秘密の話にはマーガレットの封蝋を 3
「――――誰?」
リチャードのノックに返ってきたのは、そんな言葉でした。
その声を聞いた彼が、ぴったり閉じたドアに向かって言います。
「お連れしました」
すると、中からまた言葉が返ってきました。
「……どうぞ」
ドアを押さえたリチャードが中に入るよう促した瞬間に、待ちきれなくなったコニーがクレイグの背後から飛び出しました。
「――――あ、コニー!」
慌てたクレイグが手を伸ばしますが、子どもの素早さには敵いません。小さな手は、もう少しというところで父親の手をすり抜けて行ってしまいました。
エリカはそんなコニーのうしろ姿を苦笑混じりに見送って、追いかけようとするクレイグのあとに続きました。
「……わっ」
勢いよく部屋の中に入ったコニーは、思わず声を上げて足を止めました。
その視線は、床に向けられています。半ばひと目惚れした“お姉さん”を前にしても、驚きの方が勝ってしまったようです。
追いついたクレイグも、娘の視線の先を辿って固まっています。
床に、男の人の写真が散らばっていたのです。それも、たくさん。
ややあって、2人と同じものを目にしたエリカが思わず言葉を零しました。
「なにこれ……?」
彼女のひと言が沈黙に溶けたのと同時に、ドアの鍵をしめてやって来たリチャードの眉間にものすごい勢いで、しわが集まってきます。
彼は大きな溜息をついて、腕を組んで散らばった写真を見下ろしているマーガレットに言いました。
「マーガレット様、説明していただけますか」
そのひと言には、有無を言わせない雰囲気がありました。これは一体どういうつもりだ、と言外に滲み出ています。
写真を見つめていたマーガレットが、やって来た面々に視線を投げて小首を傾げました。
「説明って……写真を見ていただけよ?」
「見ていた……ですか。
お客様をお迎え出来る状態ではないかと思いますが」
ぎょっとしているエリカとクレイグのことなど気にならない様子のマーガレットに、リチャードが沈痛な面持ちで言いました。
その横では微妙な空気を読まないコニーが、せっせと写真を拾い集めています。時々「おー、かっこいー」なんて呟きを零しながら。
そのたびにクレイグが、「君にはまだ早いんじゃないかな」と囁いています。
「それで、あの、この写真は……?」
エリカは、マーガレットとリチャードが険悪な雰囲気になってしまうのが嫌で、つい口を挟んでしまいました。
すると何か言おうとしたマーガレットよりも早く、リチャードが口を開きました。額に手を当てて、溜息混じりに。
「マーガレット様のご結婚相手、の候補だ」
彼のひと言に、沈黙が落ちました。
候補、と強調されはしたものの、とても大事な写真なのだということはよく分かります。少しの間口を閉じていたエリカは、慌ててコニーと一緒になって写真を拾い集めにかかりました。
「……別に、わたしが品定めしたくて見てたわけじゃないわ」
なんとなく批難された気がしたマーガレットが、そっぽを向いて呟きます。
「エリカがバルフォア家に戻りたくないみたいだったから……」
皇女様の言葉を聞いて、エリカとクレイグの顔が強張りました。なんだか、ものすごく嫌な予感がしたのです。
クレイグは、床に散らばる写真に手を伸ばしたまま硬直してしまったエリカを一瞥してから、おそるおそる口を開きました。皇女様相手に不躾だよな……とは思いつつも。
「それが、皇女様の夫候補の方々と何か……?」
そう言いながらも、クレイグはちらりとリチャードの顔色を窺いました。失礼があった時に口を挟むのが、彼の役目だからです。
けれど今回ばかりは、彼も主人の行動の理由を知りたいのでしょう。何も言わずに、沈痛な面持ちのまま佇んでいます。
マーガレットの視線が、右に左に行ったり来たりしました。何かを思案しているのか、組んでいた腕がほどけてはまた組まれ、落ち着きがありません。
やがて彼女は、写真を手に動けなくなっているエリカを見つめて言いました。
「わたしが世話をすれば、きっとバルフォアも手出し出来ないと思うの」
エリカは、彼女の言葉の意味が分かりませんでした。
“わたしが世話をする”“手出し出来ない”なんて言われても、それだけでは何がなんだか……と、首を傾げるばかりです。
「だからね……」
相槌のひとつも打てなかったエリカを見つめて、マーガレットは続けました。
「エリカを守ってくれそうな方がいないか、見直していたの。
もし気になる方がいれば、舞踏会でわたしから結婚の打診を……」
エリカは、顎が落ちるかと思いました。それくらい驚いて、言葉を失ったのです。なんだかもう、眩暈すらします。
そんな彼女が力なく床に座りこんだ時、リチャードが盛大な溜息をつきました。
「マーガレット様……」
どうしてこう思い立ったら相談なしに行動するんだろうか、このお姫様は……と、彼は心の中で呟きました。
今までに何度、そうしてきたでしょうか。作法や所作、言葉遣いはなんとかなったというのに、こういうところだけは成長しないのです。
「考えていただけで、そうしようなんて言ってないわ。……まだ」
話の内容が分からないながらも、脱力したエリカの背中を小さな手で擦るコニーを見ながら、マーガレットは言いました。よく見ると、ぷっくり頬が膨らんでいます。
そんな彼女に向かって、リチャードが間髪入れずに頷きました。
「そうですか。
ではその名案は、ぜひ御心の中に留めておいて下さい」
クレイグは何も言わずに、エリカに向かって手を差し出しました。
飛躍した話に呆然としていた彼女は、半ば反射的にその手を取りました。熊のような大きな手は、ひんやりしています。
リチャードはクレイグをちらりと見遣ったあと、立ち上がって服の裾を手で払っているエリカに向かって言いました。
「そうしたい、と本人が希望するなら話は別ですが」
突然矛先を向けられたエリカは、猛然と首を振りました。頭が落っこちてしまうんじゃないか、とクレイグが心配するほど。
「余計なお世話だったわね」
真っ白なポットから注がれた琥珀色のお茶を覗き込んでいたエリカは、ぽつりと零された言葉に思わず顔を上げました。
そして、小さく首を振りました。マーガレットが、悲しそうな表情で微笑んでいたからです。
「ううん、そんなことない」
便乗結婚の案はエリカにとって、正直なところ衝撃的ではありました。雲隠れのために結婚するだなんて、思いつきもしなかったのです。
「ありがとう、メグお姉ちゃん。
一緒にいたのはずっと昔なのに、こんなに良くしてくれて」
「エリカ……」
笑みを曇らせた彼女に、マーガレットが言いました。今度は、困ったように微笑んで。
「教会に来たばかりの頃の貴女、わたしにくっ付いて離れなかったのよ。
ちょっと姿が見えないだけで、泣いて探して、教母を困らせたくらい。
だから、ずっと気になってたの。寂しがり屋さんだったものね」
「……う」
エリカは、思わぬ昔話に言葉を詰まらせました。顔に熱が集まってきます。
記憶がおぼろげな彼女は、ごにょごにょと呟きました。
「私、そんなことしてたかなぁ……?」
教会に保護されたばかりの頃の記憶は、そのほとんどが曖昧なのです。断片的で感情的だし、教母の顔もおぼろげです。
けれど、目を覚まして最初に見たであろう“優しいお姉ちゃん”との温かい思い出だけは、その後の分までくっきりハッキリ焼きついたままでした。
きっと心の拠り所になっていたのだと、エリカは思っています。
マーガレットの唇が綻びました。「ふふっ」と、綿飴のような笑みが零れます。
それを聞いたエリカは、慌てて話題を変えようと口を開きました。
「――――あ、あの、メグお姉ちゃん。
ありがとう。その、仕事のこと……」
「気にしないで。
わたしのワガママの、道連れみたいなものなんだから」
エリカの言葉に、マーガレットは静かに首を振りました。それまで綻んでいた口元が、きゅっと引き締められます。
「ふたりに支払う報酬は、国がわたしに割り当てた予算なの。
だから、誰にも文句は言わせないわ。皇妃たちにもね」
「うん……でも、皇族お抱えの職人さんが困らない……?」
エリカが、不安そうに零しました。
するとマーガレットは、手をぱたぱたさせて言います。
「何言ってるの。
皇族じゃなくなるんだから、お抱えの職人さんなんかに頼まないわ。
わたしが欲しいのは、普通の靴なの。飾りも何もない、ただの靴。
丈夫で、何年も履けて、履き潰せるようなのじゃなくちゃ」
その言葉に、エリカはようやく頷くことが出来ました。
「それならクレイグさんの靴、きっとメグお姉ちゃんも気に入ると思う。
私が履いてるのも、クレイグさんが作った靴なんだけど」
彼女が、自分の足を指差しました。履いているのは、クレイグがエリカの家出初日にあげたベージュ色の靴です。
「あのね、すごく履きやすくて良い靴なの。
ほとんど毎日市場に買い物に行くけど、全然疲れないし。
それにね、警備隊の人達の靴もクレイグさんが作ってて……」
テーブルの上のお茶が波打つほどの勢いで捲し立てようとするエリカを見て、マーガレットが噴き出しました。
「ご、ごめんねエリカ……!」
言葉の途中で相手に失笑されたエリカは、きょとん、としました。何が起きたのかよく分からなくて、目をぱちぱちさせています。
するとマーガレットが、今度は苦笑混じりに言いました。
「そんなに力まなくても、クレイグさんの靴は信用してるわ。
もちろんクレイグさん自身もね」
「う、うん。それなら、いいんだけど……」
エリカはとりあえず頷くことにしました。彼女が浮かべた苦笑の理由が気になるものの、クレイグの腕を買ってくれていることは分かったからです。
それは、短い間ではありますが、工房で作業に熱中する彼を間近で見てきたエリカにとって、とても嬉しいことでした。
「……やっぱりダメだわ、このままになんてしておけない」
口に含んだお茶を飲み込んだマーガレットは、カップをソーサーに戻しながら口を開きました。
「ねぇエリカ、さっきの話なんだけど……」
「クレイグさんの靴のこと?」
同じようにカップ戻して小首を傾げたエリカに、彼女は小さく首を振りました。
その仕草が重々しい気がして不安になったエリカが、言葉に詰まった瞬間。マーガレットは声を落として言いました。
「――――結婚のことよ。
真剣に考えてみない?」
ついさっき、リチャードから“心の中に留めておいて”と言われたはずの台詞です。
エリカは絶句しました。頭の中が真っ白です。
「貴女のことが心配なのよ。バルフォア家でいろいろあったみたいだし。
わたしが皇女であるうちなら、力になれると思うの。
だって、いつかはクレイグさんの家を出なくちゃ……でしょう?」
瞬きすら忘れて固まってしまったエリカをそのままに、マーガレットは続きを紡ぎました。
その顔は、真剣そのものです。出会った時はお互い子どもだったけれど、彼女はどこか母親気分でエリカを長いこと心配していたのです。
けれど彼女は次の瞬間、はっとしました。とんでもなく基本的なことを、すっかり綺麗さっぱり失念していたことに気づいたのです。
「……エリカ、もしかして想う人がいるの?」
ほんのわずかな間をおいて、エリカは驚きました。
「え……えぇっ……?!」
話の飛躍ぶりに、頭の中がまた白く染まっていきます。結婚だの想う人だの、まさか自分にそんな言葉が向けられる日が来るなんて。
動揺したエリカは精一杯、全力で否定しようと、あたふた手をばたつかせました。
「なんでそんなっ、い、いないっ、ないないっ」
「……本当に?」
エリカの慌て様を、かえって怪しいと受け取ったマーガレットが目を細めます。その表情は、悪戯を隠そうとしている子どもを見つめる母親のようです。
結局、マーガレットはコニーがリチャード同伴の宮殿探検から戻るまで、目を伏せたエリカを追求したのでした。
そして同じ頃、クレイグは市場にいました。
マーガレットの住まいで舞踏会が終わるのを待つことになったエリカが書いた手紙を、服屋の店主ジーナに届けるためです。




