつが欲しくなったのかも知れない、と呟いたからです。

ところが厨房は見るからに忙しそうで、子どもが中にいるようには、どうしても見えません。

エリカは一番近くにいた使用人に声をかけました。水音や調理器具のぶつかる金属音に阻まれないように、お腹の底に空気を溜めてから。

「……あのっ、お仕事中すみません!」


「……え?

 あ、ああ、はい」

突然勢いよく話しかけられた使用人は、戸惑いながらもエリカを見て首を傾げました。瞳の奥には、「忙しいのに……」という気持ちが透けて見えるようです。

振り向いてもらえて安堵した彼女が、けれどそれ以上の言葉を選ぶことが出来ずにクレイグを仰ぎ見ました。

すると彼は投げかけられた視線にほんのり笑みを浮かべて頷きます。

「娘がお邪魔してはいませんか」

エリカから視線を剥がした瞬間に硬い表情を浮かべた彼に、使用人が半歩さがって首を振りました。言葉は柔らかくても、なんだか責められているような気分になったのです。

……クレイグ本人は、まったくもって他意はないのですが。



お礼を言って厨房から離れたふたりは、顔を見合わせました。

「来てませんでしたね……」

「そうだな……」

使用人が勢いよく首を振ったところをみると、どうやら近付いてもいないようだ、とクレイグは思いました。見かけたなら、見かけたと言うはずだ、とも。

溜息混じりの彼に、エリカが言います。

「外に出たのかも。

 建物の探検は、リチャードさんとしてたみたいだし……」


するとそこへ、見知った顔が通りかかりました。

コニーが花冠を作る時に手を貸してくれた人だ、と気づいたエリカは、たくさんの花を抱えた彼女を慌てて呼びとめました。

「あの……っ」

ところが彼女は自分が呼ばれたことに気づいていないのか、スタスタと歩いて行ってしまいます。向かう先は、使用人達が控えている部屋でしょうか。

残念ながら彼女の名前を知らないエリカは、小走りに駆け寄りました。「エリカ!」という、クレイグの声を背中で聞きながら。


「すみません、あのっ」

荷物を抱えて歩いている人の前に回り込むのは、そう難しいことではありませんでした。

「……あら、ごめんなさい。私をお呼びでしたか?」

弾んだ声を正面から聞いた彼女は、花の束をずらして顔を覗かせました。そして、エリカの顔を見つめて首を傾げました。








「ある~ひっ、もりのーなーかっ」

木漏れ日のなかを跳ねるようにして、コニーは歩きます。その足取りに合わせて、短いポニーテールがぴょこぴょこ。

「いそげっ、いそげっ」

父親にもエリカにも秘密で出てきたのです。必要な分だけ花を摘み終えたら、すぐに戻らなくてはいけません。


……とはいえ幼いコニーにとって、秘密、というのは甘くてピリっと痺れる不思議な魅力に溢れた言葉でした。相手が父親や最近一緒に眠るようになったエリカである、というところも、なかなか良いスパイスになったのでしょう。

小さな唇から零れる歌声は、風に乗ってふわりと溶けていきました。









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