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真夜中のカモミール 5









「ふぅ……」

欠伸を噛み殺したクレイグは、大きなソファに背を預けて目を閉じました。

バルコニーにつながる窓辺に月明かりが差し込んでいます。もう夜もだいぶ更けたようです。

「まったく、嫁入り前の娘が……」

ベッドルームのドアを一瞥したクレイグは、エリカの言葉を思い出して溜息混じりに呟きました。時折やってくる眠気をやり過ごすために、入念に目頭を揉みながら。

その彼女は今、キングサイズのベッドで眠りについているはずです。コニーと一緒に。


クレイグが、いそいそとソファを寝床に模様替えしていたエリカの腕を掴んで、ベッドルームに連行したのです。有無を言わさずに、自分がソファで寝ると宣言して。

エリカはクレイグからベッドを譲られた時に、「これだけ大きかったら、クレイグさんも一緒に横になれませんか……?」なんて言っていましたが……。


靴屋に居候させている時点で彼の主張には矛盾があるような気もしますが、それはそれなのです。第一、1階と2階に分かれていましたし。

特に今の彼女は、“皇女様が世話をする縁談”が舞い込むかも知れない身。同じ部屋で眠るなんて、言語道断なのです。


「……ああ」

考えを巡らせていたクレイグの唇から、ふと声が零れました。その目は細められ、けれど口の端がほんの少し歪んでいます。

「そうか」

自嘲めいた笑みは、静かな部屋に乾いた余韻を残しました。

彼は気づいてしまったのです。

「恩返しは、もう終わりってことか」








可愛い自分の分身を養うためだと思えば多少の痛みなんて消えてしまう。だから頑張れる。

そんな思いを糧に働きづめだった毎日は、残酷にも唐突に、何の前触れもなく泡のように消えてしまいました。

湿った風の吹く夜に。


酔っ払いの気配すらない夜道の曲がり角に立ったクレイグは、怪訝そうな表情を浮かべて首を捻りました。

妻と子の待つ部屋の明かりが、消えているのです。

いえ、こんなに遅い時間なのですから、どこの家も部屋の明かりは消えていて当然ではあるのです。不思議なのは、真夜中に帰宅するクレイグのために灯してあるはずの一本の蝋燭の明かりすら、消えていることでした。

それが意味することを無意識に考えた次の瞬間、嫌な予感が脳天からつま先へと駆け抜けました。動悸がして、どうしようもなく不安な気持ちを抑えることが出来ませんでした。


クレイグは思わず駆けだしました。

鉛のように重い足も、節々が痛む腕も、気になりませんでした。気にしているだけの余裕は、ありませんでした。

ばたばたと音を立てて階段を駆けあがることが近所迷惑になることも、不安に駆り立てられたクレイグにとっては、どうでもいいことでした。


彼が部屋のドアを開けて見たものは、絶望そのもの。

目の粗い紙には、小さな字が心細そうに並んでいて。

それは決別の、裏切りの言葉。






かくんっ。


頭が落ちそうになって息を詰めた瞬間に、クレイグは目を覚ましました。

「眠ってたのか……?」

ぼんやりと呟いた割に、頭の中は冷たく研ぎ澄まされています。

冷たく暗い、それほど遠くない記憶。

それは、こんなふうに疲れた夜に忍び寄ってくるのです。

何度も襲われて慣れてしまった無力感に背を預ければ、口からは溜息が零れ落ちました。

「……疲れてるな、さすがに」

額に手を当てて俯き加減になった彼は、水でも飲もうと立ち上がりました。


空になったグラスを手に、クレイグは思いました。ほんの少しだけ、様子を見に行ってもいいだろうか、と。

エリカではありません。コニーの様子です。

もちろん、昼間に動揺し尽くしていた彼女のことも気になりますが、泥のように眠りこけて着替えすら出来ないままの娘が気になるのです。

汗をかいたままにして、風邪でも引いたら大変です。そうなったら、皇女様のご迷惑になるかも知れません。

「……だよな」

大義名分を自分に言い聞かせた彼はグラスを置くと、ベッドルームのドアの前に立ちました。そして、恐る恐るドアノブに手をかけました。

今までになく、後ろめたい気持ちで。




床にもドアにも、軋みのひとつもありません。さすが皇女様の住まいです。

変なところに感心したクレイグは、音を立てないように細心の注意を払いながらベッドルームに滑り込みました。

真っ暗な部屋には月明かりがひっそりと差し込むばかりで、特に寝苦しそうにしている気配は伝わってきません。

クレイグは物音を立てないように佇んで、暗さに目が慣れるのを待ちました。


しばらくすると、ただの暗闇だった視界がだんだんとハッキリしてきました。

彼はすぐに、カーテンを閉め忘れていたことに気づいて眉根を寄せました。どちらがベッドで寝るのか、なんて話をしていて、すっかり忘れていたようです。

まあいいか、皇女様の住まいで不用心もなにもないだろうし……とクレイグは思いました。

帝都の片隅にある靴屋とは違って、ここは皇女様を守れるほどの警備体制が敷かれているのです。


クレイグはカーテンをそのままに、ベッドに近づきました。

見れば、コニーが毛布をかけずに丸まっています。寝返りを打っているうちに、蹴ってしまったのかも知れません。

少し離れたところに、黒くて丸いものが転がっています。エリカの頭です。

彼は眠りこけているコニーの顔を覗き込みました。すーすー、と規則正しい呼吸音が聴こえてきます。

クレイグは苦笑を浮かべながら毛布をお腹のところに掛けて、安堵の息をつきました。

そして、物音を立てないように踵を返しました。今さらなんだけど、と頭の隅で呟きつつ。

やっぱり嫁入り前の娘がベッドに入っている姿を見るのは、どうかと思うのです。


エリカの姿がなるべく目に入らないように気をつけながら、クレイグはベッドルームから出ようとしました。

すると、その時です。

避けていた場所から、声が聴こえてきました。




「エリカ……?」

言葉が口から零れた瞬間に、しまったと思いました。けれど、一度出てしまったものは戻りません。

クレイグは慌てて噤んだ口を開きました。

「ごめん、起こしてしまったね

コニーまで起きてきたら、再び寝付かせるのが大変です。

彼は小さな声で囁きました。

けれど返ってきたのは、苦しそうな吐息だけ。

「……エリカ」

思わず、とばかりに囁いたクレイグの顔が強張りました。

思い出したのです。つい先日庭先で倒れた彼女が目を覚ます前にも、魘されていたことを。


クレイグは少し前に決意したことを、あっさりとひっくり返しました。

エリカの苦しそうな様子が脳裏に浮かんだ途端に、いろんなことが頭の中から吹き飛んでしまったようです。

大股でベッドに引き返した彼は、彼女の前に膝を着きました。そして、毛布から覗いている真っ黒な頭に手を伸ばしました。コニーが再び毛布を蹴ってしまっていることには、構いもせずに。


う、と呻き混じりの吐息が聴こえました。

もしかしたら、うつ伏せて毛布を被っているから、苦しいだけかも知れない。そんなふうに考えたクレイグは、咄嗟に毛布を少しずらしてやりました。

けれどエリカの苦しそうに力んだ頬が、緩む気配はありません。歯を食いしばっているのか、時折ぎりり、という音が漏れ聴こえてきます。

「エリカ……」

これ以上どうしたらいいのか分からなくなって、クレイグは思わずその名を呟きました。

すると彼女の口から、声が零れます。返事というには、あまりに辛そうな声です。

クレイグはとうとう見ていられなくなって、彼女の肩を揺すりました。


「エリカ?

 ……大丈夫かい?」

軽く揺すっただけで、エリカの瞼が震えました。思っていたよりも眠りが浅かったようです。

クレイグは、もう一度彼女の名前を呼びました。

「……エリカ?」

「ん……」

歪んでいた彼女の口元から、小さな声が零れました。ぴったり閉じた瞼が、ぴくぴく震えています。

もうすぐ目を覚ます予感に、クレイグは息を詰めました。起こしてごめん、と言おうと思いながら。


彼が頭の中で言葉を練っていると、ふいにエリカの目がうっすらと開きました。まるで蕾が綻ぶように、ゆっくりと。

クレイグは思わず、その顔を覗き込みました。

「……ん、ぅ……?」

声が零れ落ちたのと、彼女の瞳がくっきりと彼を捉えたのは、ほとんど同時でした。

「起こしてしまって、すまない」

用意していた言葉を囁きながら、クレイグは手を伸ばしました。エリカの額に張り付いた髪のひと筋を、そっと払います。

「君があんまり魘されていたから……」

申し訳なさそうに彼が呟いた瞬間、エリカの目が零れ落ちんばかりに見開かれました。


それは、驚きでも嫌悪でもなく――――




「あ……」

見開いた目が、みるみるうちに歪みました。

そして、想像していたのとは違う反応に戸惑ったクレイグが、声をかけようと口を開くよりも早く。エリカの口から悲鳴じみたものが次々と溢れだしたのです。

「やっ、やめ……っ」

クレイグはエリカに何が起きているのか、すぐには理解出来ませんでした。

かろうじて聞き取れた言葉はそれだけで、あとは言葉にならないものばかり。何かを言っているものの、カチカチという音が邪魔をします。

彼が、それが歯の根が合わなくなった音だと気づいた時には、彼女の顔はすでに恐怖に歪んでいました。


ぶるぶると震える体を自ら守るように抱きしめて、エリカは瞬きもせずにクレイグの顔を見つめています。まるで、化け物を前にしたような表情で。

「え、エリカ……?」

戸惑いを隠せない彼が声をかければ、その震えは一層強くなるばかりです。

普通じゃない……とクレイグは思いました。

その時、ふいに横から声が聴こえてきました。毛布を蹴って体が冷えたのか、コニーが寝苦しくなったようです。

ちらりと娘を一瞥した彼は、勢いをつけた雑な手つきで娘に毛布を掛けてやりました。心の中で「ごめん!」と詫びながら。

コニーがもぞもぞと放り投げられた毛布にくるまって、寝息を立て始めました。


娘の寝息を片方の耳で聞き流したクレイグは、がたがた震え続けるエリカの肩に手をかけました。

その瞬間に、彼女の目がひときわ大きく見開かれました。

「――――ひっ……」

エリカが思い切り息を吸いこむのを見ていた彼は、慌てて彼女の口を手で覆いました。悲鳴でも上げられたら、せっかく寝付いたコニーが起きてしまうかも知れません。


ところが口を塞がれたエリカは、さらにパニックに陥ったのでしょう。両手両足をめちゃくちゃに動かして、目の前にいるクレイグから逃げようとします。

振り回した手が、彼の目のすぐ横を通り過ぎていきます。同時にチクリとした痛みを感じて、彼は息を詰めました。

今のエリカは完全に正気を失っている……そう思った彼は、思いきった行動を取ることにしました。万が一、コニーが取り乱したエリカを目撃してしまったらと思うと、躊躇していられません。


「エリカ、ごめん」

耳に入っていないと分かっているものの、クレイグは小さな声で呟きました。そしてエリカの口を塞いだまま、空いている方の手を伸ばしました。

刺繍や炊事の得意な細い両手が、抵抗の甲斐もなく熊のような大きな手に捕えられます。

なんだかもう、これじゃまるで暴漢です。この瞬間に皇女様かリチャードが現れたら、間違いなく抹殺されるに決まっています。もちろん社会的な意味で。

そんなことを考えたクレイグは、溜息をつきながらエリカを抱え上げました。




両手と口の自由を奪われたエリカは、必死に足をばたつかせました。器用にベッドルームのドアを閉めたクレイグの足が、白い素足に思い切り蹴られています。

「いたたた」

体格が全然違うとはいえ、痛いものは痛いのです。顔色ひとつ変えずに堪えられる痛みではありますが、コニーを起こしちゃいけない、と思って抑えていた声がぽろぽろ零れていきます。


ぽかぽかと蹴られ続けたクレイグは、エリカを抱えたままソファに沈み込みました。ふたり分の体重を預けられたそれが、悲鳴を上げるように軋みます。

ぎし、という音を聞きながら、彼は口を開きました。

「エリカ」

無理やり座らされて足も思うように動かせなくなった彼女が、彼の膝の上で、ぴくりと体を震わせました。そして、それっきり静かになりました。

全く抵抗する気配がなくなったのを感じた彼は、押さえつけるようにしていた腕から力を抜きながら言いました。エリカが怖がらないように、そっと。

「大丈夫」

目を覚ました瞬間の、恐怖に引き攣った顔が忘れられません。

クレイグは力を入れないように注意を払いながら、まだ歯の根が合わない彼女を包むように抱きしめました。怖い夢を見て飛び起きたコニーに、そうするように。

エリカは、もう悲鳴を上げようとはしませんでした。

抵抗する気力を失くしただけなのか、それとも正気に戻りつつあるのか……クレイグは内心ひやりとしながらも、とにかく彼女を落ち着かせることにしました。

彼の熊のように大きな手が、彼女の腕をぽふぽふ叩きます。ゆっくりと優しく、その呼吸のリズムに合わせて。

「大丈夫だよ、エリカ。

 私がそばにいる」


怖い夢に魘された幼子に向けるのと変わりない言葉を並べて、クレイグは唇を歪めました。エリカが自分たちの部屋で過ごしたいと言った理由が、なんとなく分かったからです。

きっと、かの義弟と関係があるはずだ……と彼は思っていました。市場での一件を聞いて真っ青になった彼女の顔と、正気を失うほど怯える姿を見てしまっては、ただの悪夢のせいだなんて思えるわけがありません。


「大丈夫。

 大丈夫だ」

そう言い聞かせるようにしながら小刻みに震える腕や肩を撫で続けていると、ふいにエリカがクレイグの顔を仰ぎ見ました。焦点が合っているのか微妙な、どこか憑き物がおちたような雰囲気を漂わせて。


ぼんやりとクレイグの顔を見つめているエリカに、恐怖に支配されている様子はありません。ただ、意識がどこか遠くにあるのか、彼が眉根を寄せても反応もなく。

「エリカ……?」

不審に思った彼は、咄嗟に彼女を抱え直しました。

横抱きにして、その額に手のひらを当ててみます。高熱でも出したのかと思ったのですが、そうではなさそうです。

手のひらに熱らしい熱を感じなかった彼は、ますます怪訝な顔をしました。もしかして壊れてしまったでは……と、嫌な予感が脳裏をよぎります。


クレイグは手のひらをエリカの頬に当てて、その瞳を覗き込みました。

けれど彼女は、照れくさそうにする気配もありません。

「……どうしたんだ」

呟いた彼の手が、彼女の頬を摘まみます。

それでもやっぱり、不満そうな表情が浮かぶことはありませんでした。

「エリカ」

だんだんとクレイグの声に、焦りの色が滲み始めました。押しても引いても反応がないことが、彼を不安にさせるのです。

ぺちぺち、とエリカの頬を軽く叩いてみても、やっぱりダメです。

クレイグは自分の鼓動が嫌なリズムを刻んでいるのを感じながら、そっと目を伏せました。お互いに目が合っているはずなのに、彼女が自分を見ていないと分かってしまったのです。

「なんなんだ……一体……」

そう呟いて、彼はエリカの頬を撫でました。耳も目尻も、淡く出来た目の下のクマにも、指先を這わせました。そして、少し緩んだ唇にも。


ふに、とした柔らかい感触に、クレイグは目を見開きました。

緩んで開いた唇からは、呼吸するたびに吐息が零れています。

その甘い吐息に吸い寄せられるようにして、そっと顔を寄せました。



自分がどうしてこんなことをしているのか、クレイグには分かりません。

ただ頭の冷静な部分が、「嫁入り前の娘にこんなことして、許されると思ってるのか」と警告してきます。それと同時に、どこからか「もしかしたら、これで気づくかも」という、根拠も何もない悪魔の囁きが聴こえてくるのでした。




心臓が暴れて、手がつけられません。

ひどく息が上がって、まるで何かから全力で逃げているようです。


クレイグは、少し前の自分だったら絶対にしないようなことをしている、という自覚がありました。こんなのおかしい、と。

けれど、もう歯止めがききそうにありませんでした。

エリカの瞳に自分が映っていないことが、すごく嫌で。それだけなのに。



近付けた唇に吐息が触れて、彼は目を伏せました。

こんなに最低な自分と相対するのは、初めてのことでした。









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