出会いはベージュの靴と 4
はしゃぎ疲れたのか、コニーの頭がこっくりこっくり、船を漕ぎ始めました。昼食もとらずに遊び、滅多にないお客さまが家にいる状況で気分が高揚してしまったせいでしょう。
クレイグは苦笑を浮かべながら立ち上がって、コニーに声をかけました。
「コニー、寝るならベッドだよ」
「んー……」
大きな手で肩をそっと叩かれ、眉根を寄せたコニーの口からは、唸るような声が漏れ聴こえてきました。その間にも小さな体が斜めに傾いで、かくんっ、と揺れます。
「……しょうがないな」
溜息混じりに言いながらも、クレイグはコニーを抱き上げました。その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいます。
幼児とはいえ、人1人を軽々と片手で抱えた彼は、ぽかんとその様子を見ていたエリカに向かって言いました。
「娘を寝かしつけて来る。
戻ったら、少し話をさせて。さっきの続きをちゃんとしたいから」
クレイグはエリカが頷きを返す間すら待たず、むにゃむにゃ何かを呟いているコニーを抱えて階段を上っていきました。
静まり返った食卓にひとり残されて、エリカはゆらゆら揺れるランプの炎を眺めていました。私は一体、何をしてるんだろう……そんなことを考えながら。
長年暮らした場所を飛び出したことに、後悔はありません。お金に困った今ですら、絶対に帰りたくないくらいです。ただ何も持たず、爆発した感情のままに駆けだしてしまった自分が情けなく思えてならないのです。
昼間、クレイグはエリカの素性を突き詰めるのを途中でやめました。そしてどういうわけか、ひと晩くらいなら家に置いても良いと言い出したのです。それも、かなり強引に。
もちろん最初は断りました。靴をもらって、その上泊めてもらうだなんて、と。
けれど、クレイグに言われてしまったのです。「今の君の状況では、うち以上に安全な場所はないと思うけど」と。たしかに“子どものお駄賃程度”の路銀では、金銭以外の対価を払って宿をとるしか、方法はないでしょう。
もしかしたら教会は無償でソファのひとつくらい、貸してくれるかも知れません。けれど、彼らの世話になるのは出来れば避けたいのが本音です。そちらには、あまりいい思い出がないから。
結局エリカは、彼の申し出に頷くしかないのでした。
「これからどうしよう……」
エリカは、胸の中に溜まったものを少しだけ吐き出しました。
その時です。階段を軋ませて、クレイグが姿を現しました。
彼は、大きな物音を立てないように気をつけながら椅子を引きました。寝付いたばかりのコニーが起きてしまわないように。
毛布をかけて頭を撫でてやりましたが、その意識が夢の中に入るまでずっと、むずかっていたのです。普段とは違う出来事が続いたから、きっと興奮しているのでしょう。夜泣きに似たことにならないか、クレイグは少し心配していました。
けれど同じように気にかかることなら、もうひとつ。エリカのことです。
クレイグは、向かいに座って俯いている彼女を見据えました。
「……一応聞いておくけど」
低い声に、エリカは視線を上げました。何を訊かれるんだろうかと、その瞳が不安そうにゆらゆら揺れています。
「君が何かを仕出かして、それから逃れるために帝都に来たとか……」
鋭い視線に晒されて、エリカの心臓がきゅっと縮みます。彼女は唇を噛んでそれに耐えると、おもむろに口を開きました。
「私は何もしてません。
逃げなきゃいけないようなことなんて、何も……!」
信じて、と言葉の外に滲ませて、エリカは言いました。
疑われているのは分かっています。頭を冷やした今では、自分がいかに不審な人物であるかを理解しているつもりです。
それでもこの家から放り出されたら、夜の帝都にひとりきり。せめて空が白んでくる頃まで置いてもらえれば……そう思って、エリカは祈るように両手を組みました。
そんな彼女を見て、クレイグはそっと息をつきました。
「まあ、そうだろうとは思うんだけど」
もともと、エリカが屋敷の主人を手にかけたとか、そういったことは考えていなかったのです。彼は少しの間ランプの炎を見つめてから、ぽつりと言いました。
「これでも一応、父親だから。
……万が一、コソ泥を匿っていた、なんてことにでもなったら困るんだ」
悪いね、と付け足した彼は、ほんの少し申し訳なさそうでした。けれどすぐに、自嘲めいた笑みを浮かべて言いました。
「それに、君のことを真っ直ぐ信じられるほど、私は良い人じゃないし」
怒りを感じてもいいようなことを言われたと思うのに、エリカは不思議と落ち着いていました。彼の言葉が、自分だけに向けられたものではないような気がしたのです。
そんなことを考えていたエリカは、クレイグの話に頷くのも躊躇われて、静かにランプの炎を見つめます。
すると彼が、言葉を続けました。
「私なりに想像してみたんだけど……。
もしかして君、どこかのお屋敷のご令嬢、だったりしないかい?」
そのひと言に、ぎゅっと組んでいたはずのエリカの指先が跳ねました。
そしてそれを見ていたクレイグは、「ふむ……」と呟いて続けます。
「だけどいくつか、気になることがある。
君、薪割りが出来たね。あの室内履きも、本来なら使用人のものだし。
……ご令嬢のたしなみとは、ちょっと程遠いと思うけど」
「それは」
声が震えます。エリカは口を開いて、お腹に力を入れました。出来る限り、本当のことを話そうと思ったのです。
「――――私が、養女だからだと思います」
「養女……?」
クレイグは、言葉を繰り返しただけ。
彼女は、先を促されているんだと解釈して、再び口を開きました。
「私、孤児だったんです。といっても、当時のことはあまり覚えてなくて。
4歳くらいの時に、教会の前に置き去りにされていたそうです。
それから教会にある孤児院で、お世話になってたんですけど……。
いろいろあって、運よく大きな商家の養女として迎えていただけたんです。
おかげで、この歳まで大きな病気もせず生きてこられました」
それは本心でした。本当に、感謝はしているのです。泣いたら叩くかクローゼットに閉じ込めるような教母のもとで育つよりも、環境としてはずっと良かったはずです。ただ……。
「だけど実際は、使用人として置いて下さってたんだと思います。
薪割りも皿洗いも、お掃除も洗濯も、使用人達に混じって覚えました。
一応は娘ですから、家庭教師に勉強をみていただくこともありましたけど」
エリカは出来る限り淡々と話して、クレイグの顔を見ました。今さら悲しそうに話したところで、胸の棘はどうにも出来ないのですから。
すると彼は、眉根を寄せて言いました。
「なるほど……。
だけどそれなら尚更、お金の価値に疎かったのはどうして?
使用人扱いされてるなら、お遣いなんかもあっただろうに」
「そう言われても……」
クレイグの表情を見て、エリカは困り果てました。だからつい、口が滑ってしまいました。
「お金に触ったのだって、今日が初めてなのに」
エリカの言葉に、クレイグの目が点になりました。いえ、目が飛び出しそうです。
衝撃的でした。このご時世に、現金に触れたことのない人物がいるだなんて。よっぽど年端がいかないか、それこそ皇帝一族ほどの高貴な身分の方か……といったところでしょう。
まさかの可能性を考えた彼は、それを内心で否定しました。御存命である皇帝一族の面々は、それぞれ美しい金色の髪にアイスブルーの瞳をお持ちのはずなのです。エリカは黒髪、万に一つもその可能性は有り得ません。
「嘘じゃないです」
すかさず言葉を放った彼女を見つめて、クレイグは我に返りました。そして、ぶんぶんと首を振りました。中途半端な髪を纏めた先が、ぴょこぴょこ跳ねています。
「それなら、今日初めて触ったという銅貨はどうやって手に入れたんだ?
やっぱり、家のどこかに転がっていたものを……」
「――――髪を売りました」
クレイグが早口になって捲し立てるのを切り捨てるかのように、エリカが語気を強めます。どうあっても自分を泥棒に仕立てたいのかと思ったら、悲しいを通り越してムカムカと何かが湧きあがってきたのです。
エリカが言い放った刹那、彼は息を飲みました。髪を伸ばす習慣のない彼の頭の中には、お金を得るために“髪を売る”という選択肢がなかったからです。
クレイグは観念したように肩から力を抜きました。そして大柄で熊のような体を、申し訳なさそうに少しだけ小さくしました。
クレイグはカーテンをそっと開けて、そこから差し込む日差しに目を細めて溜息をつきました。いつもよりも早く目が覚めてしまったのです。
大きく広いベッドの端に、コニーが丸まって眠っています。結局昨夜は夜泣きのような状態にはならずに、ぐっすり熟睡出来たようです。それに本人が最近気にしている“おねしょ”も問題なさそうで、クレイグは頬を緩めました。
娘をあと1時間ほど寝かせてやることにして、彼は気配を殺して寝室のドアを開けました。
ぎしぎしと軋む階段を下りたクレイグは、ソファの上で毛布にくるまって眠るエリカの姿が目に入ってしまって、慌てて視線を逸らしました。
別に彼女の様子を見ようと思って、下りてきたわけではないのです。裏の井戸から水を汲み、浴室と台所のタンクを満たさなくては、と思っただけで。
それなのに彼は、気づけば吸い寄せられるようにしてエリカの目の前に立っていました。何をするでもなく、ただ彼女を見下ろして、立ち尽くしました。
外の世界で生きるのに必要な、お金の知識が乏しいエリカ。
それなりに豊かな商家の養女となったものの、実質は使用人のように働いていた、と本人は話していました。まるで何事もなかったかのように、淡々と。
結局、家を飛び出してきた詳しい理由は聞けませんでしたが……。
「もしかしたら君も……?
――――いや、私ほどの馬鹿はそういないか」
消え入るような呟きを自嘲した彼は、思わず手を伸ばしました。エリカの頬に貼りついた髪を、よけてやりたくなったのです。
けれどその指先が彼女の頬に触れようとした刹那、クレイグは我に返って手を引っ込めました。自分のしようとしていることに気がついたのです。
心臓がおかしなリズムを刻み、変な汗が背中を伝っていきます。
なにをしているんだ私は……そう自分を罵りながら、彼は目の前で寝息を立てるエリカの顔をまじまじと見つめました。頬にかかる髪は気になりますが、それに触れるのは今まで自分が貫いてきたものを覆すようで、やはり出来そうにありません。
彼は、エリカの髪のことを考え始めました。彼女が売り払ったという髪は、一体いくらになったんだろうか、と。
たしか彼女がポケットから取り出した銅貨は、ほんの数枚だったはずです。あれ以外に持っているとは思えません。乗り合い馬車で帝都にやって来たそうなので、その運賃のことを考えても……おや、これでは髪の値段がおかしなことに。
そこまで考えて、クレイグは沈痛な面持ちで天を仰ぎました。
「いつか騙されるぞ……!」
クレイグは、これは大変なことになったぞ、と思いました。
朝になったら、どこへなりとも消えてもらうつもりでいたのです。一応、職業紹介所の場所を教えてあげようとも思っていました。あまり女性に関わりたくない自分の、精一杯の親切のつもりでした。
けれど本人がこれでは、金にも女にも飢えた獣がうろつく世間に、何も知らない仔兎を放り込むようなものではありませんか。金銭感覚ゼロ、土地勘ゼロ。全然ダメそうです。いいカモです。
エリカがあっという間に転落人生を歩んでしまう姿が想像出来てしまったクレイグは、背中が寒くなって思わず身震いしました。もう季節は初夏だというのに。
そして寝足りない頭で散々考えた彼は、ひとつ溜息を零しました。熊のような大きな手で、その頬をぽりぽり掻きながら。