ミドルヒールが御用達 3
「――――大変……っ」
11時の鐘の音が鳴り響くのを聞いて、エリカは足を速めました。
12時になったら、コニーが教会から帰ってくるのです。きっと今日も、あの小さなお腹をぺこぺこにして。
市場はお昼が近くなったこともあってか、だんだんと人が増えてきました。立ち並ぶ店先からは、稼ぎ時を逃すものかと、力の入った客寄せの声が飛んできます。
その声を方々から浴びながら、エリカは腕にかけたバスケットを胸に抱え込みました。そして、小走りに駆け出しました。
大事な報酬の入った巾着は、ジーナに言われた通りにバスケットの一番下にしまってあります。クレイグとコニーへのお土産も買ったので、あとは靴屋に戻るだけです。
エリカは、自分へのご褒美に綿飴を買おうと思っていたのをすっかり忘れて、市場をあとにしたのでした。
今日のお昼は何にしよう……なんて、そんなことで頭をいっぱいにしながら。
「ただいま戻りました!」
「ああ、おかえりエリカ」
靴屋のドアベルを景気良く鳴らしたエリカは、その勢いのまま帰宅の挨拶をして、その場で固まってしまいました。店の奥にある工房で作業しているとばかり思っていたクレイグの声が、すぐ近くから聴こえてきたからです。
びっくりして立ちつくす彼女の後ろで、ドアがぱたん、と閉まりました。
「エリカ……?」
クレイグが、ぴくりとも動かないエリカを見て苦笑を零しました。その手には手入れ用の布が握られていて、床には何足か靴が置いてあります。
彼のその姿を呆然と見ているうちに、彼女もようやく我に返りました。ぼーっと突っ立っている場合じゃありません。
「お掃除ですか?」
エリカは持っていたバスケットを試着用のベンチの上に置いて、口早に言いました。
「お掃除だったら、私が」
クレイグは失笑してしまいました。そして呆れ半分な気持ちで、腕まくりをして近付いてくるエリカに言いました。
「そういうのは――――」
言いかけた瞬間、彼の顔色が変わりました。はっ、と息を飲んで。
「君、刺繍の仕事は?
ジーナさんに見せたんだろう?
……まさか、なかったことにされたのか?」
勢いよく捲し立てたかと思えば、手にしていた布を、ぽいっと放り出してしまいました。そしてそのままの勢いで、エリカの肩を思い切り掴みました。
熊のような手が、がくんがくん彼女を揺さぶります。
彼女はジーナの店でもこんなことがあったような気がする、と思いながらも、あわあわと言葉にならない声を上げるしかありませんでした。
「クレいぐさっ、ちがっ……ぐっ」
「いひゃいれふ……」
「す、すまない……!」
涙目になって口元を押さえるエリカに、クレイグがあたふたしながら謝ります。
彼は、ジーナの店で起きたことのすべてを説明しようとしたエリカが舌を噛んだところで、ようやく我に返ったのです。
「大丈夫か……?」
他に何と言えばいいのか分からないクレイグは、どうしようもなくなって“大丈夫?”を連発していました。ちなみに“すまなかった”は、すでにエリカが嫌な顔をするくらい連発済みです。
目尻に浮かぶ涙をごしごし拭いた彼女は、心配そうに顔を歪めている彼を見つめ返して、そっと首を振りました。
「も、いいれすから」
「でも……」
舌がじんじん痺れるように痛いので、“大丈夫です”とは言えません。残念ですが。
なおも表情を曇らせたままのクレイグをそのままに、エリカは置いておいたバスケットの中から、小さな巾着を取り出しました。
眉根を寄せたままで、彼が視線を移します。
「それは……?」
その呟きに、彼女はやっと頬を緩めて答えました。
「報酬れす」
「刺繍の?」
クレイグの言葉に、エリカはこっくり頷きます。んふふ、と笑みまで零して。
巾着を振れば、硬貨のぶつかり合う音が聴こえました。
「お土産、買ってきらんれすよ」
得意気に胸を張った彼女を見て、彼は驚きと安堵が入り混じったような気持ちになりました。彼女が認められて嬉しいけれど、お土産を買ってお金がなくなってしまわないか、と。
するとエリカは、内心穏やかでないクレイグには目もくれずに、バスケットの中から取り出したワインの小瓶を差し出しました。
「これ、どうぞ。
ちょっとしか入ってないけど……」
舌の具合は、もう良さそうです。
エリカは、きょとん、としている彼の手に小瓶を握らせて言いました。
「よかったら、飲んで下さい」
はにかむエリカと渡されたワインの小瓶を交互に見て、クレイグは小首を傾げます。
それを見た彼女は、言葉を選びながら言いました。
「ええっと……クレイグさんの淹れてくれたお茶、おいしかったです。
それで刺繍の疲れなんか、吹き飛んじゃったから。
そのお礼、のつもりなんですけど……」
「……別にいいのに」
一生懸命に言葉を並べるエリカに、クレイグが頬を緩めました。遠慮しているくせに、その表情はとっても穏やかです。
彼はひとつ息をついて、彼女の隣に腰を下ろしました。試着用のベンチが、ぎし、と笑い声のような音を立てます。
クレイグは困ったように微笑んで、それっきり。
でも遠慮されたって、もう買ってきてしまったのです。エリカは気持ちよく受け取ってもらいたい一心で、口を開きました。
「あの、心配しないで下さい。
クレイグさんが酔っ払っちゃっても、コニーの面倒は私が見ますから!」
懸命に捲し立てたエリカのひと言は、彼を絶句させました。
言葉を失い真っ白になった頭で、クレイグは思い出していました。そういえば、そんな話をした気がするぞ……と。
たしか、キャベツ亭からの帰り道です。
酔っ払っている間にコニーに何かあったら……と思うから、普段は酒類を口にしないようにしている。という内容だったはず。
あの時はほろ酔いでいい気分だったから、いろんな思いや言葉がするすると口から滑り出ていた記憶があります。なんだか情けないことまで曝け出してしまった記憶も。
それに関しては恥ずかしいものの、後悔はしていませんが……。
そんなことを思い返したクレイグは、おもむろに手を伸ばしました。
「……うん。ありがとう」
ぽふぽふ。
大きな手が、言葉と一緒に降ってきました。
頭のてっぺんから、じんわりと温かさが伝わってきます。
エリカは、力説する時に咄嗟に作った握りこぶしを解きました。それから、ほぅ、と息を吐いて肩から力を抜きました。
それからエリカは、ジーナの店でのやり取りを大まかに話しました。新たに刺繍を頼まれたことや、クレイグの靴を試着した人がいたこと、それから近く舞踏会が開かれるらしいこと……。
そのひとつひとつに相槌を打っていたクレイグは、話がひと段落したところで口を開きました。その視線は、渡された小瓶に括りつけられたタグに向けられています。
「そういえば、このワインはバルフォアのものなんだな。
結構な値段がしたんじゃないか……?」
彼が呟いた瞬間、エリカは息を詰めました。
無意識に背筋が伸びて、頬が強張ります。
「そ、そんなにいいワインだったんですか?
たしかに、小瓶の割に値段は……」
喉の奥が締め付けられたように苦しくて、か細い声しか出てきません。動悸がして、息が浅くなってしまいそうです。
エリカは、詰めた息をゆっくり吐きだしました。隣に座るクレイグに、それを気取られないように気をつけながら。
「うーん……エリカは知らなくて当然なのか。まだ未成年だし。
バルフォアのワインは、皇帝陛下の食事にも出されるくらいでね。
特に“グラン・クリュ”なんていう、最上級品は希少価値がすごいんだ。
なんでも、あの家の所有している葡萄畑の土がいいとかで……」
クレイグが言葉を並べている間に、エリカは煩く騒ぎ続ける心臓をなんとか宥めようと、深呼吸を繰り返していました。
最後のひと息を吐きだした彼女は、話し終えて小瓶を眺める彼に尋ねました。
「あの……。
バルフォア……っていう家は、有名なんですか?」
窺うように見つめられて、クレイグは小首を傾げました。
「家庭教師に習わなかったかい?
帝国の南西部は葡萄畑が広がっていて、そのほとんどの土地を所有してるのが
バルフォア家だっていう話。
……君も商家の娘だったなら、他の商家について聞かされてるかと思ったけど」
クレイグは不思議に思いました。
彼女の素性について今さら疑ったりはしませんが、なんだか気になりました。彼はエリカが、“大きな商家に嫁がせるために”教育されてきたという話を聞かされていたのです。
素直な言葉をぶつければ、エリカの視線が足元に落ちていきます。
目を伏せた彼女は、小さな声で呟きました。まるで独り言のように。
「あ……商売の話は、あんまり……。
でも、そうなんですね。バルフォアはワインを……知りませんでした」
するとクレイグが、再び彼女の頭に手を乗せました。捨ててきたものを思い出させてしまったか、と申し訳ない気持ちになったのです。
まさかワインひとつで、自分がこんなに浮ついた気持ちになるとは。ちょっと喋りすぎてしまった自覚があります。
「すまない。
家を出てきた君に、商家の話なんてしてしまったね」
「いえ、そんな。
知らなかったので、教えてもらえてよかったです」
ぽふぽふしながら口元に苦笑いを浮かべた彼に、エリカは勢いよく手を振りました。そして、それまでの話の内容を頭から追い出そうと、努めて明るい声で言いました。
「ともかく、それはクレイグさんにお土産……というか、恩返しです。
えっと、だから……これからも、刺繍頑張りますね」
「ああ、応援してる。
コレは今夜にでもいただくよ」
声に張りが戻ったエリカを見つめて、クレイグは頬を緩めました。
「はいっ」
嬉しそうな彼の顔を見て、彼女が声を上げました。跳ねた心臓が押し出したのか、ずいぶんと元気のいい声でした。
エリカはなんだか気恥ずかしくなって、ぱちん、と手を叩きます。これじゃまるで、ジーナさんみたいじゃない……なんて思いながら。
「おつまみは、何がいいですか?」
「そうだね……」
そんなことを言っていたら、突然12時の鐘が鳴り響きました。
もうすぐお腹をすかせたコニーが帰ってきます。
穏やかな時を過ごしていたふたりは、慌てて立ち上がったのでした。




