秘密の話にはマーガレットの封蝋を 1
“馬車のお姉さん”に会えなかったコニーが、しょんぼりしたまま寝入った頃。
エリカとクレイグは、食卓の真ん中に置かれた封筒を見つめていました。
真っ赤な封筒には何も書かれていませんが、裏を返せば真っ白なマーガレット模様の封蝋が施されています。
クレイグは椅子に腰掛けてから、ずっと沈黙を保っていました。何から尋ねたらいいのか、もうよく分からないのです。
午前中に来店した3番目の皇女様とエリカの関係、エリカが養子に出された家のこと。ものすごく気になるのに、立ち入っていいものかと考えると言葉が出ません。
あなたには関係ない、と言われてしまえば、それまでのような気がして。
「バルフォア家で何かあったの?」と、マーガレットが親切心からかけた言葉に、エリカは天を仰ぎたくなりました。いえ、慌てふためいたあとには、実際にそうしていたかも知れません。
養ってくれた家が思いのほか大きな、それも商家として影響力のある家なのだと知ってからは、他言しないようにしよう、と決めていたからです。
その話を聞いた時には正直、咄嗟のことだったけれど職業紹介所で偽名を書いておいて良かった、とも思ったくらいです。
質問に口ごもったエリカを見て、マーガレットはさらに質問を重ねました。
「まさか虐められたの?」
「もしかして追い出されたの?」
「貴女が望むなら仕返ししましょうか?!」
その時は興奮状態に近いものがあったので、よく考えもせずに適当に否定していたのですが。冷静になってから考えてみると、最後の方はずいぶんと腹黒い言葉の羅列だったような気がします。
聞けば、マーガレットは皇妃や腹違いの身内から、嫌がらせなどを受けたことがあるそうです。「ある時やり返したら、必要以上に近づいて来なくなった」とのことなので、自分の辛い経験を思い出しての言葉だったのでしょう。
マーガレットは、いまいちハッキリ物を言わないエリカに痺れを切らせたのか、控えていたリチャードに封筒と便箋、それから封蝋を持ってくるように言いました。
彼女が店のペンを借りて優雅に走らせると、うしろから見ていた彼が力の限り顔をしかめていたのですが……。
エリカは、お腹がちくちく痛み始めたのを感じて顔をしかめました。
コニーの「あれぇ? パパとエリカちゃん、なんかへんだねー?」という、何気ない言葉が今になってじわじわ効き始めたようです。
マーガレットが封筒を残して去ってから、お互いに避け合って妙な空気が流れているのを、コニーは肌で感じていたのでしょう。
クレイグはとっさに取り繕っていたようですが、エリカは引きつった笑みを頬に張り付かせるので精一杯でした。
それにしても子どもとは、時におそろしいほどの勘の良さを発揮するものです。
視線を彷徨わせていたエリカの顔が歪んだのを見て、クレイグはついに沈黙を保てなくなって口を開きました。
ああでもないこうでもない、と考えを重ねるだけでは、気がついた時には彼女がこの家から出て行ってしまうような気がしたのです。
「いやその、驚いたよ。君がバルフォアの養女だったなんて」
ほんの世間話のつもりでした。それ以上話が膨らまなくても構わない程度の。彼女の顔に苦笑でも浮かべばいい、くらいの。
けれどエリカは、とうとう言われた、と顔を強張らせてしまいました。ぎこちなく視線を上げて、こわごわ口を開きます。
「あの、ごめんなさい。
ワインを買って来た時、黙っていて……」
「あ、ああ……」
そうだった、とクレイグは思い出しました。
エリカは刺繍の報酬を遣って、お礼のつもりで小瓶に入ったワインを買ってきてくれたのです。いろいろ起きたので、結局飲めていないのですが……。
小瓶のラベルを見て気づいたクレイグが、バルフォア家の商売について話をしたのでした。
そういえばあの時のエリカはどことなく、おどおどしていたような気もします。
考えを巡らせたクレイグは、エリカの目を見詰めたまま静かに首を振りました。
「いや……謝らなくても。
話したくないなら、私は何も訊かないよ」
彼が穏やかに告げたひと言を聞いて、エリカは思わず息を詰めました。優しい言葉をかけられて、お腹がちくりと痛んだのです。
そんな彼女を目の前に、クレイグは困ったように眉尻を下げて微笑みました。
「私に苛められた、なんて皇女様に告げ口されたら堪らないしね」
「クレイグさん……」
彼が本心からそんなことを思うような人ではない、とエリカは知っています。
だから、追い詰められていた気持ちが少しほぐれた気がして、そっと息を吐き出しました。強張った肩から、力が抜けていきます。
するとそんな彼女を見ていたクレイグが、「ああでも……」と呟きました。その視線は何かを考えている途中なのか、右に左に動いています。
そして彼は再び視線をエリカに戻して言いました。
「君の弟が舞踏会に参加するんだろう?
居場所を探されて困るようなら、私も知っておいた方がいいような気がする。
……深入りされて、不快かも知れないけれど」
クレイグの言葉を聞いたエリカはテーブルの下で両手をぎゅっと組んで、思い切り首を振りました。不快であるわけがありません。
それにしても義弟が帝都にやって来る――――想像しただけで、眩暈がするようです。熱いお茶を淹れるのは躊躇われるくらいに暖かい夜なのに、背中に冷たいものを感じます。
「クレイグさんこそ、巻き込まれて不快じゃないですか……?」
「まさか」
クレイグは目を見開いて言いました。自分が思っていたことを、そのまま向けられるなんて思いもしなかったのです。
けれど彼女は、彼の顔を一瞥する余裕すらないようです。思いつめたように、食卓の赤い封筒を見つめています。
「……やっぱり弟は、君の味方ではないんだね?」
溜息混じりに、クレイグが言いました。
弟が帝都に来る、とマーガレットから聞かされた時のエリカの反応を見て、彼はそう思っていました。“血の繋がらない弟が好き”なようには見えなかったのです。
エリカは、弾かれたように顔を上げました。そしてテーブルの下で組んでいた両手をほどいて、ゆっくりと息を吐き出しました。
その目が、わずかに眉間にしわを作ったクレイグを見つめています。
「――――あの家を出たのは」
顔が歪んでしまいそうになるのを堪えながら、エリカは口を開きました。
「弟と、いろいろ……あって」
「うん」
言葉を紡ぎ始めた彼女が途中で止めないように、クレイグは静かに相槌を打ちます。その“いろいろ”が気になるところではありますが。
「父も母も何も知らないはずなので、相談も出来なくて……。
あの日どうしても耐えられなくなって、飛び出してきたんです」
「うん」
「だから、その……」
そこまで話して、エリカは目を伏せました。そしてなにやら、言いづらそうに唇を動かしています。
クレイグは小首を傾げつつも、言葉の続きを待ちます。
すると彼女が、おずおずと彼と目を合わせて小さな声で言いました。
「クレイグさんを頼ってもいいですか……?」
甘えなさい、とクレイグは言いました。エリカが庭で倒れたあとのことです。
その台詞と、彼に迷惑をかけることを天秤にかけた彼女は、一度だけ声を上げることを選んだのでした。
「もちろん。
こういう時は、遠くの親戚より近くの他人、てね。
……先人もうまいことを言ったもんだな」
クレイグの頬が若干緩めになっていたのですが、幸いなことにエリカはそれに気づいてはいないようでした。
それからふたりは、具体的にどうするかを考えました。
クレイグは詳しい経緯を根こそぎ聞き出すのはやめておくことにしたので、エリカと義理の弟の間で何が起きていたのかは分からないままです。
けれど「弟には絶対に会いたくない」と彼女が顔色を悪くして呟いたので、警備隊のハンスにも少しばかり協力してもらえないか、話をしに行くことにしました。
彼に警備隊の知り合いがいたことを思い出したエリカは、いくらか安堵することが出来たのですが……。
ふたりは、ふと思い出しました。食卓の真ん中で放置されていた、真っ赤な封筒の存在を。
「エリカが開けてごらん」
「はい……」
エリカは小首を傾げながら、マーガレットの模様の封蝋を傷つけないように、封筒の端を摘まんで切りました。
そして中から取り出した1枚の便箋を開いて、何度か瞬きを繰り返しました。
「エリカ?
皇女様は、なんて?」
きょとん、としたエリカが便箋を見つめたまま何も言わないので、クレイグは彼女の手からそれを抜き取りました。
皇族の使う上質で真っ白な紙は、するんと彼女の指をすり抜けていきます。
「――――は……?!」
その内容に目を走らせたクレイグが、素っ頓狂な声を上げました。
食卓の上では、ランプの炎がゆらりと揺れています。まるでマーガレットが、そこで笑っているかのようでした。




