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ミドルヒールが御用達 6









ふいに聴こえた呻き声に、クレイグは体を強張らせました。

すぐに視線を走らせて、ベッドに横たわるエリカの様子を窺います。


とにかくベッドに、とにかく安静に……そう思ったクレイグは、迷わずに自分とコニーが普段寝ている場所に、エリカを横たえました。

本当なら、あまり他人を入れたくない場所ではありますが、今は緊急事態。彼女の意識もほとんどないようだし、きっといろいろ考えてはいけない時です。

あとになって我に返ったクレイグは、そんなふうに自分を納得させたのでした。


「悪い夢でも見てるのか……?」

ベッドの端に腰かけたクレイグは、エリカの額に乗せた濡れタオルを換えてやりながら呟きました。

その傍らには、取り込んできた洗濯物が綺麗に畳まれて状態で置かれています。彼女をベッドに寝かせたあとに、庭に引き返して取り込んできたのです。

幸いなことにベッドがダブルサイズだったので、彼は彼女が体を休める邪魔にならないように、洗濯物を畳むことが出来ました。

新しいタオルを額に乗せてやったクレイグの手が、無意識にエリカの頭に伸びました。コニーが夜泣きをした時や怖い夢を見て魘された時には、背中をとんとん叩いてやったり、頭を撫でてやるのです。

彼女を起こさないように注意を払って、その頭を撫でました。黒くて艶のある髪は、コニーの子どものそれとは手触りが違う気がします。

宥めるようにして撫で続けるうちに、エリカの寝息が穏やかになってきました。

クレイグはそっと息をついて、髪を撫でる手を離しました。落ち着いてきたなら、物音で彼女を起こしてしまう前に店に戻ろうと思ったのです。







あれ、と気づいたら、エリカは教会の前に立っていました。

彼女が、まだ4歳の時のことです。


痛みを感じて足元に目を落としたら、裸足で。幼いエリカは“足が痛い”と、わんわん泣きました。

そのあと、誰も周りにいないことに気がついて、泣き叫びました。ひとりぼっちの恐怖に、気が狂ったように泣き喚きました。「おとーさん、おかーさん」と叫びながら。

足の裏の痛みの次にやってきたのは、寒さです。彼女は薄手のパジャマを着ていたので、風がひとつ吹けば震えるほどでした。

そして幼いエリカは、孤独と恐怖と寒さのなかで気を失い、教会の前で崩れ落ちてしまったのでした。


目が覚めたら、今度は教会の中にある孤児院のベッドの上でした。そこが教会だと知ったのは、もう少しあとのことでしたが。

朦朧としたまま視線を走らせれば、すぐそばに金色の髪の少女がいました。

彼女はエリカが目覚めたと分かった瞬間に、ふんわりと微笑んで。そして優しく、「大丈夫よ、もう心配しないでね」と、幼いエリカの頭を撫でて囁いたのでした。





エリカは、ゆっくりと目を開けました。

ぼんやりする意識のなかで、誰かの手が頭を撫でたような気がしたのです。それに、額に何かが貼りついているような感じもして……。

それが何なのか突き止めようとしても、考える力が淀んでいて、纏めることが出来そうにありません。

仕方ないのでエリカはゆるゆると息を吐き出して、それから少しだけ、吸い込んだ空気をお腹の中に溜めました。

そして、今にも落ちそうな瞼を必死に押しとどめながら口を開きました。

「……ん……め、こほっ」

喉の乾きが邪魔をして、言葉が続きません。

エリカは眉根を寄せ、何度か咳払いをして言葉を絞り出しました。

「メ、グ……おねえ、ちゃ……?」


洗濯物を下の階で畳むつもりでドアを開けようとしていたクレイグは、目を覚ましたエリカに気づいて、慌ててカゴを床に置きました。そして、大袈裟なくらいに急いでベッドに駆け寄りました。

「――――エリカ」

クレイグは、眉根を寄せた彼女の顔を覗き込みました。

思い当たらない人物の名前が聴こえたからです。目を覚ましたエリカが正気を失っているのかと、心配で堪りません。

エリカの瞼は、持ち上がってはゆっくりと下りてきて、を繰り返しています。どうも意識がハッキリしていない様子です。

ベッドの端に腰を下ろした彼は、彼女の首に手の甲を当てました。

さっきは熱かったけれど、今はもう、それほどでもありません。どうやら風邪の類ではなさそうだ、と見当をつけます。

クレイグは体を屈めて、ぼんやりしているエリカの耳元で囁きました。

「水を飲むかい?」

「……ん」

掠れた声が、すぐに返ってきました。



こくん、と含んだ水を飲み込むのを見届けて、クレイグは持っていたグラスをテーブルに戻しました。そして、エリカの顔を覗き込みました。

すると、飲んだ水が体の隅々まで沁み込むのを待っていたかのように、彼女の瞳に力が戻ってきました。

「あ……」

頬は上気しているものの、その目がしっかりとクレイグを捉えているのが分かります。といっても彼がエリカの背中を支えていますし、この至近距離では視線を彷徨わせるまでもないのですが。


「え、あ……?」

意識がハッキリしたエリカが、目の前のクレイグに戸惑って声を零しました。まったくもって、状況が理解出来ないようです。

その様子を間近で見ていたクレイグは堪え切れずに、ぷくく、と失笑してしまいました。噛み殺した笑い声が、静かな部屋の中に響きます。さっきまで時々聴こえていた唸り、呻く声よりも、ずっとずっと心地よく。

クレイグは、きょとん、としているエリカに向かって口を開きました。

いろいろ言いたいことはありますが、まずは体のことです。

「体の具合はどう?」

低い声が囁いて、エリカはよく分からないまま答えました。ぽわぽわした頭で、ちゃんと考えずに。

「え、と……だいじょぶ、です……けど……」

「大丈夫……?」

空気に溶けて消えてしまいそうな言葉を聞いて、クレイグは訝しげに呟きました。まったくもって、信じられないのです。

大丈夫なわけあるか……なんて思ってしまいます。

だから、クレイグは思ったままを尋ねました。変に言葉を選んでいては、エリカから本当のところを聞き出すのは難しそうだから。

「君、庭で倒れてたんだよ?

 体がすごく熱くて、魘されてて……なのに、もう大丈夫なのか?」

心配そうに尋ねられて、エリカは小首を傾げました。はて、一体何のことなのか……と。

そして、頭の中に残る記憶を遡り始めました。


洗濯物を取り込もうとしていて、ふと屋敷暮らしの時のことを考えてしまったこと。そのあと、養父母や義弟がどうしているかと思いを馳せて……そして、自分が世話になった人達を放り出してきてしまったことを改めて考えて……ものすごく悪いことをした気がして。


背中を這いまわる言いようのない暗い何かを感じて、エリカは体を震わせました。

その姿を見たクレイグは、まさか、と思いました。嫌な予感が、口を突いて出ます。

「まさか、庭で誰かに襲われたとか……」

その瞬間、彼女の顔が引き攣って歪みました。

「――――そうなのか?」

息を飲んだクレイグが、硬い声で尋ねました。

「ちっ、違います。違います……!」

エリカはそう言いながら、必死に首を振りました。その顔は、否定しているのに変わらず引き攣ったままです。

「違います、違いますから! 襲われてなんかないです……!」

「わ、分かったよ。ごめん、分かったから」

あんまり必死に言うので、クレイグは理由もなく謝り倒しました。




「……落ち着いた?」

ひたすら謝り続け、ようやくエリカは静かになりました。

クレイグの問いかけにも、こくん、と首を縦に振ります。

「それで、頭が痛いとか……体の不調はない?」

「ちょっと、くらくらしてます……けど、大丈夫です」

「また“大丈夫”か」

溜息混じりに呟いたクレイグが、空いている手でエリカの首筋に触れました。

何も言わずに触れられた彼女の方は、突然のことに体を強張らせるしかありません。でも、彼が上機嫌でないことくらいは、触れた手から伝わってくるので分かります。

エリカは息を飲んで、クレイグのひんやりした手が離れていくのを待ちました。


やがて彼が、手を離しました。

その顔は分かりやすく不機嫌です。溜息なんて優しいものではなく、押し殺した怒りのようなものを感じる吐息が、その口から漏れています。

「……まったく……いいかいエリカさん」

「――――ひっ」

蛇に睨まれた蛙のごとく、エリカは短い悲鳴を飲み込みました。

普段はそうしない相手を“さん”付けで呼ぶクレイグを、彼女は見たことがあります。その大体は、コニーと“お約束”……いわゆる、お小言をくれる時でした。

しかもクレイグのお小言は静かで、重くて、硬くて、なんというか、それはもう頷くしかないだろう、と思うくらいの威力なのです。あの天真爛漫なコニーが、腑に落ちなくとも頷くほど。


無意識にクレイグから離れようとしたエリカは、自分が彼に支えられた格好でベッドの上に座っていることに、ようやく気がつきました。

つまり、もう逃げられない、ということにも。

「ご、ごめんなさいっ」

せっかく水を飲ませてもらったのに、もう喉がカラカラです。言葉が喉に引っかかってしまって、聞き苦しい声しか出せませんでした。

するとクレイグは、目を細めて言いました。

「それはダメだ」

「……ごめんなさい」

何がダメなのか分からないまま、とにかくエリカは謝りました。あいにく謝罪の言葉を言い続けるのは、それほど苦ではありません。頭を下げるのも、慣れれば無心で出来ます。

けれどクレイグは、エリカの口から出た言葉を聞いた途端に苦笑を浮かべました。そして、彼女の喉に触れた手で今度はうなじを、そっと押さえました。


こつ。


頭を下げようとしたエリカの額に、固いものが当たりました。

それがクレイグの額だと気づくことが出来たのは、触れた部分から、彼の低くて控えめな笑い声が響いて伝わってきたからです。

「君は……」

クレイグの囁きが、耳からも触れた部分からも同時に聴こえてきます。

表情は分かりません。近すぎて、目も開けられないのです。だけど彼の低く、喉の奥でこっそり笑うような声だけは、しっかり感じられました。

「甘える、ってことをした方がいい」

言われたことの意味が分からなかったエリカは、答えられずに黙り込みました。

甘えるって、一体何だろう。何をすればいいんだろう……そんなことを考えて。まるで、無理難題を突き付けられた気持ちです。


するとクレイグが、口の端を持ち上げて囁きました。

「……エリカさん。返事は?」

そんなふうに言われてしまっては、もう頷くしかありません。

「はい……」

控えめに囁いたのを聞いたクレイグは額をくっつけたまま、エリカの頭を撫でました。するん、と手触りのいい髪の上を、手が滑ります。

そしてその手を離した彼は、おもむろに立ち上がりました。



「――――じゃあ早速。

 私に甘えて、明日までエリカはここで寝ていなさい」

そう、言い置いて。










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