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出会いはベージュの靴と 3








コニーの「いってきまーす!」という、エネルギーに溢れたひと言が耳の奥で何度も何度も再生されて、女性は心の中で天を仰ぎました。

一方、男の方は沈痛な面持ちで、こっそり溜息をついています。全てを丸投げされた気分で、自分の娘とはいえ恨めしい気持ちでいっぱいなのです。


中を窺うように店のドアを開けたのは、コニーの友達でした。教会から戻った彼は、いつものように遊び仲間の家の戸を順番に叩いていただけ。いくらタイミングが絶妙でも、そこに悪意はないわけで。

最初、お誘いに戸惑っていたコニーは、自分の目的を達成出来たことに思い至ったのか、少し考えてから元気に店を飛び出して行ったのでした。

ちなみに昼食はいらないそうです。夕食を昼食の分まで食べて、ちゃんと補完するのだと言い残して行きました。




閉まったドアの上で揺れるドアベルも静かになり、沈黙が落ちてきます。どう扱ったらいいのか分からない空気のなか、なんとなく視線を彷徨わた2人の目が、ぱちっと合いました。その瞬間に、言いようのない気まずさが訪れます。

耐えられなくなって先に視線を外したのは、女性の方でした。握りしめた手には、痛いくらいに食い込んだ銅貨の感触が伝わります。

「――――あの。

 やっぱり私、この靴をいただくわけには……」

女性が何を言おうとしているのかを、男はすぐに理解しました。けれど何も言わず、眉の片方すら動かすことなく、靴を静かに見下ろしているだけです。

もしかしたら聴こえていなかったのかと思った女性は、そっと男を呼びました。

「ローグ、さん?」

ところが、です。

「……ローグじゃない」

溜息混じりに、男が言いました。

「え、でもお店の看板には、ローグって……」

ドアを開ける前に見た光景を思い出しながら、女性が小首を傾げます。古ぼけてはいたけれど、たしかにローグと書いてあったはず、と。

すると男は、少し視線を彷徨わせてから口を開きました。

「ローグは、前の店主の名前なんだ。

 私のことは、クレイグと……」

低い声で、ぼそりと呟かれた名を、女性の耳はしっかりと捉えました。

「クレイグ、さん」

すぐに繰り返して、同時にその頬が少し緩みます。

噛みしめるような口調で自分の名前を囁かれたクレイグは、なんとも形容しがたいものを感じて、思わず息を詰めました。


店の外の喧騒を聞き流しながら、クレイグは気を取り直して口を開きました。

「……それで、君は?」

ところが、です。彼は、自分の口から飛び出した言葉に、耳を疑ってしまいました。

女性に名前を尋ねるなんて、滅多にないことなのです。それこそ、採寸から靴をオーダーするような上客の名前でないと、注文票に名前を載せる必要がないのですから。

それを初対面の、しかもコニーが気まぐれに連れてきた所持金がスズメの涙ほどしかない、どういうわけか室内履きのまま外をふらついていたという、思い切り不審な女相手に。

何をしているんだろう。とっとと追い出せばいいのに。用が済んだなら、どこへなりとも消えてもらって構わない……そう、思っているはずなのに。

クレイグは、飛び出した言葉が口に戻らないことを悔やみつつも、平然を装って女性が答えるのを待ちました。ほんの数秒、もしかしたら1秒にも満たないかも知れない間が、もどかしさすら感じます。


すると女性は、躊躇うように視線を行ったり来たりさせたものの、ひと呼吸置いてから口を開きました。

「……私、は」

クレイグは食い入るように、女性の唇をじっと見つめます。どんな音を紡ぎ出すのか待ち構えている自分がいることには、まったく気づかないまま。

「エリカです」


クレイグは、はたと我に返りました。

口の中で「エリカ……」と呟いたりして、一体何をしているんだ。ビーフジャーキーのように噛みしめてどうする、と思わず自分を戒めます。

エリカは、ぼんやりしているように見えたクレイグの瞳が、わずかにつり上がったことに気がつきました。

彼女は素早く、でも傷をつけないように気をつけながら靴を脱ぎました。そして、熊のように立ちはだかっている彼に差し出しました。

「あの、クレイグさん。

 やっぱり私、この靴……」

けれど、言葉と一緒に差し出されたものを一瞥した彼は、首を振るだけ。

「この靴はコニーが、あなたにあげたものだ。

 自分の手を離れたものを、とやかく言うつもりはないよ」

低い声が、穏やかに響きます。

クレイグは自分の声が、思っていたよりもずっと落ち着いていることに、ほんの少しだけ驚いていました。どこから声が出ているのか、自分でもよく分からないくらいです。

「それに……その、よく似っていると思うし」

言い淀んだのは刹那の間で、その声はしっかりしていました。だって、お世辞ではないのです。彼女が靴を履いた時に、そう思ったのですから。

「あ、えっ……?!」

まさかそこまで肯定されると思っていなかったエリカは、戸惑いのあまり手をぱたぱたさせました。わずかに頬が赤く染まるのは、もう自分でもどうしようもありません。

「す、すみません」

クレイグは、そんな彼女の様子を好意的に見ながらも、“ありがとう”という言葉が返ってこなかったことを残念に感じていました。別に飛び上がって喜ぶ姿を期待していたわけじゃないのです。社交辞令くらいの気軽さで、ひと言くれてもいいような気がしただけで。

彼は、その靴を作ったのは自分なんだぞ、と言いたい気持ちで息を吐き出しました。



「とりあえず……」

溜息混じりに呟いたクレイグは、おもむろにエリカの前に膝をつきました。そして、彼女の手にあった靴をするりと抜きとり、何も言わずに履かせたのです。

あっという間の早業に、エリカは「自分でしますから」のひと言を告げることも出来ずに固まってしまいました。目の前では、事務的な動きを終えて立ち上がったクレイグが、どこか満足気に息をついています。


エリカは、自分の手のひらが汗ばんでいるのに気づきました。そしてそれを誤魔化そうと、手を擦り合わせて視線を彷徨わせます。そろそろお暇した方がいいよね、なんて、そんなことを考えながら。

ところが彼女の思惑とは裏腹に、クレイグは言葉を続けました。どうして彼女に関わろうとするのか、もう考えないことにしたようです。

「それで君は……エリカは、どうして室内履きのまま歩いていたんだい?」

自分の作ったベージュ色の靴を見つめながら言えば、エリカは言葉を濁しました。

「お耳汚しになりますから……」

その表情を見ていれば、話したくないのであろうことはクレイグにもなんとなく分かります。それでも、彼は言いました。

「所持金だって、あれじゃ子どものお駄賃並みだ。

 お金のことがよく分からない、っていうのも頼りないし。

 ……失礼を承知で聞くけど、家出か何か?」

その言葉に、エリカの顔が青ざめます。何か言わなくちゃ、と思うのに言葉は出なくて。彼女は両手を握りしめました。爪が、皮膚に食い込むほど。

否定することも出来ない彼女を見て、クレイグは溜息をつきました。

「やっぱり……。

 あの靴を履いてたってことは、どこかの屋敷の使用人だろう?

 飛び出して来たなら、きっと雇い主が探して――――」

「か、帰りたくないんです! 絶対、何があっても!

 だから警備隊には連絡しないで下さい、お願いします!」

弾かれるようにして声を上げたエリカの様子に、クレイグは言葉を飲み込んでしまいました。気圧されたというよりも、純粋に驚いたのです。言葉遣いが丁寧で柔らかく、控えめな彼女の印象からは想像しづらい姿でした。

「うん……?」

クレイグは、何かがおかしいような気がして首を捻りました。喉に魚の小骨が引っかかったような、変な感じです。

「でも使用人なら給料も出ているだろうし……それなら金銭感覚も……」

彼はぶつぶつ呟きながら、その引っかかりが何なのかを考えます。

「じゃあ履きものは……」

その時です。

はっ、と目を見開いたクレイグは、顔を強張らせているエリカを見つめました。







「――――ただいまぁっ」

日が暮れる頃、出て行った時と同じくらいに元気なコニーが帰ってきました。

彼女は店のドアを閉めながら、小首を傾げました。いつもならこの時間は、父親が店に並ぶ靴の整理をしているはずなのですが、姿が見当たらないのです。当然、「おかえり」という声も聴こえてきません。

何かが変だぞ、と子どもの直感が働いたコニーは、店の奥に行ってみることにしました。


店の奥にはまず、クレイグの作業場があります。小さな部屋ですが、整理整頓されていて、手を伸ばせば欲しい物を取ることが出来る、ちょうどいい広さです。

そして店とは反対側についているドアが、暖炉のある居間と台所に繋がっているのです。

コニーがそのドアを開けようとした時、向こう側から声が聴こえてきました。父親の声ではありません。なんだか、少し高いような……。

「ん~……?」

お客さんかな、と思いつつも、なんだか釈然としません。だって、この家にお客さんが来たことなんて、コニーが知る限り一度もなかったのですから。

そんなことを考えながら、コニーは居間に続くドアを開けました。


「……あれ、もうそんな時間か」

難しい顔をして居間に入ってきた娘を見て、クレイグが言いました。

「おかえり、コニー」

「ただいま~」

いつもと違う展開に、コニーは口を尖らせました。でも、何をどう伝えればスッキリするのか分かりません。胸のあたりがモヤモヤ、くしゅくしゅします。

そんな彼女を見たクレイグは、夕食の準備をしていた手を止めました。

「どうかした?」

「うん、と……」

訊かれて、コニーは口ごもりました。まだ、ちゃんと自分の気持ちを伝えるだけの言葉を、持ち合わせていないのです。

彼女は、スッキリしないものを抱えて俯きました。すると、その視界にベージュ色をした靴が、揃えて置かれているのを見つけました。

「え~っ!」

「――――お?!……っと……」

素っ頓狂な声を発した娘に驚いたクレイグは、落としかけた卵を大事そうに、そっとボウルの中に置きました。そして、視線を走らせます。

「コニー……。

 いきなり大きな声を出さないで、っていつも言ってるだろう?」

「……あ、ごめんなさい」

溜息混じりの父親の言葉に、当の本人は全く反省の色もなく。ひょこ、と肩を竦めたかと思えば、揃えて置かれた靴の前にしゃがみ込んで、うしろを振り返りました。

「ねぇパパ……?

 やっぱりおねえさん……くつ、いらないって……?」

その顔は、まるで自分が捨てられたかのように悲しげに沈んでいます。帰ってきた時の、めいっぱい遊んで充実した晴れやかな顔が嘘のようです。

クレイグは、背中を丸めて靴をつついている娘を見て、困ったような顔で微笑みました。まったく、どうしてこんなに可愛いのだろうかと、そんなことを思ってしまったのです。

彼が何も言わずにほのぼのしていると、庭に続くドアが開きました。


「……あ!」

ばっ、とコニーが声を上げて立ち上がりました。

今度ばかりは、クレイグも注意するのは止めておくことにしました。なんだかんだで、娘の喜ぶ顔が一番だと思うからです。


コニーの声に、エリカは視線を上げました。その手には、薪がいくつも抱えられています。かまどに火を起こすためです。

「おねえさん!」

「えっと……」

飛びつかんばかりの勢いで駆け寄ってきたコニーを前に、エリカは戸惑いながらも笑みを浮かべました。そして、言おうと思っていた言葉を紡ぎます。

「コニーちゃん。

 素敵な靴を、どうもありがとう」

するとコニーは体から芯が抜けてしまったかのように、もじもじし始めました。よく見れば、なんだか頬が赤いような気もします。

エリカが彼女の瞳を覗き込めば、小さなお人形のような唇がわずかに開きました。こく、と頷いて、束ねた髪が揺れています。

「……ん」

その照れた顔を見て、エリカの頬も緩みました。


「あれ……?」

もじもじしていたコニーが、ふと思い出したように呟きました。こてん、とその首が横に倒れていきます。

「なんで、わたしのおうちに、おねえさんがいるの?」

その様子が可愛らしくて、エリカは思わず見入ってしまいました。だから、コニーの口にした疑問に答えるタイミングを逃してしまったのです。

ぽわわ、と和んでしまったエリカを見たコニーは、あることに思い当って思い切り手を叩きました。

「そっか!

 お金がないってことは、おうちもないのね!」

まるっきり正解ではないのですが、ほぼその通り。今のところ路銀と呼べるものはないし、帰る家もありません。

エリカは痛いところを突かれて、頭の中が真っ白になってしまいました。もっとも、コニーはそれを良いとも悪いとも思っていないようですが。


2人の会話をひやひやしながら見守っていたクレイグは、沈痛な面持ちで我が子を手招きしました。熊のような、大きな手で。

「……コニーさん、ちょっと」


ててて、と何の疑いもなく父親のもとへ駆け寄ったコニーは、“人様のお金の話はしない”をお約束として言い渡されたそうです。









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