ミドルヒールが御用達 4
お日さまに向かって両手を伸ばして、深呼吸をひとつ。
「いいお天気」
いい気分で庭に出たエリカは、干した洗濯物のひとつひとつに触れて回ります。
「……ん、大丈夫そう」
乾き具合を確かめて頷いた彼女は、洗濯物をカゴに取り込み始めました。
コニーは元気いっぱい、というか、半ば興奮状態で帰って来ました。
彼女が捲し立てたブツ切れの情報をクレイグが拾い集めた限りでは、どうやら帰り道に大通りを走る豪奢な馬車を見たようです。
一生懸命話してくれた彼女に、エリカは木綿のハンカチを渡しました。ジーナが「ぜひコニーに」と言っていたことも添えて。
青い小鳥とタンポポの刺繍が入ったハンカチを受け取って、ぴょんぴょん跳ねて喜んだコニーは、お昼のサンドイッチを食べて遊びに外に飛び出して行きました。きっと今日も、夕食の時間までめいっぱい遊んでお腹をすかせてくるはずです。
洗濯バサミを物干しロープに留めながら、エリカは呟きました。
「こういうのが普通の暮らし、ってやつなのかな……?」
なんでもない会話をして、一緒に食事をして。お互いに助け合って、笑い合って。この家に置いてもらうようになってから、初体験ばかりです。
それなら屋敷にいた頃の暮らしは、一体なんだったのでしょうか。
例えば、朝日が昇りきる前に起きて、新聞を食卓のテーブルにぴちっと置きます。養父の席の、利き手でない側に。
それから庭に出て落ち葉やゴミを拾います。そして玄関の掃き掃除。靴磨き。
その一連の作業が終わったら、今度は養父母の部屋に入ってシーツやバスローブなどの洗濯物の回収をします。
そしてそれをリネン室に持って行ったあとに、今度は養父母のバスルームの掃除。
そこまで終わると、ようやく自分の朝食です。といっても、固いパンと野菜くずのスープ。朝は使用人達と同じ食事でした。
養父母は、口を揃えて「食べ物のありがたみが分かる女性になるため」だと言っていましたが……。
食事を素早く終えたら、今度は洗濯が待っています。洗濯機はハンドルを回すだけでいいけれど、何度もやれば腕や腰が痛くなります。そうなると時間がかかるので、洗い場にまわされることもありました。
そうして午前中の仕事が終わると、昼食です。昼食は、エリカが使用人達の分の食事を作ることになっていました。
これももちろん、「どんなお屋敷に行っても、食事をおいしく作る女性は捨てられない」と養父母から言われていたので。
こうして休む間もなく仕事は続きます。干した洗濯物を畳み、アイロンをかけ……まだまだ続きます。それこそ、養父母が寝静まるまでがエリカの“家事”の時間でした。
いろんなことが走馬灯のように駆け巡ったあと、エリカは呟きました。
「……どうしてるかな」
溜息すら出てこないのに、気にかかって仕方ないのです。なんというか、虫の知らせ、とでもいいましょうか。もしくは、嫌な予感。
いえ、きっと生活がある程度落ち着いた今だからこそ、屋敷がどうなっているのかを考えてしまうのでしょう。
「お義父さんとお義母さん……と、クリスも……」
ぽつりと口から零れた言葉が、取り込んで抱えたままのタオルに落ちて、沁みこんでいきます。なんとなく呟いただけなのに、エリカひとりでは扱いきれない言葉だったようです。
言葉にした途端、屋敷から遠く離れて清々しい気持ちとは裏腹に、恐ろしいほどの罪悪感が胸の中をじわじわと侵食し始めました。
自分が家族を捨てた、酷い人間に成り下がったような気持ちになったのです。
その瞬間、誰かに首を絞められたような感覚に陥りました。胸を押さえて必死に呼吸をしようとすればするほど、苦しくなります。喉に爪を立ててもがいても、息が出来ません。
そのうちに、喉から空気の抜ける音が聴こえるようになりました。その音はとても耳触りで、いつか聞いた誰かの息づかいのようで……。
かくんっ、と膝が折れました。
息が苦しくて、頭の芯が痺れて。とうとう体から力が抜けてしまったのです。
ガッ、という衝撃がありました。
崩れ落ちて、肩が地面にぶつかったのです。
呻き声が、締め付けられたように苦しい喉の奥から這い上がってきました。
痛いし、背中がぞくぞくして耳鳴りがするし、どうしてこんなことになったのか分かりません。分かるのは、このままじゃ息が出来なくて死んでしまいそうだ、ということだけ。
痺れた頭でそんなことを考えていたエリカは、自分の腕を抱え込みました。そうでもしないと、寒くて仕方ないのです。
口から、聞いたこともない呻き声が漏れました。
その時です。
「ごめんエリ」
買いつけたばかりの革の埃や汚れを払おうと、クレイグが庭に出てきました。埃が飛ぶだろうから、と前もって声をかけるつもりで。
「――――か……?!」
ところがその視界に飛び込んできたのは、倒れてがくがく震えるエリカの姿でした。
彼は絶句した次の瞬間、彼女のもとに駆け寄りました。革なんて、放り出して。
ドサッ、と重いものの落ちる音はそのままにして、彼は脂汗をかいている彼女を抱き上げました。ふに、と柔らかい体からは、服の布地を通して熱が伝わってきます。
「エリカ……?!」
呟きながら、クレイグは呼吸の荒いエリカの顔を見つめました。体は布越しでも分かるくらい熱いのに、唇が真っ青です。
血の気が引いた、なんてもんじゃありませんでした。心臓が激しく打ち付け始めて、吐き気に似た感覚に恐怖すら覚えました。腕から力が抜けてしまいそうです。
「いや、まずはベッド……!」
はっ、としました。怯んでいる場合ではないのです。
クレイグは一瞬でも気が動転した自分を叱咤して、家の中に急ぎました。
靴屋の庭先でとんでもないことが起きていた頃、コニーは近所の友達と一緒に、教会のある丘で遊びまわっていました。
初夏の爽やかな風が吹く丘は、汗を掻きながら遊ぶ子ども達にとって格好の遊び場です。笑い声が絶えることなく、風に乗って響いています。
「コニー、どこぉ~?!」
突然呼ばれて、コニーは辺りを見回しました。
みんなで鬼ごっこをしているというのに、彼女は丘の片隅から街を見下ろしているところだったのです。いえ、街というよりも行き交う豪奢な馬車を、ひたすら見で追っていたのでした。
細部まで自分の目で見えるわけではないのですが、飾りがお日さまの光に反射して輝いているのが、すごく魅力的に見えるようで。
そんなわけで、目をキラキラさせながら風に吹かれ、汗を乾かしていた彼女は我に返って友達の姿を探しました。
「……あっ」
コニーはすぐに、駆け寄ってくる友達に気がついて声を上げました。ついでに手も振ってみます。
「メアリだー、どうしたのー?」
「どうしたのー、じゃないよコニーぃぃ……」
笑顔で手を振ったのに、どうやらメアリの方は全然楽しくなさそうです。
ふぅふぅ言いながら呼吸を整えた彼女が、きょとん、としているコニーに向かって眉根を寄せました。腰に手も当てて。
きっと、同じような仕草で親から窘められることがあるのでしょう。
「もぉぉっ。
おにごっこはっ?!」
勢いよく言葉を放ったメアリに、コニーは小首を傾げました。どうやら、お友達と遊んでいたことが頭からすっぽり抜けてしまっていたようです。
「あれ?
そうだっけ?」
「……はぁぁー……」
本気でそう思っているらしいことを察したメアリは、深い溜息をつきました。
コニーの、猪突猛進で興味を抱いたものに目を輝かせてのめり込む、という性格をよく分かっているのです。
メアリは、コニーを鬼ごっこの輪に戻すのを、ひとまずやめることにしました。そして、何気なく口を開きました。
「それで、コニーはなにしてたの?」
「ばしゃをみてたんだ~」
「……ばしゃ?」
「そそ。すんごくキレイなおうまさんがいてね」
嬉々として語られた内容に、メアリが怪訝な顔をしました。けれど、そんなことコニーの視界には映らないのです。
彼女は、今しがたまで自分が眺めていた馬車を指差しました。
「……ほら、あそこ。
まっかな羽がついてて、キレイだよねぇ」
「うーん……」
メアリは指の差す先を見てみますが、あんまりよく分かりません。
「まっかな羽……まっかな……」
それでもコニーが言うんだから、と目を凝らしてみますが……やっぱり分かりませんでした。だからなんとなく、視線を彷徨わせました。
隣に佇むコニーは、わくわくした顔をして街の方を見ています。
だって、馬車を引く馬の羽飾りだけでも、何色もあることに気がついたのです。青い羽根の馬車には、青いドレスのお姫様が乗ってるに違いない……なんて、想像が瞬く間に広がります。
「いいなー、おひめさま。
あんなばしゃ、のってみたいなぁ」
目をキラキラさせて、コニーが呟いた時でした。
「……あ」
声が口から零れ落ちたかと思えば、ふいにメアリが彼女の肩を揺さぶりました。
「コニー、いたよ! まっかな羽のばしゃ!」
ひと際強く吹いた風が、コニーの耳元で轟音を立てます。
その煩わしさから眉をひそめた彼女は、突然力説してきたメアリを見遣りました。
「ん?
どこ?」
興奮している様子の友達は、街の方へ視線を走らせているコニーの肩をさらに強く揺すります。どうしても、今すぐに伝えなくては。
「だから、あっち!
そっちじゃなくて、あっちー!」
「えー?」
一生懸命訴えるものの、コニーの視線はメアリの伝えたい方向とは真逆に注がれています。馬車が走っているのは、街ではないのに。
「だから、ちがうんだってば!」
痺れを切らせたメアリは思い切って、目を輝かせているコニーの手を引っ張りました。ぐいっ、と。
がくん、とコニーの体が傾きました。
「わっ?!」
そのまま倒れそうなのを堪えているところを逃さずに、メアリは言いました。
「もぉぉ……。
ばしゃ、きょうかいのほう行っちゃったよ」
「――――えっ?!」
コニーは我に返ったのか、ぽかん、とメアリを見つめました。
すると、彼女はわざとらしく肩を竦めます。
「コニーのうしろ、とおったんだけどー」
灯台もと暗し、とはこのことです。必死に遠くを見つめている間に、目当てのものは自分のすぐ後ろをかっぽかっぽ駆けて行ってしまったなんて。
「そうなの?」
悔しい気持ちが湧きあがってきたコニーは、メアリに尋ねました。
もちろん彼女は頷きます。だって、自分の目で見ていたのですから。
がっくり肩を落とし、内心でメアリの話を聞いていなかった自分を罵っていたコニーは、少しして顔を上げました。
そして、しゃがみ込んで四葉のクローバーを探し始めたメアリに言いました。
「わたし、おいかけてくるね!」
「えぇっ」
「だいじょーぶ、みるだけだからー」
驚いて立ち上がったメアリは、コニーを引きとめようと口を開きました。
けれどその目に映ったのは、すでに駆けだした小さな背中でした。しかも、ぐんぐん遠ざかっていきます。
メアリは少しだけ躊躇したあと、とてとて駆けだしました。
コニーが“見るだけ”と言って、それで済んだことは一度もないのです。




