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真夜中のカモミール 3









「あっ」

お昼寝から起きてきたコニーは、思わず声を上げました。エリカの指に巻かれた、真っ白な包帯が目に飛び込んできたのです。

彼女はすぐに、刺繍道具を片付けているエリカのもとに駆け寄りました。

「エリカちゃん、ケガしたの? いたい?」

小さな手が針を触らないよう針山をカゴに戻したエリカは、包帯の巻かれた指を、ぴっと立てて見せました。

「大丈夫、クレイグさんが手当してくれたから」

リチャードから救急箱を受け取ったクレイグが、難しい顔をしながら巻いてくれたのです。エリカは彼の熊のような手が器用に包帯を巻くところを思い出して、思わず笑みを零しました。

そんな彼女の様子を見たコニーは、小首を傾げるばかりでした。怪我の話をするのに、どうして全然平気そうなんだろう、と。




「……リチャード?」

足の採寸が終わり、濡れたタオルで足を拭いていたマーガレットが小首を傾げました。

タオルを渡そうと思ったのですが、従者の彼の姿が見えないのです。たいていの場合は、振り返ればそこに佇んでいるというのに。


すると、お絵かきをするコニーの相手をしていたエリカが彼女に言いました。

「あ、そういえばさっき、厨房にお湯をもらいに行くって……」

「……そう」

「どうかしたの?」

エリカはマーガレットが顔を曇らせて頷いた気がして、咄嗟に尋ねました。

問いかけに、素足をぷらぷらさせたままの彼女が首を振って口を開きます。

「ううん、ちょっと……。

 リチャードったら、声くらいかけてよ……」

ぼそりと呟いたその言葉を、エリカはしっかり聞いていました。

だから、こう言ったのです。

「じゃあ私、今から厨房に行ってくるよ」




エリカはふかふかの赤い絨毯を踏みしめ、小走りに螺旋階段を下りていきます。

さっきは慌てすぎて踏み外してしまいましたが、今度はそうはいきません。息を詰めた彼女の手は、手すりをしっかり捕まえています。

ところが。その足が、階段の途中でぴたりと止まりました。


「……あ……」

唇から、声なのか吐息なのか分からないものが零れ落ちて。次の瞬間、彼女は顔を覆って立ち尽くしてしまいました。

脳裏に蘇ってしまったのです。クレイグに抱き上げられた時のことが。

熊のような腕や手のひらの感触が、体に纏わりつくようです。かき消そうと両手で頬を叩いてみるものの、全く無駄でした。

「あ、わっ……」

エリカは耐えられなくなって、ついに悲鳴じみた声を上げました。

コニーにするのと同じだったじゃない、と自分に言い聞かせてみても、扱われ方と恥ずかしさは関係ないようで。

顔を真っ赤に沸騰させた彼女は、ぱたぱたと手で扇いで深呼吸をくり返したのでした。


「ふぅ……」

思い切り吸い込んだ空気を吐き出して、エリカは再び階段を下り始めました。

……早くしなくちゃ、リチャードさんが戻って来ちゃう。

そう強く思えば、恥ずかしい場面が頭の中でくり返されるのもなんとかなりそうです。

彼女はぎこちなく足を動かしながら、呟きました。ぺち、と頬を叩いて。

「今は、こんなこと思い出してる場合じゃないのに」

柔らかだった気持ちが、ぎゅっと硬くなります。エリカは眉根を、きゅっと寄せました。

それまで頭の中に詰まっていたはずのマーガレットやコニーの声、クレイグやリチャードの難しい顔が、波が引いていくように消えていきます。

入れ替わりに頭の中に浮かんだのは、義弟のことでした。

クレイグの口から事の次第を聞いた時は思い切り動揺してしまいましたが、刺繍をしたこととマーガレット達の話し声が、気を紛らわしてくれたようです。気が緩んで思い出してしまった瞬間、手が震えて指を刺してしまいましたが……。


まだ、メグお姉ちゃんには黙っておこう。舞踏会や結婚相手のことで忙しいみたいだし……それに、私はここに居させてもらえれば……。

エリカは、そう心の中で呟きました。






「コニー?」

木型作りの道具を片付けて戻ったクレイグが、マーガレットとお絵かきをしていたコニーに尋ねました。

するとコニーは色鉛筆を何本も小さな手いっぱいに握って、真っ白な紙に視線を落としたまま口を開きました。

「なーにパパ?」

「エリカの姿が見えないけど……。

 どこに行ったか知ってるかい?」

部屋中に視線を這わせたクレイグを見かねて、マーガレットが笑みを浮かべました。コニーでは説明出来ないと思ったのです。

「あの子なら、厨房のリチャードのところに伝言に行ってもらってます」

案の定、彼の顔が強張りました。

まだ慣れないのです。自分と一生関わることのないであろう皇女様と、こうして同じ部屋にいることに。気安いなんてもんじゃありません。

言われた通り、膝をつくのは止めました。けれど、やっぱり顔を突き合わせているだけで緊張してしまうのです。

マーガレットは彼の顔の強張りを見て、我慢出来ずに噴き出しました。

「ごっ、ごめんなさ……っ」

そう言いながらも、ぷくく、と端々に笑みが零れています。

クレイグはどんな顔をしていればいいのか分からなくなって、思わず頬を掻きました。

そんな父親と優しいお姉さんのことを、コニーが不思議そうに見つめています。


ふぅ、と息を吐き出したマーガレットは、困った顔を正直に晒しているクレイグに言いました。

「だから、普通にしてて下さい。クレイグさん」

手をぱたぱた振りながら言われて、彼の眉が八の字を描きます。

「いえ、その……」

「だってこれじゃ、わたし……無視されてるみたいで悲しいです」

マーガレットはわざとらしく言いました。目を伏せて、しんみりと。

その横ではコニーが大人達の不穏な空気を感じたのか、見て見ぬ振りをし始めました。黙々と真っ白な紙に絵を描き続けます。

クレイグは慌てて口を開きました。

こんな場面をあの鉄仮面な従者に目撃されたらと思うと、冷や汗が滲んできます。ただで済むはずがないのです。社会的に抹殺されるに決まっています。

「そんなつもりは!」


彼の慌て様を見たマーガレットが、静かに息を吐き出しました。

「分かってます。だから余計に悲しいんですよね。

 この生活を始めてから、人が遠くなってしまって。

 そういうイジメなんだったら、まだ、もうちょっと戦えたけど……」

肩を落とした彼女は、どこか演技がかっています。けれど、それが本心なのか自分を右往左往させるための戯言なのか、クレイグには分かりませんでした。

だから、何も言えませんでした。


「……ふふっ」

マーガレットの零した笑みで、クレイグは我に返りました。少し考え込んでしまっていたようです。

そんな彼がぽかんとしていると、彼女は首を振って言いました。

「ごめんなさい、困らせちゃって。

 ……リチャードはわたしが何を言っても動じないから、つい」

言葉の外に、“つい楽しくて”と言われた気がして、クレイグは眉を八の字に下げました。まだ自分の反応を見て楽しまれていた方が、気持ちが楽だと思ったのです。

力を抜くように溜息をついて、彼は言いました。

「……それは少し、分かるような気もしますが」

「そうですよねー!」

そのひと言に、マーガレットは手を叩いて喜びました。


リチャードに愛想がない、嫌味と揚げ足取りは日常茶飯事、全然優しくない……などと、ひとしきり従者に対する不満を述べ終えたマーガレットの目元が、ふいに険しくなりました。

「それでね、クレイグさん。

 貴方に聞きたいことがあるんです」

「私に、ですか。

 申し訳ありません。丁寧に説明したつもりだったんですが……」

「いえ、靴のことではないんです」

てっきり靴が出来上がるまでのことを指しているのだとばかり思っていたクレイグは、マーガレットに遮るように言われて、きょとん、としました。

すると彼女が、ぐっ、と頬に力を入れて口を開きました。

「……エリカのことで」


唐突に飛び出した名前に、クレイグは一瞬言葉に詰まってしまいました。

「か……、彼女がどうかしましたか」

動揺して視線を逸らした彼を見て、マーガレットが口を開きます。その瞳は、まっすぐに彼を射抜いていました。

「やっぱり、何かあったんですね。

 様子がおかしかったから気になってたんです。

 ……バルフォア家の件で、何か動きが?」

断定するような口調の彼女に、クレイグは考えを巡らせました。ここで誤魔化しても、きっとこの皇女様は持ち前の世話焼き気質で追及してくるに違いない……と。

彼は声を落として答えました。ちらりとコニーを一瞥して。

「お預かりした手紙を渡しに、市場へ行ったんですが……。

 そこで、エリカの義弟が彼女を探しているところに遭遇しまして」

コニーはいつの間にか、自分の世界に浸ってお絵かきを楽しんでいるようです。真っ白な紙も、描き心地が良かったのでしょう。

娘の様子に安堵したクレイグは、視線をマーガレットに向けました。

「あの子が刺繍を買い取ってもらっている店で、ですか?」

「いえ……市場の入り口にある、綿飴を売っている屋台です」

“エリカの義弟がいた”ということは、なんとなく予想済みだったのでしょう。マーガレットは少しも驚いていないようです。

小さく首を振って答えたクレイグに、彼女が眉根を寄せました。

「その綿飴の屋台の店主は、どう答えたんでしょうか」

「最初は“知っている”と答えたようですが……。

 義弟の態度を見て不審に思ったのでしょう。

 途中で“やっぱり別人だ”と言ったそうです」

「それは……店主が良い方で助かりましたね……」

話の途中で内心ひやりとしたマーガレットは、最後まで聞いたところで溜息混じりに呟きました。

その呟きに、クレイグが頷きます。疲労の色を滲ませながら。

「ええ、まったくです……。

 ですが……もう時間の問題かも知れません」

「靴屋に身を寄せていることが知られるまで……ですね」

マーガレットも、眉間にしわを作ったまま頷きました。



「――――では、警備隊に手紙を出しますね。

 市場も含めて、市街の警備を強化してもらいましょう。

 見回り順路の中に、靴屋も入れてもらえれないか書いてみますね。

 それから……」

難しい顔をしたマーガレットが、つらつらと考えを並べていきます。

ふたりは、これからどうするかを話し合っていたのです。

ここまできたら、もう皇女様がどうの、という意識は頭の隅に追いやられてしまったのでしょう。クレイグも真剣な顔つきで、自分の意見を口にします。

「警備隊に飲み仲間がいるので、そいつに頼んでみます。

 バルフォア家の連中の動きを知らせてもらえないかどうか」

すると、マーガレットが頷きました。

「そうですね、それがいいと思います」


ひとしきり対策を練ったところで、クレイグが言いました。

「ところで、皇女様……」

書斎から真っ白な便箋と封筒を持ってきたマーガレットは、小首を傾げました。もしかしてペンも必要だったかしら、と思いながら。

「何ですか?」

返事をしたマーガレットに、クレイグは言いづらそうに視線を落としました。本人のいないところで話し合ってしまったことが、なんだか後ろめたくて。

「警備隊を動かすことは、エリカには……」

「伝えない方がいいですか?」

察しのいい皇女様が、訝しげな表情で尋ねました。

するとクレイグは、控えめにひとつ頷いて言います。

「ええ……出来れば、少し時間をおいて下さいませんか。

 自分の指を刺してしまうほど動揺しているのかと思うと……」

「……わかりました。

 では明日のお茶の時間にでも、少し話してみましょうか。

 警備体制を強化してもらった、くらいなら平気ですよね?」

マーガレットは、暴走したりしませんでした。

分かっているのです。自分が知っているのは幼い子どもだった頃のエリカで、今の彼女を知っているのはクレイグだということを。

だから、今すぐにでもバルフォア家であったことを聞き出したいのを堪えているのです。エリカの身の上を知っても、クレイグは目の色を変えたりしなかったのを見ていたから。

マーガレットは、きっとこの人はエリカ自身を見ているんだ……なんて、そんなことを思っているのです。ほんの少し、羨望に似た感情を抱きながら。


その羨望がマーガレットに、にょきっと悪魔の尻尾を生やしました。

「まあでも」

悪戯をする子どものように、にやりと笑みを浮かべた彼女は言いました。変わった声色に唖然としているクレイグを見つめて。

「最初にエリカ話してしまったのは、クレイグさんの作戦ミスですね」

「それは……申し訳ありません」

その通りだと思っているクレイグは、素直に頭を下げました。

下げる相手が違うような気もしますが、この際それはどうでもいいことです。マーガレットがエリカのためを思っているのは、よく分かっているのだから。

言い訳もせず、あっさり頭を下げた彼を見つめて、彼女は思わせぶりに溜息をつきました。

「わたしは、もうすぐあの子の力になれなくなります。

 それはもう決定事項なんです。

 ……だから、勧めてみようと思うんです」

「え……?」

クレイグは、呆然と声を漏らしました。この会話の流れは、ずいぶん前に一度聞いたことがあるような気がします。

するとマーガレットが、真剣な顔つきで口を開きました。



「結婚です。

 わたしが世話をすれば、それを引き裂くことは難しいでしょうから」

瞳が零れるほどに目を見開いたクレイグに、マーガレットは続けました。

ごめんなさい、と心の中で呟いて。

「だって、考えてみて下さい。

 クレイグさんの家に、このままの状態でずっと置いておけますか?」










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