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ミドルヒールが御用達 1









最後のひと針を始末して、ハサミで余分な糸を切って。それから刺繍の部分を指の腹でなぞるようにして、気になる部分がないか確認して。


生地に皺も出来ていないようだし、と頷いたエリカは、大きく息を吐き出しました。

「――――ふぅ……っ」

強張っていた肩から力を抜き、針を針山に戻した彼女は時計に目を遣りました。けれど、ずっと手元を見つめていたせいか、焦点が合わずに視界が滲んだようにぼやけています。

コニーが2階に上がっていってから、ずいぶん経ったような気はするのですが……。

「ん……」

彼女は思わず目を、ぐりぐりごしごし擦りました。

するとその時、音もなく工房のドアが開いて、クレイグが入ってきました。

彼はエリカが刺繍をしているのを知っていたので、細心の注意を払ってドアを開けたのです。だから彼女は、自分に近づく人影の存在にも気づきませんでした。

その手を、がっしり捕まえられるまで。


「あっ……?!」

「ダメだよ、エリカ」

これでもか、と目を擦っていた手の自由がきかなくなったことに驚いたエリカの耳元で、低い声が囁きました。

その声を聞いた彼女は、一瞬強張らせた肩から力を抜いて瞬きを繰り返しました。そして、背後にいたクレイグを振り返りました。ほっとしたように笑みを浮かべて。

「お疲れさまです、クレイグさん。

 今日の作業はおしまいですか?」

その言葉を聞いた彼は、両手を離して椅子を引きました。

「ああ、あとは明日にするよ。

 エリカは……」

そこまで言った彼の視線が、テーブルの上に置かれたショールに向けられます。

「もう出来上がったのかい?」

わずかに驚きの色を滲ませた彼の言葉に、エリカは思わずはにかみました。早いことがいいこととは限りませんが、なんとなく褒められた気分になったのです。

「はい、一応……。

 もっと細かい刺繍を増やした方がいいのか、ちょっと悩んだんですけど」

彼の手がショールを広げました。

ふわりと柔らかい生地を縁取るようにして、蔦が延びていくような模様が刺繍してあります。その緑色に寄り添うようにして、ところどころに赤い実がついていて。

初夏らしい爽やかな刺繍から目を離した彼が、言いました。

「いや、いいんじゃないか。

 彼女に見せてみて、要求されたら加えればいいだろうし」

クレイグの言う“彼女”とは、服屋の女店主ジーナのことです。

そのことにすぐ思い至ったエリカは、頷きを返しました。


「……あ」

彼の手からショールを受け取って畳みながら、彼女は声を零しました。そして、すぐに彼の顔を見て言いました。

「お茶淹れましょうか。

 お夕飯が終わってから、何も飲んでませんよね?」

「……そういえば、そうかな……?」

彼は集中すると、すっかり自分のことなんて顧みなくなるのです。

はて、と首を傾げたクレイグを見て、エリカは慌てて立ち上がろうとしました。

「じゃあ私」

ところが、それを彼の熊のような手が止めました。苦笑混じりに。

突然突き出された腕に戸惑った彼女は、浮かした腰をどうしようかと迷ってしまいました。これは、お茶は要らないという意味なのかしら、と。

すると、彼がおもむろに立ち上がりました。

「お茶なら、私が淹れるよ。

 エリカは少し休んだ方がいい」

そのひと言に、エリカは大きく目を見開きました。

なんと。それは私の仕事なのに……そう思ったのです。

「いえっ、クレイグさんの方こそ休んでいて下さい!

 お茶を淹れるのは私の――――」

ところが気合いを入れた言葉は、彼の苦笑に流されてしまいました。

「いいから、座ってなさい」

言葉と一緒に、肩をぐっと押されます。

熊のような彼の力に、エリカが敵うはずもありません。彼女は押し込まれるようにして椅子にかけると、彼を見上げました。

すると、困ったような笑みを浮かべた彼が言いました。

「……言っただろう?

 君は使用人じゃないんだよ。

 一緒に暮らしているんだから、労るのは当然だ」

「いたわる……?」


聞いたことはあるけれど、いまいち腑に落ちない言葉でした。

エリカは思わず小首を傾げて、クレイグを見つめます。

彼はそんな彼女の顔を見つめ返して、やっぱり困ったように微笑みました。

「そうだな……。

 役割は決めたけど、それに縛られる必要はないんだよ。

 何かしてあげたい、と思うのを、仕事だから、って取り上げられるのは、

 ちょっと寂しいと思わない?」

「う……」

彼女は呻くようにして、言葉を濁しました。なんだか、くすぐったいのです。

そんな反応を示した彼女がおとなしくなったのを見届けて笑みを浮かべた彼は、おもむろに手を伸ばします。そして、柔らかい黒髪を静かに撫でました。

「いい子だね」

そこまで言われてしまうと、もう座っていなくては、と思ってしまいます。

エリカは言葉を返すことも出来ずに、台所に入っていく彼の背中を見つめました。




裁縫道具を片付けたエリカは、ぼーっとランプの炎を眺めていました。


キャベツ亭に行ったのは、おとといの夜のことです。

あの夜は、帰り道でお互いの話をし合って、それからクレイグに手を引かれて帰ってきました。コニーはベッドに下ろしても起きる気配もなく、ぐっすり眠っていて、ほっとしたのを覚えています。

そんなことを思い出したエリカは、自分の手を握ったり開いたりしてみました。

彼の手に繋がれた方の、手のひら。あの夜から変わったところはないのに、この手のひらを見ていると、なんだかそわそわします。

気になって仕方なくて、昨日はシャワーを浴びる時に思いっきり洗ってみました。それでもやっぱり、ふとした時に思い出して気になってしまうのです。

今日も刺繍に没頭している間は、全然気にならなかったのに。さっき彼の手に頭を撫でられて、急に思い出してしまいました。


そういえば、あの夜以来、クレイグはやたらとエリカに構うようになりました。

朝ごはんを作っていると、様子を見に来て頭をぽふぽふ。洗濯物を干すのに運ぼうとしているとやってきて、庭に運んでくれたあとに頭をぽふぽふ。

しまいには固く閉まった瓶のふたを開けてくれたあとで、頭をぽふぽふするのです。

別に何かを褒めるわけでもなく手が伸びてくることが多いので、ちょっとずつ身長が縮んだりしないだろうか、と少し心配になってしまいます。




いろいろと考えを巡らせたエリカがそっと溜息をついていると、クレイグが戻ってきました。

彼は持っていたマグカップのひとつを彼女の前に置きました。コト、と小さな音が耳に心地よく響きます。

「ありがとうございます」

「いいえ」

お礼を言って、彼女はカップに手を伸ばしました。そして、ひと口啜って、いつもと違う味に瞬きをしました。

甘くて、でも少し辛いのです。

びっくりしている彼女を見て、彼が頬を緩めました。

「生姜とハチミツを入れてあるよ。

 疲れてるみたいだから」

「……こういう飲み方もあるんですね」

そう零した彼女は、知らなかった、と口の中で呟きました。

必死になって覚えたのは、どこの家に嫁いでも恥ずかしくないお茶の淹れ方だけです。

「ローグじいさんに教えてもらったんだ。

 “体調が思わしくない時は、これ飲んでさっさと寝ろ”って」

当時のことを思い出して、クレイグがくすくす笑いながら言いました。

「おじいさん、優しい人だったんですね」

そう言いながら、エリカはそっと目を細めました。あの夜の、打ち明け話をしていた彼の顔を思い出したのです。

すると彼が、笑みを苦笑に変えました。

「どちらかといえば、ものすごく厳しかったよ。

 コニーにだけは、人が変わったように甘かったけどね」

「でもコニーを可愛いと思う気持ちは、すごくよく分かります」

ふふ、と笑みを零しながら、彼女は頷きました。

初めて会った日に、一生懸命なコニーが自分の手をせっせと引いて歩いている姿に、なんだか断れなくて靴屋まで来てしまったのを思い出したのです。




それから他愛もない話をしていたクレイグが、ふいにカップをテーブルに置いたのを見て、エリカが口を開きました。

「クレイグさん、カップは私が」

「こら」

洗いますから、と言おうとした彼女は、遮るように彼に言われて、思わず言葉に詰まってしまいました。そして、息を飲みました。

カップを置いた彼の手が、おもむろに彼女の額を押さえたのです。

「あの……?」

額から伝わる体温に戸惑いながらも、カップを持っていて動けない彼女は、じっとしているしかありません。

すると、額に手を当てていたクレイグが言いました。

「……熱はないと思うけど」

なんだか溜息混じりです。

エリカは内心小首を傾げました。何か、溜息つかせるようなことしたかな、と。

そんな彼女の心情などお構いなしに、彼が囁きました。

「これ飲んで、君はさっさと寝なさい。

 あとは私がやっておくから」

「でも」

「エリカ」

咄嗟に反論。でも、熊の声には勝てないようで。

彼女は肩を落として、仕方なく頷きました。というか、そうしないといけない空気になっているのを、ひしひしと感じたのです。

彼女が頷くのを見て頬を緩めたクレイグは、額から手を離しました。そして、その手を今度は頭に乗せました。


「うん。いい子だね」

何度目になるか分からないぽふぽふをしたクレイグは、頬を緩めて言いました。









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