秘密の話にはマーガレットの封蝋を 2
真っ白で上等な便箋には、こう書かれていました。
クレイグ、靴職人の貴方にわたくしの靴作りを命じます。
エリカには、花嫁のベールに刺繍を施すことを命じます。
それからコニーちゃん、貴女はわたくしの話し相手になって下さい。これはお願いなので、断っていただいても結構です。お父様とよく相談してね。
詳細は、お会いして直接伝えます。
明日にでも、わたくしの住まいに来て下さい。待っています。
――――マーガレット・リシェ・ドゥグルターニュ
便箋を見つめて唖然としていたクレイグが、のろのろと視線を上げました。彼の口が、ぽかんと開いたままの形から言葉を紡ぎ始めます。
「……なんだか、すごい人だね」
それは彼の、素直な感想でした。
エリカは視線を彷徨わせました。彼女も戸惑っているのです。
「メグお姉ちゃんたら……」
呟いた彼女が、眉根を寄せて溜息混じりに言います。
「いくら皇女様になったからって、命令だなんて……。
ごめんなさいクレイグさん」
「いや、エリカが謝るようなことじゃ……」
乾いた笑みを浮かべたクレイグは、持っていた真っ白な便箋をたたんで、真っ赤な封筒の中にしまいました。
「それに」
彼の声が少し険しくなったことに気づいたエリカが、申し訳なさそうに伏せていた目を上げました。
その視線を受けて、彼は続けます。
「“命令”は、わざとじゃないかな」
「……ええと……?」
エリカは再び眉根を寄せました。幼い頃に優しくしてくれたお姉さんが、自分にわざと命令する理由が分からないのです。
するとクレイグは少し考える素振りを見せてから、口を開きました。
「確信があるわけじゃないけど……。
皇女様は、バルフォア家からエリカを守りたいんじゃないか?
手紙を書く前はものすごい剣幕だったし」
「それは……。
でもそれなら、クレイグさんとコニーまで巻き込まなくたって……」
エリカは戸惑いながら言いました。
「そう言われると、ちょっと寂しいものがあるけど……まあ、そうだね」
クレイグが、指先で頬をぽりぽり掻いて呟きます。その口元には、苦笑が浮かんでいました。
「うわぁ、うわぁぁ……っ」
目をキラキラさせたコニーは、興味津々といった様子で小窓にべったり貼りつきました。小窓からは、剪定されて見通しのよい林が見えています。
エリカは微笑ましく思いながら、わくわくを抑えきれない様子のコニーが倒れないように手を添えて支えます。
そして、しばらくしてから彼女は口を開きました。最初の挨拶を交わしてからというもの、男性2人が沈黙して馬車の中の空気が重たいのです。
「あ、あの、リチャードさん」
名前を呼ばれて、向かい側に座っていたリチャードの目がエリカを捉えました。今日も昨日と違うことなく、まつげの1本も動きませんが。
エリカは彼の視線の強さに怯まないよう、お腹に力を入れました。だから、隣に座るクレイグの視線が自分に向けられていることになんて、まったく気づきません。
彼女は尋ねました。
「メグお姉ちゃんの住んでいる場所は、門から遠いんですか?」
少し前に通り抜けた巨大な門で真っ赤な封筒を見せてからというもの、小道を駆ける馬車に立ち止まる気配はありません。コニーが覆い被さっている小窓から見える景色も、さっきからずっと変わっていない気がします。
リチャードは少し考える素振りを見せてから、口を開きました。
「遠いというか……。
門を境に、町がひとつ収まるほどの広さの林が広がっている。
マーガレット様のお住まいは、この林の向こうだ」
すると彼の言葉をふんふんと頷きながら聞いていたエリカをよそに、小窓に釘付けになっていたコニーが勢いよく振り返りました。
「ねぇねぇ、おにいさん!
あのおねえさん、まほうつかいなの?」
「お、おに……?」
幼い子どもの勢いとキラキラした瞳を向けられた彼は、思わずたじろいでしまいました。お兄さん、だなんて。それも突然、親しげに。突拍子もなく放たれた言葉の意味も、全然分かりません。
彼が呆気に取られている間にも、コニーはお喋りを続けました。自分の言葉を相手が理解しているかどうかなんて、実際のところあまり関係ないようです。
「だって、ドアあけたらばしゃがいて、すごーくびっくりしたの」
今朝も教会に行くつもりで支度を終えたコニーに“馬車のお姉さん”からのメッセージを聞かせると、彼女は小さな体でめいっぱい飛び上がって喜びました。
けれどクレイグは、お姉さんの正体を教えることはしませんでした。浮かれたコニーが街中でうっかり口を滑らせると思ったからです。
結局コニーには、お姉さんとは帝都の北にある巨大な門の前で待ち合わせているから、ひとまずそこまで3人で歩こう、と伝えたのでした。
ところが。コニーが意気揚々と“準備中”の札を持ってドアを開けると、通りをかっぽかっぽ小走りに駆けてきた馬車が店の前で停まったのです。
腕組みをして終始静かにしていたクレイグが、店を出た途端に現れた馬車に興奮しっぱなしの娘を、その膝に座らせました。
「それは違うよコニー。
お姉さんが、歩くのは大変だからって馬車を寄越してくれたんだよ」
「そーなの?」
父親の言葉を鵜呑みにしたコニーは、リチャードを見つめて小首を傾げました。
すると、平静さを取り戻したらしい彼が頷きます。よく見たら賢そうだし、話の分からない子どもでもなさそうだ、などと思いながら。
「……ああ」
「それからね、コニー」
リチャードと娘の会話がひと段落するのを見届けたクレイグは言いました。
「そのお兄さんのことは、リチャードさん、と呼びなさい」
「りちゃーどサン」
父親に言われるまま呟いたコニーを見て、リチャードが視線を逸らしました。
そんな彼をこっそり見つめていたエリカは、彼の頬がわずかに緩んでいるような気がして、思わず小首を傾げました。そして、こっそり溜息をつきました。
なにはともあれ、黙りこくっていた男性2人がようやく口を開いてくれたおかげで、この狭い空間の息苦しさが少しだけ良くなった気がしたのです。
林を抜けた馬車が辿り着いたのは、いくつかある中でも一番林に近い宮殿でした。いえ、宮殿というには可愛らしい大きさで、レンガ造りの壁には青々とした蔦が茂っています。
リチャードが御者に指示を出すと、馬車はどこかへと走って行ってしまいました。コニーが残念そうにその後ろ姿を見送っています。
すると同時に、彼らの目の前にある重々しい鉄の扉が内側から開きました。どうやら使用人達が、客人の到着を待ち構えていたようです。
まず最初にリチャードが足を踏み入れ、それにクレイグが続きます。ずらりと並んだ使用人達に圧倒されたコニーは小走りで父親の手を追いかけ、エリカは一番最後に扉をくぐりました。
お仕着せ姿で頭を下げる女性たちが、口々に「おかえりなさいませリチャード様」「いらっしゃいませ」などと声をかけてきます。
それを全身で浴びたエリカは、思わず目を伏せました。逃げ出した屋敷に連れて来られたのか、と錯覚してしまいそうになったのです。
鼓動が速くなって、指先が冷たくなってきました。
足が重くなっていくのが分かります。ふかふかの真っ赤な絨毯が、靴を絡め取ろうとしてくるようです。
「エリカ?」
ふと名前を呼ばれたエリカは、はっと我に返りました。
「――――あ……」
視線を上げれば、少し離れた所で心配そうにしているクレイグの姿が。
唇から声を零したエリカと目が合った彼は、わずかに首を傾げてから、手を繋いでいるコニーに何かを耳打ちしました。
すると、こくんと頷いたコニーは、先頭を歩くリチャードの方へと駆けていきます。
ぱたぱたと遠ざかっていく後ろ姿を見届けたクレイグは、立ち止まって動かないエリカに視線を戻しました。
エリカの背後で、扉が重い音を響かせて閉じます。
クレイグは一向に動かない彼女のもとへ、早足で引き返してきました。
「馬車に酔ったのか?」
目の前に立つや否や、彼はエリカの顔を覗き込んで、その手を彼女の額に当てました。近くで見たら、思っていたよりも顔色が良くないことに気づいたのです。
慌てた彼女は、急いで首を振りました。
「ち、違いますっ」
「そう……?」
「大丈夫です」
手を離して訝しげに目を細めたクレイグに、エリカは半ば無理やりに唇の端を持ち上げました。その表情がまた彼を心配させるなどとは、露ほども思わずに。
すると、彼が溜息混じりに口を開きました。
「いいかい、倒れたばかりなんだから無理はしないように。
今エリカが倒れたりしたら、私が皇女様に怒られてしまうよ」
まるでコニーに言い聞かせる時のように言いながら、彼はおもむろに手を伸ばしました。そして息を飲んで、ぴくりと反応する彼女の手を、ぎゅっと握ります。
「え、と……?」
「ほら、行くよエリカ」
クレイグは戸惑うエリカに苦笑を向けて、くいっと手を引きました。
真っ赤な絨毯が絡みついていた靴が、ふわりと浮いて一歩を踏み出します。
エリカは息を飲みました。そして、自分の足がびっくりするほど軽くなっていることに、思わず小首を傾げたのでした。




