真夜中のカモミール 1
「――――クレイグさん!」
両手に荷物を抱えたクレイグを見つけたエリカは、思わず声を上げて螺旋階段を駆け下りました。
「……エリカ」
降ってきた声に視線を上げた彼は、すっかり重くなっていた足を速めました。彼女の表情が、不安に曇っているように見えたのです。
荷物があんなに沢山になるなんて。やっぱり一緒に行けばよかった……。
そう内心で自分を詰ったエリカは、注意不足が祟ったのか最後の数段というところまで来て、つるり、と手を滑らせてしまいました。もちろんその手は、階段の手すりを辿っていたはずなので――――。
「ひゃ……っ!」
短い悲鳴を上げた彼女の足が支えを失った瞬間、がくん、とバランスを崩しました。
慌てて手すりを掴もうとするものの、その手は虚空を泳ぐばかりです。
「やっ……?!」
「あぶな……っ」
両手が塞がっているのがもどかしくなったクレイグは、荷物を放り出しました。そして大きく一歩を踏み出すと、手を伸ばしました。
熊のような彼の手は、虚空を掴んで強張ったエリカの手を捕まえました。ぱしっ、と小気味良い音が響きます。
けれどそれだけでは、彼女が階段から落ちるのを止められません。
クレイグは咄嗟に、もう片方の腕を伸ばしました。
エリカは息を飲みました。
落ちる、と思った瞬間でした。彼女の体が、ふわりと宙に浮いたのです。
「くっ、れ……っ」
浮遊感の真っ直中でクレイグの名を呼ぼうとしたエリカは、それ以上言葉を続けることが出来ませんでした。彼のがっしりした肩に掴まっている自分に気づいたのです。
そして、どうしてクレイグさんの肩なんかに……と視線を下ろした彼女は、思わず息を飲んだのでした。
「まったく……。
気をつけなくちゃダメだろう、エリカ」
溜息混じりになったクレイグは、コニーを諭す時のような口調で言いました。
階段から落ちかけたエリカを、熊のようなその腕で軽々と抱き上げて。
子どものように抱っこされている自分が恥ずかしくて堪らないエリカは、ごにょごにょと口を動かしました。
「あ、あの」
「何をそんなに急いでいたんだ?」
けれどクレイグが、彼女の言葉を遮りました。
エリカは自分の腰に太い腕が絡められているのを意識して、顔を真っ赤にして俯いてしまいました。
いろいろと世間知らずな彼女ではありますが、この格好はさすがに普通じゃない、と思っているようです。
そんな彼女の態度に首を傾げたクレイグは、声を落として囁きました。
「……怒ってないから、言ってごらん?」
目の前には、俯いたエリカの真っ赤な頬があります。
彼はそんな彼女を眺めて、林檎みたいだな、なんて可笑しな感想を抱きました。ちょっと美味しそうだな、とも。
「え、と……」
エリカは、クレイグの囁きを聞いてようやく分かりました。どうやら自分は本当に子ども扱いを受けているようだ、と。
それに気づいた彼女は少しずつ嵐のように荒れていた頭の中が静まっていくのを感じて、ゆっくりと息を吐き出しました。
そういえば顔も覚えていないけれど、父親の腕の中にいるのはこんな気持ちだったような気がする……と思いながら。
「クレイグさん、荷物が多かったから。
階段を上がる前に、半分引き受けようと思って」
落ち着いた声で呟いたエリカは、クレイグが間近で「あ」と声を零すのを聞きました。
彼の表情が、一瞬にしてこわばります。
その顔を見て小首を傾げたエリカは、彼の視線の先を辿って、同じように「あ」と声を零しました。
クレイグの両手にあったはずの荷物が、放り投げたせいであちこちに散らばっていたのです。
「まあ、その……割れ物は持ってなかったはずだから」
……大丈夫、たぶん。
そんな呟きを付け加えたクレイグは、心配そうに自分の肩にしがみつくエリカの顔を覗き込みました。
「そんなことより」
下から窺うようにすれば、彼女の目がぱちぱちと瞬きをくり返します。真っ赤になっていたはずの頬は、いつの間にかほんのりピンク色に落ち着いていました。
それを見て目を細めた彼は、きょとん、としている彼女を見つめて囁きました。
「怪我がなくてよかった」
再び自分に矛先が向けられたことに気づいたエリカは、慌てて目を伏せたのでした。どうしようもなく落ち着かない気分で。
けれどエリカが目を逸らしていられたのは、ほんのわずかな間でした。クレイグが、硬い声で言ったのです。
「エリカ、ジーナさんには話をしてきたよ」
彼女は、はっとして顔を上げました。
「あ、じゃあ……」
きっと大事な話になるんだろうな、と気持ちを切り替えたエリカが口を開きました。もぞもぞと体を捻りながら、クレイグに言います。
「メグお姉ちゃんの部屋に――――」
「いや」
当然のようにマーガレットの名前を出したエリカに、クレイグは首を振りました。
「まず君が聞いておくべきだよ。
皇女様の耳に入れるのは、そのあとでも遅くない」
真剣そのものの双眸に見つめられたエリカは、半ば気圧されたように頷きました。もう、自分がどんな格好になっているのかなんて、気にする余裕もなく。
するとクレイグが、短い息をひとつ零して口を開きます。
「ジーナさんは、バルフォアの関係者が来ても対処してくれるそうだよ。
……まあ、半信半疑みたいだけど」
ジーナが信じきれないのは、エリカの潔白なのだ、とは言えませんでした。一度自分が似たようなことを言って、彼女を傷つけたのを思い出したのです。
クレイグの余計な部分を省いた言葉を聞いて、エリカは安堵の表情を浮かべました。彼の肩を掴む手から、力が抜けていきます。
「そう、ですか……。
ジーナさんには、ご迷惑をおかけしちゃいましたね」
「エリカ……」
言葉の最後で表情を曇らせた彼女に、彼は躊躇いがちに口を開きました。安心してしまうのは、まだ早いのです。
とはいえ、自分の見た光景を伝えるのは気が引けます。クレイグは、視線を彷徨わせました。
するとエリカは、急に態度のおかしくなった彼の瞳を覗き込んで、眉根を寄せました。
「クレイグさん……?」
「……いや、その……」
クレイグは言葉を探して唸りました。
けれど何をどう伝えようか考えれば考えるほど、あったことをそのまま伝えるよりほかないのだと、彼は半ば諦めのような気持ちになりました。ここには逆上しそうな皇女様も、話を掻き乱すコニーもいないのです。
彼は思い切って、短く息を吸い込みました。
「いいかいエリカ。落ち着いて聞くんだよ」
「は、はい」
落ち着くのはクレイグさんじゃ……とは口が裂けても言えないエリカは、戸惑いながらも頷きました。自分を支える腕が、わずかに強張るのを感じながら。
嫌な音を立てる鼓動を抑え込み、クレイグは言いました。
「市場の入り口にある、綿飴屋を知ってるね?」
「ええ、あの顔の赤いお兄さんのお店ですよね?」
ゆっくりと言葉を選んで話す彼に、エリカは訝しげな眼差しを向けています。
クレイグは続けました。たぶんそのお兄さんの顔が赤かったのは、君が目の前にいたからだと思う……とは言わずに。
脳裏に浮かぶのは、綿飴屋の店主に捨て台詞を吐いていた彼です。
「あの店で、男が騒いでいたんだ。
そいつは君の写真を持っていたらしい。店主が――――」
そこまで伝えて、彼は言葉を切りました。
見てしまったのです。顔を強張らせたエリカの瞳が、大きく揺れる瞬間を。
「クレイグさん……」
顔から表情を失ったエリカは、掠れた声で言いました。
「その人のこと、もう少し詳しく教えて下さい」
がっしりした肩に置かれた手が、シャツを握りしめて小刻みに震えています。
その気配を感じ取ったクレイグは、彼女を抱き上げた腕に力を込めました。そうでもしないと、彼女がするりと落ちてしまうような気がしたのです。
彼は生唾を飲み込んで、口を開きました。
「名前は分からない。
でも、あとを追いかけた人が“坊っちゃん”と言っていたから……」
そのひと言に、エリカは言葉を失いました。
頭の中では、やっぱり、まさか、もう来た……などと、とりとめのない感情が溢れんばかりに膨らんでいきます。
彼女は膨れ上がった感情を叫んで取り乱してしまいたいのを、唇をぐっと噛んでやり過ごしました。
事情はあるにせよ、自分が勝手に家を飛び出したのです。それを家の人間が帝都に来るから、匿ってもらうために皇女様の住まいに転がりこんで。
巻き込んだのは私の方なんだ……と、エリカは自分に言い聞かせました。
だから自分が目を逸らしてしまったら、巻き込み方が酷くなるばかりだ、とも。
エリカは、あとに残った絶望的な気持ちを抑えて口を開きました。
「……義弟です」
たぶん、とあとから呟いたエリカは、眩暈に似たものを感じてクレイグの首元にしがみつきました。
けれど支えになるものがあっても腕に力が入らないのか、彼女の上体はグラグラ揺れるばかりで安定しません。
「エリカ」
焦りを滲ませた声が、クレイグの口から飛び出しました。
首筋にかかる吐息に気を取られている場合ではありません。彼女の腕から力が抜けたのは明らかです。
「どうした、気分が悪くなったのか?」
少し荒っぽい口調になった彼に、エリカは小さく首を振りました。
「大丈夫、ちょっとびっくりしただけです……」
するとその時、螺旋階段の上から声が降ってきました。
「あっ!」
「パパ、エリカちゃん!
なにしてるのー?!」
小さな手を大きく振りながら、コニーが叫びます。高い天井はうってつけだったのか、子どもらしい天真爛漫な声が反響しました。
その背後には、疲れた顔のリチャードがいます。
エリカは、咄嗟に言いました。
「あ、あの、もう大丈夫です」
「え?」
口早に告げられて、クレイグは声を漏らしました。彼女が口を開くまで、螺旋階段の上にいる娘に気を取られていたのです。
……リチャードが一緒だというのは一体どういうことなんだ、と。
するとエリカは反応の薄いクレイグに向かって、もう一度口を開きました。
「下ろして下さい。
……もう、大丈夫ですから」
囁くようにもう一度言われて、彼はようやく自分が何を言われたのかを理解しました。
抱き上げた時と同じように、熊のような手がエリカをふわりと下ろします。
爪先が音もなく柔らかい絨毯に着きました。踵が着いた瞬間ぐらつきましたが、それも一度きりでした。
エリカはこわごわ手を離したクレイグに向かって、苦笑混じりに言いました。
「ありがとうございました。
荷物も、その、階段から落ちそうになった時も……」
「眩暈は?」
「心配、しすぎです。大丈夫ですよ」
クレイグが、心配そうにエリカの顔を覗き込みます。
するとエリカは、小さく首を振って口の端を持ち上げました。
「エリカちゃん、どこいったの?」
階段を下りてきたコニーに尋ねられて、クレイグは頬を掻きながら答えました。なんとなく物足りない感じがするのです。
「お姉さんのところだよ。
……おやつを用意してる、って」
そのひと言に、コニーが両手を上げて小躍りしました。なんだかよく分からない、鼻歌まで歌っています。
その姿を見て、クレイグは思わず噴き出してしまいました。刹那の間ではありますが、溜めこんでいた重たいものから解放された気分になったのです。
「やったぁ!
パパ、リチャくん、いこっ」
ところが一転して、クレイグは沈痛な面持ちを隠せませんでした。
愛娘の口から飛び出した言葉に、溜息もつけないまま尋ねます。
「コニー。
リチャくん……て、誰?」
「ん?
えっと……リチャくんは、おねえさんの……おともだち?」
何言ってんのパパ……と言わんばかりの呆れ顔をされて、彼は慌てて頭を下げました。
するとリチャードは「いえ」とだけ言って、クレイグの顔を見つめました。幸いなことに、その目からはコニーへの怒りなんて、ひと欠片も見つけられそうにありません。
なぜなら彼が、コニーが手を繋ごうするのを好きにさせているからです。
愛想のないお兄さんとお友だちになったと思い込んでいるコニーを一瞥してわずかに目を細めると、リチャードは口を開きました。
「差出がましい、とは思いますが。
……階段ですれ違った時の彼女、顔が真っ青でした」
それを聞いたクレイグは、何を言われたのかよく分からない、といった顔をしました。けれどそれは、ほんの一瞬のことでした。
彼は思いだしたのです。
エリカが、“大丈夫”をくり返していたことを。




