真夜中のカモミール 6
頭の芯が痺れて、何も考えられません。いえ、相手を蔑ろにしている自分のことを、見ないようにしているだけなのかも知れません。
何かを見透かすような白い月が、ぽっかり空に浮いています。
ばくばく煩い鼓動の音が、クレイグを内から急かします。
彼は鼻先がぶつからないように、ゆっくりと顔を傾けました。
その時です。
唇が触れる寸前で、エリカの吐息が乱れました。
それを合図に、人形のようだった彼女の唇がわずかに動きます。
「――――れ、いぐ、さ……?」
掠れた声は聞き取りづらかったけれど、クレイグは弾かれたように体を引きました。彼女を膝に乗せたままの状態では、限りはありましたが。
頭の中が真っ白です。雷に打たれたことはありませんが、ものすごい衝撃が体の中を駆け抜けていくのを感じて、クレイグは絶句しました。
さっきまでエリカに触れていた手が、後悔と懺悔で震えています。
彼は自分の口を思い切り塞ぎました。よからぬ行動に出ようとしていた唇なんて、彼女の目に晒してはいけないに決まっています。
視線が彷徨って、挙動不審です。今度こそ、本当に怯えられてしまうかも知れません。
クレイグは絶望的な気持ちで、心の中で天を仰ぎました。
すると彼女は息を吹き返したように、もう一度口を開きました。その瞳はゆらゆら揺れながらも、クレイグを見つめています。
そしてその唇から、声が零れ落ちました。
「え……?」
クレイグは、正気に戻ったらしいエリカの視線から逃げるように目を逸らしました。罪悪感で、今度は彼の方が発狂してしまいそうなのです。
「あ……」
掠れた声が痛々しいものの、彼女の表情からは怯えや苦痛は消えています。
クレイグは内心で小さな溜息をついて、エリカに言いました。言わずにはいられませんでした。
「……ごめん」
未遂とはいえ、なんてことをしようとしていたんだ。仮にも幼い娘を持つ父親だというのに……。
そんなふうに、彼は心の中で自分を罵りました。
「落ち着いた?」
クレイグは押さえていた口から詰めていた息を逃がすと、エリカに尋ねました。その台詞は、そっくりそのまま自分に跳ね返ってくるようでしたが。
ところが、彼女の反応はいまいちでした。もしかしたら、言われたことがよく分かっていないのかも知れません。
小首を傾げた彼女の様子を見て、クレイグは訝しげに眉根を寄せました。
「……まさか、覚えてない……?」
そう言いながら、頭の隅に「覚えていなかったら、それはそれでありがたい」なんて考えがちらつきます。
彼は浅ましい自分を心の中で叱り飛ばして、彼女の顔を見つめました。
「覚えて……?
だって私、コニーと一緒に眠ってて――――」
エリカは眉根を寄せました。そして、おぼろげな記憶を頼りに言葉を並べ始めると、はっとしたように顔を強張らせました。
「そうしたら、クリスが……!
もう大丈夫だと思ってたのに!」
唇から、悲鳴に似た声が飛び出します。
彼女は、ぎゅっと体を抱きしめて、ドアのあたりに視線を走らせました。
明らかに怯えた様子に逆戻りした彼女を落ち着かせようと、クレイグは丸まって小さくなった背中に手を伸ばしました。
「クリス……?
そんな人、この部屋にはいないよ。私達だけだ」
聞き覚えのない名前が飛び出したのが引っかかりますが、それは後回しです。今はとにかく、パニックになりかけている彼女を落ち着かせなくては。少し前の混沌とした状況が再びやってくることだけは、避けたいところです。
「でも……!」
取り乱したエリカは、語気を強めてクレイグを見上げました。夢と現実がごっちゃになってしまっているようです。
そんな彼女を両腕でやんわりと包んで、彼が口を開きました。
「本当だよ。
大丈夫。怖がらなくていい。
ちゃんと私がついてる」
ゆっくりと噛んで含めるように言い聞かせながら、彼はエリカの背中や腕をさすりました。時折、ぽんぽん、と軽く叩いて。
クレイグの温もりを感じたエリカは、少しずつ体の強張りをほどいていきました。まるで怖い夢を見て怯える幼子のようです。
コニーが夜中に抱きついてくるのを思い出して、彼は頬を緩めました。
「でも本当に、口を押さえられて……」
彼女は呟きました。自分の記憶に自信がなくなってきたのか、その瞳が遠くを見つめて揺らいでいます。
クレイグは彼女の言葉を聞いて、大きな溜息を吐き出しました。最初に見間違えたのはエリカの方かも知れませんが、パニックに陥れたのは暴挙に出た自分だと思うからです。
ゆっくりと体を離した彼は、そっと口を開きました。
「すまない、君の口を塞いだのは私なんだ。
悪いとは思ったけど、悲鳴でコニーを起こしたくなくて……」
「じゃあ……私、寝ぼけて……?」
エリカは零れ落ちるんじゃないかと思うくらいに、目を見開きました。
その顔を見たクレイグは、ようやく安堵の息を吐くことが出来たのでした。
部屋に備え付けられていたお茶の道具で温かい飲み物を用意したクレイグは、ソファに腰掛けて呆けているエリカにカップを差し出しました。
「カモミールだけど、飲めるかい?」
「はい」
小さく頷いた彼女の手が、それを受け取ります。
彼は、しょんぼりしてしまった彼女に頬を緩めながら、その隣に腰を下ろしました。
ランプを置いたテーブルの周りだけが、暗い部屋の中でぽっかり浮いているようです。
「……ごめんなさい」
ゆらゆら揺れる炎に照らされた横顔が、悲しそうに曇りました。
「ひとりにならなければ、大丈夫だと思ってたんですけど。
ベッドを譲ってもらったのに、結局クレイグさんに迷惑を……」
「そんなことはいいよ。
とりあえずそれ飲んで、ちょっと落ち着こう」
クレイグは、ぽつりぽつりと言うエリカの頭をぽふぽふと軽く叩きました。
このままの状態で詳しいことを聞こうとしても、ごめんなさい、がひと言目に出てくるような気がしてならなりません。それに、これでは彼女の申し訳なさそうな「ごめんなさい」を聞くたびに、居心地が悪くて会話に身が入らなさそうです。
彼女に見惚れて一瞬でも魔が差した自分を振り返った彼は、どんな顔をしたらいいのかも分からないのでした。
ふわりと優しい花の香りが、鼻先をくすぐります。
口に含んだお茶を飲み下したエリカは、ようやく気分が落ち着いたのか、カップをテーブルに置いて小さく息をつきました。
それを隣で見守っていたクレイグが、そっと口を開きます。
「落ち着いた?」
彼の声に、エリカが小さく頷きました。
「……じゃあ……」
言いかけた彼は、言葉の途中で視線を彷徨わせました。そして呼吸を整えると、思い切って続けました。巻き込まれるなら、ちゃんと巻き込まれたい。そんな気持ちで。
「その、クリスって人のことを……」
するとエリカが、ぴくりと肩を震わせました。
名前が出るだけで反応してしまうなんて、よほどのことがあったに違いない。
彼女の様子を見てそんなことを思ったクレイグの中に、黒い何かが燻ぶり始めました。苛立ちとも違う、なんだか雲のような掴めない気持ちです。
彼は自分の中に膨らんだものに戸惑ったのも束の間、縫ったように口をぴったり閉じた彼女に言いました。
「じゃあ、私の想像を勝手に話すよ。
違うところがあれば否定すればいい」
「クリスというのは、君の義弟だね?」
ひと言目で、エリカの強張った顔がクレイグを見上げました。けれど、否定の言葉が飛び出してくる気配はありません。
彼はその瞳が揺れているのを見つめながら、続きを口にしました。
「君は、彼から逃げてきた。
前にいろいろあった、と言ってたけど……さっきの様子では……」
言葉を切った彼の手が次のひと言を口にするために、ぎゅっと握りしめられます。喉の奥に言葉が詰まって、思うように声が出せません。
彼は呼吸を整え、思いきって言いました。
「乱暴でもされたんじゃないかと、思いたくなるけど……?」
エリカの唇が、わなわなと震えました。
「ちがっ……あれは……」
言葉がうまく繋がらない彼女を見つめて、彼は尋ねました。
「あれ、って?」
すると彼女の視線が、うろうろと落ち着きなく彷徨い始めました。次に言うべき言葉を探しているようです。
「エリカ。
何をされたんだ?」
自分でも驚くほど、静かな声が出ました。まるで、嵐の前に凪ぐ水面のように。
もう少し待てなかったのか、と思いました。けれど、体の中で燻ぶる黒い何かに突き動かされてしまったのです。
クレイグの問いかけに、エリカはびくりと首を竦めました。
それを見た彼は、はたと我に返りました。そして、燻ぶり続けているものを溜息と一緒に吐き出してから、手を伸ばしました。
彼女を萎縮させて、怖がらせたいわけではないのです。
滑らかな黒髪を撫でた彼は、小さな声で囁きました。
「エリカを責めてるわけじゃないんだよ。
ただ、私が君に何をしてあげられるのか考えたいだけなんだ」
手のひらから体温が沁み込んでくるのを感じて、エリカは頷きました。
「あの……私が、いけないんだと思うんですけど……」
彼女がおずおずと話し始めてすぐに、クレイグは眉を跳ね上げました。
あれだけ怯えておいて、何がどうしたら「私がいけない」になるのか。そもそも彼女が、いけないと分かっていることを率先して行うとも思えないのですが。
彼が内心で首を捻っていると、エリカが続けました。
「クレイグさんの言うとおり、クリスは義弟です。
実はここ数か月で、クリスの様子がおかしくなったんです。
最初は、呼びだされることが増えて……。
食糧庫にチーズを取りに行け、と言われて行ったら、すぐあとから
あの子もやって来て……チーズ置き場とは別の所に……とか……」
そこまで聞いたクレイグは、閉じた口の奥で歯を食いしばりました。
だんだんと、話が自分の想像した方向へ展開している気がするのです。そうでなければいい、という祈りに似た気持ちは、もう捨てるべきなのでしょうか。
黙り込んでしまっていては、エリカが何かを察するかも知れません。彼はなるべく平静を心がけて、先を促しました。
「それで、その……理不尽な言い付けには慣れてたんです、けど……」
彼女は一度言葉に詰まったあと、呼吸を整えて再び話し始めました。
「でも、ある日の夜中に目が覚めたら、あの子が……っ」
途中で言葉を失った彼女の指が、クレイグの服の裾を掴みました。その指先が、ぶるぶると震えています。
彼はしばらくエリカの指が、きゅっと力を入れるのを呆然と見つめていました。
話の内容が頭の中で乱反射してしまって、考えが纏まりません。
「ぺたぺた触られて、き、気持ち、悪くて……」
震える声で話しきった彼女の瞳から、ぽろぽろと涙が零れました。落ちた涙が、ソファに染み込んでいきます。
それさえ見つけなければ気づかないほど静かに、彼女は泣いていました。
クレイグは彼女の指をやんわりと剥がして、強張りが溶けるようにゆっくりとさすりました。
なんとなく、助けてと言われたような気がしたのです。
飽きることなく彼女の手をさすり、あとからあとから零れる涙を拭ってクレイグは言いました。
「思い出させて、悪かった。
……許して欲しい」
するとエリカが、ぶんぶんと首を振りました。
何か言いたいことがありそうな顔をしてはいますが、目元にぷっくり膨れた涙を堪えるので精一杯のようです。
これはあれです。どう見ても強がりです。
鈍感なクレイグでも、それは見てすぐに分かりました。
彼は苦笑混じりに彼女の顔を一瞥すると、ぐいっとその肩を引き寄せました。
「う、むっ」
ぽすん、という間抜けな音が響くのと同時に、黒い髪が波打ちます。
クレイグはエリカを力いっぱい、強がりなんて通用しないくらいに抱きしめました。涙が零れないように注意を払ったり出来ないくらいに。
「くっ、くるし……っ」
悲鳴に似た声が聴こえてきて、それまで苦笑混じりだった彼の顔から甘いものが滲み出てきました。
腕の中に押し込められた彼女からは、そんな彼の表情を窺い知ることも出来ません。ただ、息苦しさと混乱の相手をするので手がいっぱいです。
クレイグは、もがくエリカの頭をぽふぽふして言いました。
「――――泣いてもいいんだよ」
そのひと言が耳に入った瞬間、彼女がもがくのをピタリと止めました。代わり細い腕が背中に伸びて、彼のシャツをぎゅっと握りしめます。
そしてエリカは、わずかな間ぷるぷると震えていたかと思うと、すぐに鼻をすすり始めました。その音はやがて喉を詰まらせる音になり、嗚咽に変わりました。
クレイグは彼女の髪を撫で、背中をぽふぽふ叩き、額に唇を落としました。魔が差した時とは違う、優しい気持ちで。
「今まで、ひとりでよく頑張ったね……エリカ」
その夜、エリカは声を上げて泣きました。
幼い子どものように、みっともなく、顔をぐしゃぐしゃにして。




