真夜中のカモミール 2
マーガレットの素足にメジャーを当てたクレイグは、じっと目を凝らしてメモリを読んでいました。遥か頭上から降ってくる、リチャードの針のような視線を受けながら。
……ローグじいさんの前で作業するより緊張するな……。
クレイグは内心そんなことを独りごちながら、間違いのないよう慎重に作業を進めていきます。
すると肩越しにうしろを振り返ったマーガレットが、静かに佇むリチャードに言いました。
「ね、リチャード。
何足か作ってもらっても構わない?」
その声は、どこか軽やかで。皇女様とはいえ、普通の女性なんだな……とクレイグは思いました。
リチャードが、主の言葉に目元を和らげて頷きます。
「そうですね。
何足でも、お好きなだけ」
「……そんな、お金を水のようには使わないわよ?」
マーガレットは、むっすりと口を尖らせました。そんな彼女からは、リチャードの表情を見ることは出来ません。
ひとときとはいえ訪れた沈黙に居心地が悪くなったクレイグは、なんとなく視線を上げました。そして、思わずメジャーを取り落としそうになりました。
彼はすぐに、何も見なかった振りをして作業に戻ります。リチャードの表情が甘く柔らかくなっているのを、たまたま見てしまったのです。
すると、その時でした。
「――――痛っ……」
「あぁ……やっちゃった……」
窓際で小さな声を上げたエリカは、手にしていた刺繍針を針山に戻しました。そして、びっくりして膝の上に落としてしまった布に視線を走らせて、溜息を零しました。指先に滲んだ血が、布に付いていないことを確認して。
「……よかった」
「エリカ」
安堵の呟きをかき消すようにしてクレイグの声が降ってきて、エリカは顔を上げました。そこには、眉根を寄せた彼が何か言いたそうに佇んでいます。
けれど彼女は、ぷっくり浮いた真っ赤なものをそのままに、小首を傾げました。
「あ、クレイグさん……。
メグお姉ちゃんの方は終わったんですか?」
するとマーガレットが、きょとん、としているエリカに向かって手を振りました。ソファに背を預けたまま、素足をぷらぷらさせて。
「わたしのことは、気にしないでー」
寛いでいるようですが、その背後ではリチャードが沈痛な面持ちをしています。
皇女様を放り出してしまうなんて、本当なら許されないのです。それはリチャードが従者として、クレイグを咎めなければいけないことでした。
けれど彼は見てしまったのです。螺旋階段ですれ違ったエリカの、真っ青な顔を。
彼女に何が起きたのかを知っているのは、おそらくクレイグだけ。それも察しました。だから彼が咄嗟に立ち上がった時、リチャードは声をかけることが出来なかったのです。
つまり彼の沈痛な面持ちの原因は、どちらかといえば“いまだに従者になりきれない、甘い自分”にあるのでした。
そんな従者の胸の内など知る由もなく、クレイグはエリカの指を摘まみ上げました。そしてまじまじと見つめてから、溜めていた息を吐き出しました。
「深く……は、ないな」
するとエリカは、小さく笑って言いました。
「大丈夫です。
ちょっと刺しちゃっただけですから」
「……またか」
クレイグは、やんわりとした笑みを浮かべている彼女の指をハンカチで包みました。眉間にしわを寄せて。
その顔を、エリカがぼんやりと見上げています。
「やっぱり……」
声を落とした彼は、どこか心ここにあらずな彼女に囁きました。
「集中出来ないなら、もう話してしまった方がいいんじゃないか?」
リチャードから“エリカの顔色が悪かった”と言われたクレイグは、マーガレットに挨拶をしてすぐに話そうとしたのです。エリカの義弟が、彼女を探して市場をうろついている、と。
けれどその空気を察した彼女が、クレイグを止めたのです。「あの、その話はあとで……」と、青ざめた顔をして。
マーガレットの素足を柔らかい布でくるんで、リチャードが言いました。
「お茶をお持ちしますか」
すると彼女は、そっと首を振りました。そして、じっとエリカの指を摘まんで何かを話しているクレイグの横顔を見つめてから、そばに控えている従者を手招きしました。
一瞬訝しげにした彼は、すぐにマーガレットの足元に膝をつきます。
「……何か」
彼女は、にんまりと目を細めて囁きました。
「あのふたり、やっぱり何かあったの?
さっきエリカがクレイグさんの話を止めたじゃない」
「何か、とは」
その瞳からワクワクうきうきが溢れだしているのを感じて、リチャードは沈痛な面持ちになりました。今度は、扱いの難しそうな話題を持ち出されたことに対して。
従者の返事が気に入らなかったのか、マーガレットはわずかに頬を膨らませました。
「もう……」
リチャードは子どものような顔をする皇女様に、ちくりと釘を刺すことにしました。クレイグとエリカのことは気にはなりますが、それよりも大事なことがあるのです。
……個人的には、気が進みませんが。
「今は、ご自分の縁談のことを考えて下さいませんと。
何人かと、面談の予定を組むべきかと思いますよ」
そのひと言を聞いた瞬間、マーガレットの瞳が曇りました。
温度のない言葉が、その唇から零れ落ちていきます。
「……分かってるわよ」
「やはりお茶を用意します。
あの子どもも、そろそろ目を覚ます頃でしょう」
珍しくお昼寝をしているコニーを気遣ったリチャードが、立ち上がって背を向けました。
彼が遠ざかる気配を感じたマーガレットは、そっぽを向いて呟きました。
「……リチャードのばか」
小さな声は、彼女の素足をくるんだ布に吸い込まれていきました。
そしてやっぱり、彼女は知らないのです。
時々ちくりと嫌味なことを言う従者が今、静かに目を伏せていることを。




