ミドルヒールが御用達 7
目を覚ましたエリカはしばらくの間額に手を当てて、ぼんやりしていました。
久しぶりに夢も見ないで、ぐっすり眠った気がします。
カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいます。耳を澄ませば鳥の鳴き声が遠くに、下の階からは人の気配と物音が聴こえてきます。
エリカは、隣に眠るコニーを起こさないようにベッドから抜け出しました。
コニーはぐっすり眠っています。
一緒に眠る人間が父親からエリカに変わっても、たいして気にならなかったようです。口をちょっとだけ開けて、そこから規則正しい寝息が聴こえてきます。
その様子を見たエリカは、思わず頬を緩めました。そして、ぼさぼさになった髪を手櫛で整えながら、昨日のことを思い出しました。
「一緒に寝てあげる~」と言ってベッドに潜り込んできた彼女が眠る前に、昼間の出来事を聞かせてくれたのです。なんでも、綺麗な馬車に乗ったおねえさんとお話をしたのだとか。
興奮冷めやらぬ状態のコニーに、エリカは相槌を打つことしか出来ませんでした。クレイグには“大丈夫”だと言ったものの、やっぱり体がだるかったのです。
そうしているうちに話し疲れたのか、コニーはゼンマイが切れたように眠りにおちてしまったのでした。
コニーが蹴って肌蹴た毛布をかけ直して、エリカは寝室を出ました。
なるべく軋ませないように階段を下りたエリカは、大きなバケツを両手に持ったクレイグと目が合って、咄嗟に口を開きました。
「お、おはようございます」
クレイグは、目をぱちぱちさせました。昨日のエリカの様子からして、まだ起きてこないだろう、と思っていたのです。
すぐに我に返った彼は、水の入ったバケツを床に置きました。ちゃぷん、と跳ねた水が、わずかに床を濡らします。
「おはよう。
体の調子は?」
大股でエリカに近づいたクレイグの大きな手が、彼女の額に触れました。重いバケツの取っ手を握りしめていたからでしょうか、その手は少し強張っています。
それでも気遣って触れているのが伝わってきて、エリカは頬を緩めました。
「もう大丈夫だと思います」
額に溶ける熱を感じながら答えれば、クレイグの顔を曇らせて口を開きます。
けれど彼の表情が変わった瞬間、エリカは言葉を割り込ませました。
「あっ、本当に大丈夫です。
よく眠れて体も軽いし、頭もスッキリしてるし……」
ぶんぶん手を振ったエリカを見て、クレイグが肩から力を抜きました。はぁぁ、と溜息をつきながら。
「それならいいけど……。
まあ、とりあえず」
言いながら、彼の手が今度は彼女の背中をそっと押します。
そのやんわりとした力加減になんとなく逆らえないエリカは、促されるままにソファに腰を下ろしました。
ぽすん、と座った彼女に、クレイグは言いました。なんとなく納得がいかないので、少し口調が強くなってしまうのは仕方ありません。
「朝ごはんが出来るまで、ここに座ってなさい」
「えっ、でも」
「いいから」
反論しようとしたエリカは、ぴしゃりと言い放たれて口を閉じました。
そこへ、溜息混じりのクレイグが言いました。
「エリカが来るまでは、私がしていたことだよ?」
そのひと言に、エリカは俯いてしまいました。自分がいなくても、まったく問題がないように聴こえて仕方なかったのです。
するとクレイグは、苦笑を浮かべて声を落としました。エリカの言う“大丈夫”に納得出来ないのはたしかですが、かといって俯かせたいわけではないのです。
「コニーには、手際が悪くなった、って言われてしまったけどね」
そう言った彼の手が、ぽふぽふ、とエリカの頭に触れます。
「……そんなつもりはなかったけど、君に甘えてたのかも知れないな」
それからしばらくの間、エリカは頭を押さえたままクレイグの言葉を反芻していました。そして言われたことを遅れて理解した彼女は、思わず頬を緩めたのでした。
自分のしていることが認めてもらえたような気がして、嬉しい、誇らしい、そんな気持ちになったのです。
「エリカ、ちょっと聞きたいんだけど」
朝食の片付けを終えたクレイグが、食後のお茶を飲んでいたエリカに言いました。
彼女は口をつけていたカップを置いて、声のした方に視線を投げます。
「はい」
クレイグは自分の分のお茶を片手に、エリカの向かいに腰掛けました。
「コニーのことなんだけど。
夜中、頭が痛いとか、そんなことは言ってなかったかい?」
「いえ、そういうことは……。
馬車に乗ったお姉さんのことを、一生懸命話してくれましたけど。
……頭が、どうかしたんですか?」
振った首を傾げて、エリカはクレイグを見つめます。
すると彼の眉間にしわが寄りました。
「その馬車が跳ねた石が頭に当たったらしい。
幸い、コブが出来たくらいで済んだみたいなんだけど……。
頭を気にしてる様子とか、なかった?」
「そんなことがあったんですか……?!」
驚いて目を見開いたエリカを見て、クレイグが溜息混じりに頷きます。
コニーが怪我をした日に自分のことにも構わなくてはいけなかったなんて……と、倒れたのがわざとではないにしろ、エリカは申し訳ない気持ちになりました。
「昨日の夜は、特に変わったところはなかったですけど……」
「そう……なら、よかった」
ふぅ、と息を吐きだしたクレイグは、ようやくカップに口をつけたのでした。
「興奮しちゃって要領を得なかったんだけど。
馬車に乗ってたお姉さんが様子を見に来るから……と、聞かなくて。
ちゃんと見せてもらえなかったんだ」
「……え?」
エリカは小首を傾げました。心の中にあった、申し訳ない気持ちは一旦端に置いておくことにして。
「じゃあ、そのお姉さんが今日店に来るんですか?」
最近の帝都を闊歩している綺麗な馬車のほとんどは、舞踏会に参加する家のものであるはずです。だとすれば、そういう家の誰かが、この靴屋にやって来るということでしょうか。
そんなことを考えて難しい顔をしたエリカに、クレイグが、また溜息をつきます。コニーに相当翻弄されたようです。
「まさか。
舞踏会に招待されるような身分の人が、こんな小さな靴屋に――――」
言いかけた、まさにその時でした。
店のドアが、嵌め込まれたガラスが割れんばかりの勢いで叩かれたのです。
バンバンバン、と激しい音を立てた店の方に視線を向けたふたりは、揃って顔を見合わせました。頭の中にあるのは、“馬車のお姉さん”のことです。
エリカが緊張に満ちた視線を投げかけると、クレイグは肩を竦めました。
「……まさか」
「――――貴方が店主か」
クレイグが開けたドアの向こうにいたその人は、開口一番にそう言いました。
そして彼と、少し離れた所から様子を窺っているエリカが反応する暇もなく、ずかずか、と店の中に上がり込んできました。
カランカラン、とドアベルの音だけがあっけらかんと店の中に響いています。
「え、あ、ちょ……っ」
戸惑うクレイグも、熊のような体を仰け反らせるしかありませんでした。誰でも突然で予期しないことが起きると、あわあわしてしまうものです。
けれどかろうじて、これだけは言うことが出来たようです。
「エリカ、君は中に入ってなさい」
「は……はいっ」
一瞬ぽかん、としたエリカでしたが、すぐに工房を駆け抜けて居間に引っ込みました。そして、ドアに耳を当てて店の様子を窺うことにしました。
店の窓から、馬の姿が見えています。馬車が横付けされているようです。そのことに気がついたクレイグは、いくらか冷静さを取り戻した頭で考えました。
コニーが言っていたのは“お姉さん”のはずなんだけど……と。
そうこうしているうちに、店に入ってきた人……青年が、口を開きました。
「開店前に押し掛けてすまない」
「ああ、そこはご承知の上だったんですね」
突然の出来事への驚きから立ち直ったクレイグは腕組みをして、さらりと嫌味を返しました。
毎朝コニーが出かけたあとは、店のドアには鍵をかけていますし、外側には“準備中”の看板をかけているのです。
すると青年が言いました。
「開店前でなければならない事情があるので」
すまない、と謝った割に態度が伴わない口調です。
眉ひとつ動かない、鉄仮面のような顔をしています。
「……はぁ……」
わけが分からず気の抜けたクレイグの相槌を聞いていたのかいないのか、青年は顔色ひとつ変えずに店の中を見回しました。
そしてクレイグに視線を向けると、おもむろに口を開きました。
「店主は貴方だろうか?」
「そうですが」
答えたクレイグは、青年が再び口を開く前に、と急いで言いました。
「失礼ですが、靴をお求めでないのならお帰りいただいても?」
「さきほど逃げるように奥へ駆けて行った女性の名前は?
他に人は?」
「は……?」
まったくもって会話になりません。
青年が質問の答え以外を必要としていないのが分かって、クレイグは思わず顔をしかめてしまいました。そして、苛立ちを押し殺して溜息をつきました。
「彼女は居候で、店とは関係ない」
名前は答えないでおきました。
青年が、エリカの育った家の人間であった場合を考えたのです。咄嗟に居間に戻るように言いましたが、正解だった、とクレイグは思いました。
突然殴りかかってくる強盗の類ではなさそうですが、決して友好的でもありません。しかも、おそらく靴を買いに来たわけではないのです。
「――――なるほど」
青年が何かに納得したように独りごちました。新しい靴が並び、コニーの作った花冠が飾られている店内には似つかわしくない、無愛想な声で。
その時です。
突然、店のドアが音を立てて開きました。
ガランガラン、と大袈裟なくらいの音を響かせたドアベルの音に、青年が顔をしかめました。そして、入ってきた人物を一瞥して、口を開きました。
「馬車の中でお待ちください、と申し上げたはずですが」
愛想の欠片もない、恐ろしく低い声です。
けれどその金色の髪をした女性は、その視線も声も台詞も、自分に向けられたすべてを意に介さなかったようです。平然と店の中に入ってきて言いました。
「待ったけれど、あなたがいつまで経っても出てこないから。
心配で、つい……ごめんなさい」
取ってつけたような言葉の口調だけが、いかにもしおらしく響きます。
けれど青年は、沈痛な面持ちを隠そうともせずに溜息をついて言い返しました。
「嘘をつくなら、もう少し御上手にお願いします。マーガレット様」
朝からなんなんだ……と、クレイグは心の中で愚痴を零しました。それから、言い合いを始めるなら余所でやってくれ、とも。
そんな胸の内が溜息になって口から出た瞬間に、マーガレット様、と呼ばれた金色の髪の女性がクレイグに向き直りました。
ほんのわずかな間、ふたりの視線がぶつかります。
先に口を開いたのは、女性の方でした。
「……コニーちゃんのお父様ですね。
こんな時間に訪問してしまって、申し訳ありません」
「え、ええ」
向けられた真剣な眼差しに、クレイグは思わず言葉に詰まりながらも咄嗟に頷きを返しました。
その間に脳裏に翻ったのは、コニーの言っていた“お姉さん”のことです。
気づけば、ついさっきまで溜息をついていた青年は、女性の後ろに静かに佇んでいます。どうやら彼は、彼女の従者か何かだったようです。
そこまで考えたクレイグは、ようやく腑に落ちました。青年のあの態度は、主人に危険なことがないか確認するためだったのかも知れない、と。
女性が、目を伏せて口を開きました。
「コニーちゃんからお聞きかも知れませんが……。
実は昨日、わたしの乗った馬車が小石を跳ねて……」
「ああ、聞いてます」
クレイグは、目を伏せた女性が申し訳なさそうに言葉を紡ぐのを遮って言いました。
「でもご心配には及びませんよ。
娘は今朝も元気に教会に行きましたし。
わざわざお出でいただいて、申し訳ないくらいです」
用意していた台詞を読んだかのような言葉に、女性は視線を上げました。
「良かった……それを聞いて安心しました」
すると、ほっとした様子の彼女のうしろに控えていた青年が、溜息混じりに口を開きました。
「マーガレット様、もう御用はお済ですね。
そろそろ参りましょう」
「あ、待ってリチャード」
主人に向けるべきとは思えない口調で言い放った青年に、女性が首を横に振ります。そして彼女は、クレイグに言いました。
「ええと、コニーちゃんのお父様。
コニーちゃんに聞いたのですが、こちらに刺繍の御上手な方が……?」
クレイグは“刺繍”と聞いて、どうしたものかと内心頭を抱えました。
靴を買いに来たのでないなら早く店から出て行って欲しいのですが、馬車を外で待たせているような身分の女性なら、エリカの良い取引相手になりそうです。
考えを巡らせたクレイグは、成功の芽を摘んでしまうのは……と、口を開きました。
「少し、お待ちいただけますか」
聴こえていた声は、途中から増えて3人になりました。加わったのは、女性のようです。
ドアにぴったりと耳をくっつけていたエリカは、コツコツという靴音が近付いてくるのを聞き取って、慌ててドアから離れました。
すると、かちゃり、と少しだけ開いたドアの隙間から、クレイグが顔を覗かせました。
「エリカ、ちょっといいかい?
君に刺繍をしてもらいたい人が、店に来てる」
呼ばれるがままに店に出たエリカは、金色の髪の女性が自分を見つめていることに気がついて、咄嗟に頭を下げました。
なんとなくですが、彼女がコニーの言っていた“お姉さん”だと思ったのです。
すると隣に立ったクレイグが、金色の髪の女性と、そのうしろに控える青年に向かって言いました。
「うちに間借りしている、エリカです。
市場の店から、刺繍を請け負っていますが……」
クレイグの声の硬さを聞き取った彼女は、慌てて口を開きました。
「はじめまして。エリカです。
ええと、その、刺繍のご依頼、でしょうか……?」
言葉の最後で、エリカはぎこちなく小首を傾げました。ぎぎぎ、と鉄の錆びついた音が聴こえてくるようです。顔も緊張に強張っています。
どうしてそんなことになったかというと、金色の髪の女性が、穴が開くんじゃないかというくらいにエリカを凝視しているのです。
この世のものではないものを発見してしまった、とでも言いたそうな顔です。驚愕、という表現がしっくりきます。
そしてあろうことか、女性は目に涙を溜め始めました。
慌てたのはエリカです。
クレイグはぽかん、としているし、青年は沈痛な面持ちで額を押さえています。
「えっ、あのっ?」
エリカはあわあわと、クレイグと青年を交互に見遣りました。
自己紹介しかしていないのに、一体何がいけなかったのでしょうか。
半ば混乱した頭で考えながらも、エリカは何か言葉をかけなくては、と口を開きました。
ところが、です。
金色の女性の、質素な見た目の恐ろしく質の良さそうな服の裾が、綺麗に翻りました。ほんの数歩の距離を飛びつくようにして、エリカに抱きついてきたのです。
勢いがよかった割に、その腕からほんのり香る匂いに、エリカは覚えがありました。いえ、匂いというよりは、抱きつかれた感覚を懐かしく感じたのです。
「あ、あの……?!」
ぎゅむ、と回された両腕を振りほどくことも出来ずに、エリカは戸惑いの声を上げました。
すると女性は、ぎゅむ、と今一度エリカを抱きしめる腕に力を入れて、一歩離れました。
そしてエリカの顔を覗き込むようにして、口を開きました。
「ああエリカ、また会えるなんて!」
「え?……は?」
きょとん、として目をぱちぱちさせるエリカに、彼女はなおも言い募ります。
「わたしメグよ。覚えてないかしら?」
「めぐ……」
「そうよ、メグよ」
呆然と言われた名前を繰り返すエリカと、笑みを浮かべて頷く女性。
それを見ていたクレイグは、何が何だか分からないまま立ちつくしていました。
エリカを知っている様子ですが、肝心のエリカは状況がいまいち理解出来ていないようです。
自分が口を挟んでいい場面ではない気がして、クレイグは腕を組んで息を漏らしました。
すると突然、エリカが口を押さえて息を飲みました。
そして、おそるおそる囁きました。掠れた、小さな声で。
「もしかして、メグお姉ちゃん……?」
その言葉が響いた瞬間、女性はエリカを抱きしめました。




