ミドルヒールが御用達 8
ぎゅうぎゅうと締め付けられたエリカの口から、ぐぇ、と聞き苦しい悲鳴が漏れます。
聞きたくもない声を聞かされたリチャードと、どうしたものかと腕を組んで思案していたクレイグは、揃って顔をしかめました。
一方、苦悶の表情を浮かべるエリカを腕の中に捕らえた“メグお姉ちゃん”は、歓喜の声を上げました。
「コニーちゃんから聞いた時は、耳を疑ったけれど。
まさか本当にエリカだったなんて……!」
「おね、ちょ、くるし……っ」
目を白黒させるエリカを見てしまったクレイグは、慌てて手を伸ばしました。もちろん、“メグお姉ちゃん”に向かって。
彼女の身分と客であることが脳裏をよぎらなかったわけではありませんが、それは非礼を詫びればいいことだろう、と思ったのです。
コニーに怪我をさせた、とわざわざ帝都の片隅にある小さな靴屋までやって来たのですから、話の分からない相手ではないだろう、と。
クレイグは伸ばしたその手で、金色の髪の彼女の肩を掴もうとしました。
「お客さ」
ところが、ま、と紡ぎかけたクレイグが、ぐっと声を詰まらせます。
一歩離れたところに控えていたはずのリチャードが、その腕を上げてクレイグを制したのです。
「おい、あんた」
邪魔をされたと感じたクレイグは、思わず矛先を従者に向けました。眉間にしわを寄せて、明らかに不快そうにリチャードを睨みつけます。
けれど従者は、熊のようなクレイグの視線なんて気にも留めずに口を開きました。その目は、“メグお姉ちゃん”を捉えています。
「マーガレット様。
大切なご友人が気を失いそうですが、よろしいのですか?」
声が、店の中に響きわたりました。面倒くさそうにしていた青年の顔から出たとは思えないほど、芯の通った凛とした声でした。
「――――あ……、やだ、ごめんなさい」
ようやく自分のしていることに気づいたのか、金色の髪を揺らした彼女がエリカから離れました。フラフラしている彼女を目の当たりにして現実に引き戻されたのか、見るからに困惑しています。
クレイグはすかさず近付いて、若干涙目になっているエリカを支えました。変わった様子がなかったので忘れていましたが、彼女は昨日庭で倒れているのです。
そのことを思い出したクレイグは、ぐっと歯を食いしばりました。自分に向けた苛立ちを、なんとか腹の奥底に押しとどめておくために。
むぎゅむぎゅと潰された肺に必死に空気を送り込んで、エリカは大きく息を吐き出しました。
そして、放心状態から我に返った彼女は、自分の腕がクレイグの熊のような手に掴まれていることに気づいて口を開きました。
「すみませんクレイグさん」
「……ん、ああ」
曖昧に頷いたクレイグは、エリカの腕をそっと引きました。
「エリカに話があるなら、どうぞそこのベンチに。
……試着用なので、座り心地はよくありませんが」
笑みを浮かべて「ありがとう」と言った金髪の彼女が、エリカの隣に腰を下ろします。上等な生地が、ふわりと空気を含みました。
それを眺めていたエリカは、そういえば刺繍の話だった気がするけど……と思って、内心で小首を傾げました。
すると金髪の彼女は、柔らかく微笑んで口を開きました。
「まだ信じられなくて、胸がドキドキしてる……。
ねぇ、エリカ。あなた教会を出てから元気にしていた?」
「……うん、元気にしてたよ」
ほんの少しの間を置いて頷いたエリカは、そんなことよりも、と早口で言葉を重ねました。懐かしい人に再会したせいか、鼻の奥がつんと痛んだのを気取られたくなかったのです。
「メグお姉ちゃんは、どうしてたの?
どこかの家の養女になって、帝都に来たの……?」
教会を出たあとの話は、あまりしたくありません。エリカは声が震えそうになるのを堪えて、そっと尋ねました。
「実はエリカが引き取られて間もなく、帝都にある家に引き取られたの。
……わたしの父親のお遣い、って人が来てね」
「え、でもメグお姉ちゃんのお父さんはもう亡くなったんじゃ……?」
訝しげに呟いたエリカを見た金髪の彼女は、溜息混じりに言いました。
「わたしも、母さんが嘘をついてたとは思えないんだけどね。
でも母さんの形見の指輪が、父親が贈った品だったみたいで……。
いたんなら、母さんが元気だった頃に会いに来て欲しかったわ。
ずっと放っておいたくせに父親面なんて」
「マーガレット様」
窘めるように口を挟んだリチャードは、渋い表情を浮かべています。
「そのようなお言葉は慎んで下さい」
「はいはい、わかりました。
不敬罪で首を刎ねられてしまうものね」
悪びれた様子もなく肩を竦めた彼女を見て、クレイグの頭の中が真っ白になりました。まさか、と口をぱくぱくさせるのが精一杯でした。
頭のてっぺんからつま先まで、血の気が一気に引いていきます。
そんな彼に気づいたエリカは、小首を傾げました。
「クレイグさん?」
隣に座っているのが知り合いだからなのか、エリカはお嬢様と従者の会話を聞いても、全くもって違和感を感じなかったようです。
するとクレイグが、唐突に床に膝をつきました。
慌てたのはエリカの隣に座る、金髪のお嬢様です。しまった、とでも言わんばかりの表情を浮かべた彼女は、腰を浮かせて言いました。
「な、何をなさってるんですか……っ?!」
「え、あのっ?」
エリカも頭を垂れたクレイグの姿に驚いて、あわあわしています。
そんな2人を見つめていたリチャードが、静かに口を開きました。
「マーガレット様、彼は気づいていますよ。
きちんとご自分の身分を明らかにされた方がよろしいのでは?
それとも私の口から、ご説明差し上げますか?」
彼の言葉を聞いたクレイグは顔を上げることはありませんでしたが、心の中で、やはり、と思いました。
「メグお姉ちゃん、身分って何の話……?」
話の内容はいまいち頭に入ってこないものの、その場のただならぬ雰囲気を感じ取ったエリカは、不安そうに彼女を見上げます。
教会で目を覚ました自分に微笑みかけてくれた“メグお姉ちゃん”が、なんだか別の人に見えてきたのです。
私も床に座った方がいいのかも……などと、内心おろおろしてしまいます。
「エリカ、わたし……」
すると金色の髪の彼女は、床の一点を見つめて口を開きました。
「実は、皇帝陛下の娘なの。3番目の皇女なんですって……」
よほど言いたくなかったのでしょうか。ぎゅっと力を入れて組んだ両手の血管が、わずかに浮いてしまっています。
その耳でしっかりと言葉を拾ったはずのエリカは、頭で上手くそれを処理出来ませんでした。言葉ひとつ、捻りだすことも出来そうにありません。
自分とは一生会うことはないだろうと思っていた人物が、幼い頃に心の支えになってくれたお姉さんだったなんて。嘘みたいな話なのです。
頭がぼんやりして仕方ありません。
マーガレットは視線を持ち上げて、クレイグに声をかけました。
「どうか顔を上げて下さい。それに膝をつく必要もないんですよ。
……わたしは迎えさえ来なければ、今もただの孤児だったのですから」
「マーガレット様。
そのような仰り様をなさらなくてもよろしいのでは……?」
顔を強張らせて言った彼女に、溜息混じりのリチャードが窘めるように言います。
エリカは思わず彼を見つめてしまいました。その表情とは裏腹に、穏やかな声をしていたから。
自嘲めいた笑みを浮かべたマーガレットが、リチャードを射抜くように一瞥しました。穏やかな声のことになんて、気づいていないようです。
「本当のことじゃない。あなただって――――」
彼女はそこまで言うと、我に返ったように言葉を止めたのでした。そして小さく首を振ったかと思えば、じっと動かないクレイグにもう一度言いました。
「コニーちゃんのお父様、お願いですからもう止めて下さい」
「……ですが……」
再度声をかけられたクレイグは、ようやくのろのろと顔を上げました。
けれどその目は、マーガレットでなく従者に向けられています。皇女様をまっすぐに見つめるだなんてこと、出来るはずがありません。
それに主人よりも年上だと思われるこの従者の方が、それを許さないと思ったのです。
すると視線を受けたリチャードは、無愛想に言いました。
「マーガレット様の仰る通りに」
クレイグは彼の言葉を聞いて、視線を彷徨わせました。そしてしばらく迷った末に、ようやく口を開きました。
「では……」
そう言って立ち上がったクレイグを見たマーガレットは、ほっとしたように息を吐き出しました。
少しの間の沈黙を破ったのは、マーガレットです。
「ねえ、エリカ?」
彼女は隣で呆然としていたエリカの顔を、じっと見つめました。
「……あ、うん。なあに?」
話しかけられて我に返ったのか、彼女はきょとん、としています。
そんな彼女を遠巻きに見ていたクレイグが、あの子はさっきの話をちゃんと聞いていたんだろうか……なんて心配しているのも知らずに。
一方でマーガレットは、態度の変わらないエリカに安心しながら言いました。
「そういえば、宮殿で舞踏会を開くことになったんだけど……」
そこまで聞いたエリカは、息を飲みました。ようやく目の前にいる昔馴染みと、話に聞いていた皇女様のことが繋がったようです。
「あ、そっか……3番目の皇女様。
メグお姉ちゃん結婚するんだ……!」
顔をキラキラ輝かせる彼女を見て、マーガレットは頷きました。しぶしぶと。
「そうよ。民間人と結婚して、自由を手に入れるの。
わたしは庶子だから、身分の高い人からすると無価値みたいだし。
願ったり叶ったり、ってところね」
「……そっか」
とてもおめでたいことのように感じたエリカでしたが、昔馴染みにもいろいろと思うところがあるのだろうな、と静かに頷くことにしました。
自分にだって、教会を出てからはいろんなことが起こったのです。望んでもいない身分に押し上げられたマーガレットにも、きっと辛いことはたくさん起きたはずです。
だからエリカは、敢えて彼女に言葉をかけようとはしませんでした。肯定も否定も、どちらにしろ嬉しくはないだろうと思ったから。
リチャードが、渋い顔をして佇んでいます。
なんとなく彼の様子が気になったエリカでしたが、ふと目が合った刹那に視線を逸らされてしまったので、それ以上彼を見るのはやめたのでした。
「理解のある方と出会えたらいいんだけど……。
そんなことよりもね」
考えを巡らせて頷いたエリカに、マーガレットは再び口を開きました。
「貴女の弟が、結婚相手に名乗り出たわよ」
そのひと言に、エリカの顔から血の気が引きました。脳裏に翻るのは初夏の真夜中の、息苦しい記憶です。
わなわなと震える唇の隙間から出たのは、かろうじて声らしき響きをしたもの。
「え……?!」
そして、はたと我に返ったのか、彼女は口早に言いました。マーガレットの目を見つめて、ふるふると首を振ります。
「だ、だめ。
メグお姉ちゃん、あの子はやめて」
「うん?
彼とは年も離れ過ぎてるし、そうね……」
エリカの様子に違和感を感じながらも、マーガレットは頷きました。
深く追求しなかったのは、もっと他に尋ねたいことがあるからなのです。
「ところでエリカ、ここには最近来たの?」
「え?
……あ、う、うん……」
唐突に話を切り替えられて、エリカは戸惑いながらもなんとか相槌を打ちました。おかげで、胃の底から湧きあがるような不快感が、どこかに消えていきます。
するとマーガレットは、いまいちハッキリしないエリカの目を見て尋ねました。
「まさか家出?
もしかして、バルフォア家で何かあったの?」
「お、おおおおお姉ちゃん……?!」
その言葉は、曲がりなりにも皇女の身分を得た自分なら、彼女の力になれるかも知れない……という親切心から飛び出たのですが。
マーガレットの言葉を耳にした瞬間、クレイグは目を瞠りました。
まさかエリカが、あの有名なバルフォア家の養女だったなんて、と。




