ハイヒールを脱ぎ捨てろ 1
奥歯を噛みしめたその手の中で、上質な紙が、ぐしゃりと音を立てました。
皇帝陛下の住まいからほど近い高級ホテルの一室。その窓辺からは、警備隊がランタンを持って巡回している様子が見てとれます。
昨日の夕方から、街に警備隊員の姿が明らかに増えました。それに、出歩くたびに視線を感じるのです。どこからか分からないけれど、きっと気のせいなどではありません。
ものすごく、不快。苛立ちは募るばかり。
真っ赤な封筒を寄越した皇女は、皇女と名乗る前は教会の孤児院にいたと聞いています。それに起因して、一族の中でも爪はじき者である、とも。
その皇女からの言葉に、納得など出来るはずもありませんでした。
いろいろと上手くいかないことに感情が昂ぶって握りしめた真っ赤な封筒から、真っ白な封蝋が剥がれ落ちていきます。
その様子はまるで、マーガレットの花びらが舞うようでした。
「おはようございます、クレイグさん」
帝都の街が太陽の光で満たされてまもなく、エリカが寝室から出てきました。そっとドアを閉めたところを見ると、どうやらコニーはまだ眠っているようです。
「あ、ああ……おはよう」
エリカよりも先に起きていたクレイグは、一瞬ぽかんとしてしまいました。ある日の昼寝の後から急に様子のおかしくなった彼女が、嘘みたいに微笑んでいるのです。
「いよいよ今夜ですね、舞踏会。
自分が参加するわけじゃないけど……なんだか落ち着きません」
心なしか弾んだ声で苦笑を漏らし、エリカが言いました。
……やっぱり、自分の気にしすぎだったのか……?
そんなことが、クレイグの頭の中に浮かびます。
彼は内心で首を捻りつつ、お茶の準備をしようとソファから立ち上がりました。
すると彼女が、手で制して口を開きます。
「あ、私が……。
何日もソファなんかに寝かせちゃってごめんなさい。
体、痛いですよね……」
「いや、さすがに皇女様のお住まいだからかな。
ソファもまるで高級ベッドみたいな寝心地だよ。気にしないで」
眉を八の字に下げたエリカを見て、クレイグが苦笑混じりに首を振ります。
彼はランプに火をつけている彼女の背中に向かって、静かに言いました。コニーがまだ夢の中にいることを思い出しながら。
「私の方こそ、家では君をソファに寝かせてるんだよな。
……すまない、全然気が回らなくて……。
帰ったら、ローグじいさんの部屋だった場所を掃除するよ。
君の部屋にしようと思うんだが……どうかな」
ソファであっても、寝床を与えてもらえたことに感謝の気持ちでいっぱいです――――そんなことを言おうとして、振り返ったところだったのに。
口を開いた瞬間には続きが耳に飛び込んできて、エリカは言葉を飲みこみました。
……クレイグさんは、帰ってからも靴屋での毎日を続けるつもりでいてくれてる。だけど、メグお姉ちゃんに“結婚について真剣に考える”と約束してしまった……。
エリカは頭の中が真っ白になりました。
振り返って顔を強張らせたエリカを見て、クレイグは訝しげに眉根を寄せました。
「どうした?
……気分でも悪いのかい?」
ぷるぷると首を振った彼女は、思い切って口を開きました。
「いえ……あの、私――――」
コニーは、小首を傾げました。その視線は、遠くを見つめて作業をしているふたりの大人達の間を行ったり来たりしています。
父親は、靴の木型のやすりがけ。
エリカは、マーガレットのドレスから取れてしまったビーズの縫いつけ。
木型は同じ所ばかり擦り続けてちょっと歪な気がしますし、ドレスは右と左の袖でビーズの色が違っています。
「……ん~……?」
小さな眉を寄せて、コニーは呟きました。
ふたりを交互に見遣っていたおかげで、手元の色鉛筆が紙からはみ出していることに気づいたのは、ずいぶん経ってからでした。
テーブルの木目を引き裂くように延びたピンク色の線をコニーが指で擦って消しているところへ、使用人がやって来ました。
彼女は急な訪問者にびっくりするコニーに笑みを投げかけて、ぼんやりと作業をしているクレイグを見つけて駆け寄りました。
人の近寄ってくる気配に気づいたクレイグが、ふと視線を上げます。
すると彼女は、申し訳なさそうに彼に声をかけました。
「お仕事中のところ、失礼いたします」
「ああ、いえ……何か」
クレイグはようやく、それまで自分がぼんやりしていたことに気づきました。そして、慌てて持っていたものを机の上に置きました。
「そ、その、少し手を貸していただけないでしょうか。
リチャードさんが、警備隊の方と打ち合わせをしていて……」
年若い使用人が、眉を八の字に下げて小さな声を絞り出しました。
朝食を取り終えてすぐにマーガレットは会場になる宮殿のホールへ行き、リチャードはこの宮殿の小さなホールで、それぞれ舞踏会の確認の確認を行っているのです。
本当なら誰かにその役割を与えれば済むことなのですが、マーガレットが自分の目と耳で確認しておきたい、と言い出したのでした。
……リチャードの場合は、マーガレットの安全と確保するのに自分以外に誰が、とずいぶん前から役目を負っていたそうですが。
使用人は、きょとん、としてしまったクレイグに頭を下げました。
「本当にすみません。申し訳ございません!
皇女様のお客様にこんなこと、鞭打ちに値すると分かってます!
でも、手の空いている男性が他に見当たらなくて……。
こっ、こんなに忙しいなんて思わなくて、あの……っ。
ほんのいくつか、荷物を運んでいただきたいのです……!」
カタバミの種が弾け飛ぶような勢いで捲し立てる使用人に気圧されたクレイグは、条件反射よろしく頷いたのでした。
困った顔をした父親が「ちょっと行ってくるよ」と手を振って部屋を出るのを見送って、コニーは小さな溜息をつきました。つまらないのです。
面白いものをたくさん持っているマーガレットは、どこかに出かけてしまったし。鉄仮面だけど本当は優しいリチャードだって、分厚い書類を抱えて出て行ったきり。ぼんやり作業していた父親も、困ったように笑って行ってしまいました。
残るはエリカですが、彼女は彼女で、ぼんやりとビーズを縫いつけています。さっきから同じ所にばかり針を刺しているような……それでいいんだか。
先日も何回も針で指を刺すところを見てしまったコニーには、エリカの刺繍の腕がなんだか頼りなく思えてしまいます。
口を尖らせて考え込んでいたコニーは、わずかに瞳を揺らしたかと思えば、突然立ち上がりました。机の上を走る色鉛筆の線をそのままに。
使用人に頼まれて物置部屋に出向いたクレイグが、ひと抱えもある重たい木箱を持ち上げていた頃。
宮殿の正門が、何やら騒がしくなっていました。
「――――おいおい……」
飾り羽の付いた槍の柄を杖のようについて、近衛兵が気だるげに前へ出ます。本当なら彼の定位置は、正門の端と決まっているのですが仕方ありません。
「そんなところに座らないでくれよ、おっさん」
彼は、自分とは反対側で来訪者を見つめていた近衛兵を一瞥しました。けれど、澄ました顔の近衛兵は肩を竦めただけ。
門番である彼の仕事は、文字通り門の番をすること。不審な人物が宮殿に入ろうとしていないか、不審な荷物が搬入されようとしていないか。そんなことを、鋭い眼光で見定めるのです。
彼は、この仕事が自分に合っていると感じていました。皇帝陛下やその血縁者達の安全を守ることに貢献している……そう思えるのです。
……彼らの安全を守るための門は、この奥にもいくつかあるわけですが。
けれど今日は、いつもと勝手が違いました。
夜勤明けの彼が交代で門に立つはずの近衛兵が、いつまで経っても来ないのです。
これだから金持ちコネ就職の坊っちゃんは困るんだよ……というのが、彼の口癖でした。
そんなわけで、今日の彼は疲労と睡魔に晒されていて、門を通り過ぎる人の隅々にまで目を遣ることが出来ませんでした。
だからもちろん、人の通り道を塞いだまま呂律の怪しい状態でくだを巻く中年男性の持つ違和感になんて、気がつくわけがありません。
いつもの彼であったなら。あるいは、その酔っ払いからお酒の匂いが欠片もしないことに、気づけたのかも知れません。
かちゃり、と控えめな音を立ててドアが開けられて、隙間に滑り込むようにしてクレイグが入って来ました。
「……ただいま」
彼はそう言いながら、出て行く時にはそこにいたはずの娘の姿が見当たらないことに首を傾げました。
「コニー?」
バスルームを覗いてみますが、もぬけの殻。そもそも、あの元気が有り余った状態の幼女の気配が、まったくしません。
……何かがおかしい気がする。
そう思ったクレイグの視線が捉えたのは、黙々と縫物を続けるエリカの姿でした。
今朝の話を聞いてから、なんとなく顔を見ることが出来ずにいましたが、今は彼女に聞かなくてはいけないのです。自分の感情を先に立たせてはならない時です。
クレイグは意を決して、エリカに声をかけることにしました。
気配を殺して近付いて、そっと息を吸い込んで。これじゃまるで、泥棒みたいです。
「エリカ?」
囁きともいえないほど、小さな声。
もしかしたら幽霊の残像なんじゃないかと思うほど、かすかな声で呼ばれたエリカは、驚いて息を飲みました。
その瞬間。
「――――痛っ……」
顔をしかめたエリカの左手の人差し指の腹に、ぷっくりと赤いものが膨らみます。
それを見たクレイグは、コニーの姿が見えないことも忘れて慌てふためきました。ただし、内心で。そして彼は、反射的にとも言うべき素早さでエリカの指を掴みました。
「あっ、ク……?!」
エリカの唇から、言葉とは程遠いものが零れ落ちます。
クレイグが、ぷっくり膨らんだ血をエリカの指ごと咥えたのです。
何を考えていたわけでもなく、咄嗟に、つい、と言ってもいいくらいです。どこからか湧いて出た衝動が、彼を突き動かしました。
口の中に広がった鉄を含んだような味が消えるのを待ったクレイグは、こくりと喉を鳴らしました。そして含んだ指の腹を、名残惜しそうに舌先でなぞります。
エリカが息を飲んで戸惑っている気配を感じて、彼は目を細めました。
もう一度くらい指を刺してくれてもいい、なんて心の中で呟きながら。




