四つ葉のクローバーに願うこと 5
大変残念そうに眉毛を下げて、コニーが言いました。その小さな手で、エリカの左手をさすりながら。
「エリカちゃんさ……」
「なあに?」
何気ない会話の始まりに、何気なく返事をしたエリカ。けれど待ち構えていた話は、ものすごく残念な内容でした。
「ししゅー、はやくじょうずになるといいね。
わたし、おうえんしてるから!」
「あっ、あのねコニー……!」
斜め上な同情と励ましの言葉に、エリカは慌てました。
たしかにコニーが握った左手には、刺したての痕があります。けれどそれは、刺繍の腕前とはまったくの無関係なのです。
なのですが……。
「それはええっと……だからあの……っ」
うまいこと説明出来ないエリカは、ただただ口ごもるばかり。
だからコニーは、ごにょごにょしている彼女を優しく抱きしめて言いました。
「コトリさんのししゅーだって、あんなにじょうずだったんだから。
だいじょーぶ。ちゃんとできるようになるよ」
厨房の外でそんなやり取りをしているふたりを眺めて、何人かの使用人が小首を傾げながら通り過ぎたのでした。
エリカの背中が逃げるようにドアをすり抜けるのを見届けたクレイグは、溜めていた息を吐き出しました。
するとそこへ、マーガレットがやって来ました。彼女は、コニーと一緒に作った花冠を壁に掛けて、部屋の片づけをしていたようです。
そして彼女は呆然としているクレイグの姿を見つけて、声をかけました。
「あら、クレイグさん。
コニーちゃんと……エリカは?」
左手に針で刺した痕を見つけて声をかけた途端に、挙動不審になって逃げるように出て行ったエリカのことを思っていたクレイグは、突然声をかけられて我に返りました。
「――――あ、皇女様」
「どうしたんです……?」
振り返ったクレイグの顔を見たマーガレットが、訝しげに眉根を寄せます。
すると彼は、手を振って言いました。
「いえ、なんでも。やっぱり寝不足のようで……すみません。
エリカなら、コニーと厨房に行きました。お湯とお茶菓子を取りに」
「そう、ですか」
なんだか腑に落ちない、と言いたげな表情を浮かべたマーガレットは、ぎこちなく頷くしかありませんでした。きっとエリカとコニーの行先に間違いはないと思うから。
けれど、クレイグの唇から乾いた笑みが零れたことは見逃せませんでした。
「……じゃあその寝不足の理由、伺ってもいいですか?」
マーガレットの声の硬さに、クレイグは心臓が止まるかと思いました。自然と顔が強張って、よく分からない汗が噴き出しそうです。
すると息を飲んだ彼を見て、彼女はもうひと言。
「エリカの瞼が腫れてる理由、でもいいですけど……」
上目遣いに様子を窺われたクレイグが、心の中で天を仰ぎました。
断る隙を作ってくれているようで、どのみち皇女様に命令されたら吐き出さなくてはならないのです。彼は自分とエリカの“姉”との間にある分厚い壁のことを、忘れるわけにはいかないのです。
「どちらも、お話します」
胃がキリキリし始めたのを感じながら、クレイグは口を開きました。
彼が「ふたりが戻りますから、手短に」と前置くと、マーガレットが頷きます。それを確認した彼は、火の海に飛び込む覚悟で話し始めました。
「昨夜は、本当は別々の部屋で休ませていただくはずでした」
「それは知ってます。
エリカが、どうしても、と……」
言葉を挟みこんだマーガレットは、口早に言いました。
クレイグが頷きます。
「そうです。
……どうしても、ひとりで夜を過ごすのが怖かったんだと思います。
彼女はバルフォアの屋敷で……その、嫌な目に遭って……」
本人がいないところで、エリカ自身がずっと黙っていたことを伝えてしまうのは躊躇われました。だからクレイグは、所々言葉を濁しながら続けました。
マーガレットも、何かを感じ取ったのか神妙な面持ちです。
「ともかく、ベッドはエリカとコニーに使わせました。
私はソファで時間を潰していました。朝まで寝ないつもりで。
すると最初は静かだったんですが、夜中にエリカが魘されて……」
「……寝室に入ったんですね」
主にクレイグの葛藤部分を省いた説明に、マーガレットは目を吊り上げました。彼女の耳には、クレイグが無断で寝室に入ったように聴こえたのです。
彼は慌てて言いました。
「コニーの様子を見るためです。
環境が変わると、夜中に起きて泣くことがあるので……」
するとマーガレットは、胡散臭いものを見るような目つきを消して続きを促しました。とにもかくにも話を最後まで聞かなくては、と思ったのです。
クレイグは安堵の息を吐き出して言いました。
「魘されているエリカを起こしたら、すごい取り乱し様でした。
すっかり怯えてしまって、まったく話にならないくらいで……。
あとから聞いたら、寝ぼけていたそうです」
「……何があったんですか、あの子に」
今度こそ、本当に目つきが険しくなりました。マーガレットは怖い顔をして、クレイグに詰め寄ろうとしました。明らかに怒っています。
それはそうです。この皇女様は、「バルフォア家で虐められたなら、仕返ししよう」と真っ直ぐな瞳で言い放った人なのです。
けれど彼は彼女のことを手を上げて制して、口を開きます。
「それは、本人の口から……。
私が話してしまったら、エリカはきっと傷つきます」
マーガレットは何も言わずに、そっと俯きました。クレイグの言うことは、よく分かるのです。勝手に根掘り葉掘り聞き出されていい気分になる人なんて、そういるものではありません。
クレイグはマーガレットが落ち着いたらしいことを確認して、続けました。
「でもきっと、彼女は皇女様に話した方がいいと思います。
彼女の気持ちを、より理解してあげられるのは皇女様でしょうから」
「……聞いてみます。
あの子が話してくれるなら……」
頷いたクレイグは、静かに言いました。
「取り乱したエリカを落ち着かせて、話を聞きました。
それから、彼女が泣き疲れて眠るまで傍にいました。
……寝不足は、そのせいです」
「若い頃は徹夜なんて平気だったんですが……情けないですね」と苦笑混じりに呟いたクレイグを見て、マーガレットはこっそり溜息を零しました。
同時に、いっそのことお世話したいという気持ちがむくむくと……。
この時、リチャードが傍に控えていたら違う展開が待っていたのかも知れません。けれど、残念ながら彼は今、警備隊の詰め所に出向いているところです。
ぱちん、と手を叩いたマーガレットが口を開きました。
「分かりました。
クレイグさんには、やましいことはなかったんですね!」
「え、ええ、それはもちろん……」
真剣な顔つきから一転して笑顔の溢れる皇女様に、クレイグは訝しげに眉根を寄せます。皇女様の素敵な笑顔の裏に何かが潜んでいることは、既に学習済みなのです。
するとマーガレットは言いました。
「おかげでエリカが、なんとなく明るくなって……。
クレイグさんの傍にいると、安心出来るんでしょうか」
視線こそ、あさっての方向に向けられていますが、言葉はしっかりクレイグへとまっすぐに飛んできます。
その意図するところが分からなくて、彼は曖昧に「どうでしょうね……」などと呟いてみるしかありませんでした。
そんな中途半端な反応をした彼に、マーガレットはさらに言葉を続けます。
「わたし、もうすぐ皇女じゃなくなるんですよね。
だからエリカのことが心配なんですけど……?」
「それは、まあ、私も心配ではありますが……」
窺うように紡がれて、クレイグは訝しげにしながら顎を引きました。なんとなく、その先を聞くのが怖くなってきたのです。
するとマーガレットが微笑みました。目を細めて、口の端を持ち上げて。その顔はむしろ悪役令嬢のようで。
彼が何か言おうと口を開いたその時、彼女は言いました。
「どうにかならないかしら。
――――エヴァレットさん、でしたっけ。
貴方となら、エリカは幸せになれる気がするんですよねぇ……」
「……皇女様」
青ざめたクレイグに向かって、マーガレットは小首を傾げました。
可愛らしく、ほんの少しの苦笑を交えて。




