小瓶にはタンポポを 1
「……ええっと……」
クレイグに描いてもらった地図を手に、エリカは足を止めました。もらったばかりのベージュ色の靴が、コツ、と音を立てます。
「銀行がココ、お花屋さんがアレ……だから……」
ぶつぶつと呟きながら、地図に指を這わせます。“地図を頼りに”目的地まで歩いたことがなかったので、エリカは必死でした。とっても難しい顔をしたクレイグに、つい「大丈夫です、1人で行けます!」と言い切ってしまった手前、これはどうにかやり遂げなければ、とも思うのです。意気込みだけは、誰にも負けません。
そんな強い思いを抱きながら、彼女は次の一歩を踏み出しました。
早朝に天を仰いだクレイグでしたが、“自分の苦手な相手”と“困っている他人をさらに不幸に転落させようとしている自分”を天秤にかけた結果、ある決断をしました。
エリカに仕事が見つかるまで、家に置いてやることにしたのです。
教会に行く準備をしていたコニーが、そのやり取りを聞き付けてやたらと興奮していたので、彼は自分の選択に大幅な間違いはないと胸を撫で下ろしたのでした。
ところがずっと、胸の中がモヤモヤしているのです。やたらと張り切るコニーがエリカを連れて出て行ってから、ずっとです。コニーが初めて教会学校に行った日も、こんな気持ちになったのを思い出します。
「本当に大丈夫か、あの子……」
何か問題を、具体的にいえば迷子になってるんじゃないか……という親心のせいで、革を縫い合わせる作業が全く進みません。クレイグは立ち上がって、店のドアの向こうを眺めました。
そして、少し前のやりとりを思い出して唸ってしまいました。
彼の提案を、エリカは「申し訳ありません」と使用人さながらの返答と共に受け入れました。そして彼が「ここに行けば仕事を紹介してもらえる」と、靴屋から職業紹介所までの簡単な地図を渡すと、どういうわけか目を輝かせたのです。
いやそれは宝の地図ではないんだが、と言いたいのをグっと堪えて見つめたクレイグに、彼女は「大丈夫です、1人で行けます!」と大きく頷いていました。そのやる気がまた、不安を煽るのです。
そんなことを思い出して溜息をついたクレイグは、再び作業机に戻りました。そして、引き出しの中から一枚の写真を取り出しました。
その写真は四隅が折れたり千切れたりして少し古ぼけていますが、きちんと写真立てに収められています。写っているのは、人の良さそうな表情をした老人です。
その人から滲み出る温かさを感じて、クレイグはそっと息を漏らしました。知らず知らずのうちに、彼の口元にも笑みが浮かんでいます。
心の中でいくつか語りかけた彼は、最後に呟きました。
「これでいいんですよね、ローグじいさん……」
クレイグが店の外をしきりに気にしている頃。
エリカは散々迷ったあげく、ようやく目的地に辿り着きました。
目の前にそびえ立つレンガ造りの大きくがっしりした建物に、彼女は息を飲みました。そうして気圧されている彼女の横を、同じように職を探しに来たらしい人達が追い越していきます。
建物に吸い込まれていく人達の後ろ姿を見て呼吸を整えたエリカは、コニーから借りた茶色のポシェットをかけ直しました。
頑丈なガラス張りのドアを開けて中に入ったエリカは、その荘厳な雰囲気に言葉を失いました。頭のてっぺんから爪先まで、硬くて冷たい空気に飲み込まれてしまいそうです。
息苦しさを覚えた彼女は、キョロキョロとあたりを見回します。広い空間にカウンターがあって、何人もの職員らしき人が並んで訪れた人達の対応をしているようです。
あの人達の誰かに相談すればいいのか、と思い至った彼女は、早速カウンターめがけて一直線に歩いて行きました。
ところがです。突然目の前に、赤いジャケットを着た女性が立ちはだかりました。
驚いたエリカの靴が、カカッと小さくとも甲高い音を立てます。
「こちらのご利用は初めてですか?」
ぶつかりそうになって心臓がばくばくしている彼女をそのままに、赤いジャケットの女性が小首を傾げました。
悲鳴を飲み込んだエリカは、そっと息を吐き出してから頷きました。
「……はい」
「わかりました。
ではご相談の前に、整理券をお持ちになって下さい」
そう言って女性が指したのは、カウンターとは別の場所。エリカは戸惑って、返事もせずに女性の顔を見つめました。整理券だなんて、初めて聞く言葉です。
不安そうな表情を浮かべた彼女を見て、女性は困ったように微笑みました。
「あそこに座っている男の人から、数字の書かれた紙を受け取って下さい。
順番でご案内しますので、自分の番号が呼ばれるまで座っていて下さいね。
……あ、紙は失くさないようにお願いします。
相談員が整理券を回収することになってますから」
ゆっくりゆっくり説明されて、エリカはようやく自分がどうすればいいのか理解出来たようです。静かに頷いたあと、小さな声でお礼を言いました。
その様子を見た女性はにこやかな頷きを返して、また別の人のところへ小走りに駆けていきました。
教えてもらった通りの場所で男性係員から整理券を受け取ったエリカは、たくさん置いてある長椅子の端に腰掛けました。
彼女の番号は“68”で、カウンターの受付番号は“63”です。応対している相談員は、片手では足りないほどいます。
きっとすぐに順番が巡ってくるだろう、とエリカはドキドキし始めた胸を押さえました。
そして、なんだか不思議な気持ちが湧いてくるのを感じて、小さな溜息をつきました。
幼い頃に引き取られて以来、あの家で生きていくものだと思っていたのです。衣食住を与えられ、“家族”の隅っこに居場所を与えられて。
けれど屋敷の中を歩くための内履きで飛び出してみて、心底驚きました。必死に駆け抜けたブドウ畑に緑の匂いが充満していることも、朝日が差した瞬間に体が温もることも知らなくて。そうだったんだ、と気づいた時の嬉しさに、涙が出るかと思ったくらい。
初めて握った銅貨の重みが実は頼りないことを知った時は、さすがにちょっとばかり寂しいというか切ないというか……複雑な気分になったものですが。
エリカは、ワンピースのポケットから銅貨を1枚取り出しました。
ずっと昔の皇帝をモチーフにした絵柄が、鈍く輝いています。それを目の前にかざして、彼女は笑みを浮かべました。
大事にしていた珍しい黒髪をだまし取られた感は否めませんが、髪はまた伸びます。強がりなんかじゃありません。
ぼんやりしていると、ふいに相談員の1人が手を上げました。割とエリカと歳の近そうな、可愛らしい女性です。
「68番の方、こちらへどうぞ~!」
「は、はいっ」
回想の淵から慌てて立ち上がったエリカは、小走りに相談員に駆け寄ります。椅子に腰かけた彼女は、最初に言われた通りに整理券を相談員に手渡しました。
「はーい。
それでは基本情報を登録しますので、こちらに記入して下さいね~」
微妙な間のある口調で言った相談員が、エリカに向けて1枚の紙とペンを寄越しました。
氏名や年齢、現在の住所や本人への連絡方法などの項目に目を通した彼女は、思わず固まりました。握ったペン先が、ふるふる震えます。
氏名なんか正直に書いて、養父母のもとに連絡がいっては困るのです。それだけは、絶対に避けなくてはなりません。万が一見つかったりしようものなら、今度は足枷で繋がれてしまうかも知れません。
「……あれー、何かご不明な点でもあります?」
書類の束をばっさばっさ捲りながら、相談員が言いました。その視線は、書類の中を駆け廻るように動いています。
エリカは口から心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらいに肩を揺らして、そっと口を開きました。落ち着け落ち着け、と心の中で唱えながら。
「いえ、だいじょぶです……」
震えを閉じ込めるようにしてペンを握り直した彼女は、息を詰めて紙に向き合います。そして、ゆっくりと文字を綴りました。
「出来ました」
相手に向けて紙を返し、ペンを添えます。
それを受け取った相談員は、書かれた項目にざっと目を通しました。
「はーい、ご苦労さまでしたー。
それじゃ、えーっと……エリカ、えっと……バルフェルさん……?
ほぇぇ、珍しいお名前ですねぇ」
感心されたエリカは、乾いた笑みを返すしかありませんでした。まさかそこで、「うふふ、適当に作っちゃいました」なんて相槌を打つわけにもいかず。
だって仕方ないのです。
どこにでも転がってる名前なんて、エリカは知らないのですから。