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小鳥の刺繡糸 8









顔から色のなくなった彼は、まるで別人のようでした。

夢中で靴を作ったあとのお茶に「ありがとう」と言ってくれた時の顔も、「ばかだな」と言って頭を撫でてくれた時の顔も、全部が幻だったのかと思うほど。



「わた、私も、クレイグさんみたいに恩返し、しますっ」

俯いたまま、エリカは早口で捲し立てました。クレイグの熊のような腕に、一生懸命しがみついて。

だって悲しかったのです。何が彼をこんなふうにさせるのか、それを想像しようとした途端に、体が勝手に動いていました。

「先生が、話を聞いてくれて、だから今度は、私が……っ」

エリカは懸命に訴えました。でもクレイグは何も言いません。

もしかして、呆れているのでしょうか。それとも怒っているのでしょうか。いえ、厚かましいことを口走って軽蔑されているのかも……。


彼がどんな顔をしているのか分からなくて不安になった彼女は、恐る恐る顔を上げました。それでも、がっしりした腕から手を離さずに。

「え……と……」

ゆっくり上げた視線がクレイグの顔を捉えた瞬間に、エリカは思わず声を零してしまいました。彼の瞳が静かに、自分を見下ろしていたことに気づいたのです。

「あ、あああの……っ」

急に鼓動が速くなってきました。どくどくどく、と耳元で鳴っているような感じがします。怖い、でもこれに負けてはいけない、と思いました。

それなのに、何か喋らないと、と構えれば構えるほど、喉の奥で声が詰まったようになってしまいます。言いたいことはそれほど多くないはずなのに。

もどかしい気持ちでいっぱいになったエリカは、再び視線を落としました。

その時です。

それまで黙りこくっていたクレイグが、そっと声をかけました。


「――――エリカは……」

その声が耳に入った瞬間、エリカは、はっとして顔を上げました。そして、目に映ったクレイグの顔を見て、息を飲みました。

その表情が、ほんの少し色を取り戻していたからです。

「君は、不思議な子だな。

 ……吐き出してもいいのかと、勘違いしそうになる」

まるで独白のようでした。

わずかに眉根を寄せて、口角を下げて。コニーに小言をくれる時のように。

「ご、ごめんなさい……」

なんとなく責められているような気持ちになったエリカは、咄嗟に謝っていました。

「ん、いや……そういうつもりじゃ……」

困った顔で呟いたクレイグは、溜息をつきました。どうにも、エリカを前にすると調子が狂ってしまう気がして。

「……汚い言葉を聞かせてしまって、すまなかったね」

「汚くなんか……あっ」

即座に言い返したエリカは、慌てて手を離しました。長いこと彼の腕を掴んだままだったことに、今になって気がついたのです。

「ごめんなさい……!」

力の限りにしがみついたので、彼のシャツに皺が寄ってしまいました。それに、少し湿っているような気もします。エリカの手が汗を掻いていたのでしょう。


もう嫌われただろうな、と思った彼女は、彼から少し離れることにしました。

「えっと、あの、気にしないで下さい。

 私も汚い言葉、遣ったことありますし……」

一歩、二歩。足を前に出しました。

コツ、コツ。ヒールが音を立てます。

初夏の夜は、まだ虫の音も聴こえてきません。

静かな通りで、エリカは独り言のように呟きました。

「引き取られた家で、最初は可愛がってもらっていたんですよ。

 だけど母のおなかには、もう弟がいて。私は練習用だったんですって。

 それなら男の子をもらえば良かったのに、って思いますよね。

 女の子なら、他の商家との繋がりを作れるから、って言われました。

 そのために育ててやってるんだ、って」

ふふ、とそっと笑みを零して、エリカは続けました。

「だから使用人と同じことをさせて、花嫁修業させてるんだ、って。

 いつか大きな商家の跡取りと結婚させるため――――だそうです」


「……教会に戻ることは、考えなかったのかい?」

少し後ろを歩いているクレイグが、エリカの背中に問いかけました。凛とした背中は、振り返る気配もなく歩いています。

「父や母の態度が変わってきた頃に、手紙を書きました。

 でも教母は……多大な寄付をいただいているから、と……。

 もともと、気に入らないことがあると、子どもを叩いたりする人でしたし」

「金で売られたのか」

静かな声に、怒りの気配が混じりました。

やっぱり子どもを持つ父とはしては、そんな境遇の子どもがいることを良くは思えません。何が出来るというわけではありませんし、片親の子や孤児が珍しくない世の中だとしても、それをなんとも思わないほど薄情ではないのです。


エリカは背後で声を殺したクレイグに気づいて、笑みを浮かべました。

「帰るところもなくなって、一生懸命いろんなことを覚えました。

 それからしばらくしたら、家庭教師がつけられることになったんです。

 先生は何回か授業をしてくれたある日、突然私のことを抱きしめてきて。

 “ひとりで、よく頑張ったね”って。頭を撫でてくれて。

 あったかいな、と思ったら、涙が止まらなくなってしまって。

 声が枯れるまで泣いて、憎い、っていう気持ちが何かを知りました。

 ……辛抱強く話を聞いてくれた先生は、次の日から来なくなりましたけど」

「養父母が、辞めさせた……?」

「さあ……どうでしょうね……」

クレイグの言葉に、エリカはわずかに小首を傾げました。

彼は、そんなエリカの背中に向かって言いました。

「よく頑張ったね、エリカ」


矢のように突き刺さった優しい言葉に、エリカは鼻の奥がつんと痛くなるのを感じて息を吐き出しました。ぷっくりと涙が浮かんでくるのを、なんとか堪えようと視線を上に向けます。

そして、そっと後ろを振り返りました。

すると眠りこけるコニーを抱いたクレイグが、エリカの知っている表情を浮かべて立っていました。

目が合った彼女は、迷わず口を開きました。

「クレイグさんだって、ずっと頑張ってきたんでしょう?」


クレイグは、慰めるつもりで言った言葉がそのまま自分に向けられて戸惑いました。長いこと自分が言うことはあっても、言われることのなかった言葉です。

「だから……」

言いながら、エリカが戻ってきました。ほんの数歩の距離ですが、地面を踏みしめるようにして歩いてきます。

そして、彼女はクレイグの目の前に立って言いました。

「今度は私が、誰かが苦しいのを聞いてあげられたら、と思って……。

 けど……」

彼女が目を伏せました。やっぱり彼が苦しい何かを分かち合うのは、私じゃダメなんだろうな……と。

長いまつげが、ふるりと震えるのを見たクレイグは呟くように言いました。気が付いたら、口が勝手に動いていたのです。

「歩きながら、聞いてくれるかな」

エリカはその言葉に目を瞠ったあと、頷きました。

「……もちろんです。私でよければ」



「実は私も、家出して帝都にやって来たんだよ」

ひと言目から、エリカは驚きました。まさかクレイグも、家出人だったなんて。

呆気にとられて何も言えない彼女をそのままに、彼は続けます。

「それなりの商家でね、まあ、私が継ぐんだろうな、と思っていたんだ。

 姉は遠く離れた土地へ嫁いで行ったし……。

 だから、結婚だけは自分の選んだ人と、と父に告げたら怒りを買った。

 商売の利につながらない結婚は許さん、親不孝、とまで言われて。

 それがキッカケで、駆け落ちしてきたというわけ」

「かけおち……?」

エリカは小首を傾げました。

クレイグが少し考える素振りを見せてから言いました。

「家も親も何もかもを捨てて、恋人と遠くに逃げること、かな」

そう言いながら、彼は自嘲気味に笑いました。

「まあ、駆け落ちなんて勢いだけでするものじゃないね。

 あの頃は若かったから、何も怖くなかったのかも知れないけど」

「……後悔、してるんですか」

なんだか投げやりな口調が気になって、エリカはそっと問いかけました。

するとクレイグが、溜息まじりに言います。

「してるけど、してないよ」

その答えの意味が分からないまま彼女が黙っていると、彼は眠りこけるコニーを抱き直して口を開きました。小さな口から、むにゃむにゃと声が零れ落ちます。


「あの時駆け落ちしたから、私はコニーに会えたんだ。

 この子がいない人生なんて、もうどうやっても想像出来ない。

 だから、後悔してるのは、自分の浅はかさに対して、かな。

 ……コニーが生まれて、昼も夜もなく働いていたんだけど……」

そこまで言って、クレイグは溜息まじりに言葉を濁しました。その視線は、どこか遠くを見つめているように見えます。

エリカは、彼の口から出てくる言葉を静かに待っていました。

通りには2人の靴音が規則正しく響いています。

「私は働くばかりで、ひとりで子育てをしている彼女の話を聞く暇もなくて。

 コニーにも、全然構う余裕がなかった。

 でも働かなければ食べていけない、半日でも休んだら仕事はクビだ。

 ……だから仕方ない、なんて言い訳かも知れないけど……。

 あの時の私には、他にどうしようもなかった。体は一つしかないし」

「忙しかったんですね」

「そりゃあもう……。

 低賃金の長時間労働をしていたからね。

 もともと商家を継ぐための勉強ばかりしてた私には、結構堪えたよ」

相槌を打ったエリカに、クレイグが頷きました。そして、眉根を寄せて続けました。

「……そんな日が、1年くらい続いたのかな。

 ある日家に帰ったら、コニーがベッドの真ん中でぎゃんぎゃん泣いていて。

 彼女は、いなかった」

「いなかった……」

いまいち理解出来なくて、エリカは唸るように呟きました。

すると、クレイグが顔を歪めて言いました。

「出て行ったんだ。テーブルに、書置きがあった。

 “もう疲れた”“好きな人のところに行く”みたいなことが書いてあった。

 ……すぐ燃やしてしまったから、うろ覚えだけど」


「じゃあ、コニーのお母さんは生きて……?」

エリカは、小さな声でぽつりと呟きました。

そして、クレイグの腕の中で寝息を立てているコニーの寝顔を見つめました。ぐっすり寝入っているようにしか見えませんが、賢い彼女が何かを察知して……なんてことも、起こらないとも限りません。

コニーがまだ夢の中にいるのを確認して、エリカはクレイグの顔を見上げました。

「どうだろう……。

 何も音沙汰がないから分からないけど、おそらくね。

 どちらにしろ、もう私たち親子には関係のない人間だよ。

 あの日、コニーの母親は死んだんだ」

エリカはそう言った彼の顔を見て、かける言葉を見失いました。

表情をなくした彼の顔は、かえって痛々しくて。失ったのではなく、捨てられたのだと自覚するのは辛いものだと、彼女は知っています。

たくさん泣いて、憎んで、絶望して、ようやく生きようと思えたのです。それくらいのことを、隣を歩くクレイグもしたのでしょうか。


考えに考えて、エリカは手を伸ばしました。それは、かの先生が言葉で伝えきれないものを伝えようとして、彼女にしてくれたこと。

「え、エリカ……?」

遠慮がちに腕に触れた手に気づいて、クレイグは戸惑いました。

木型を削ったり革を縫い合わせたり、力仕事ばかりしている腕に華奢な手の感触が伝わり、なんともいえない緊張感に包まれて。

あっという間に、それまで胸の中に渦巻いていたドロドロした気持ちがどこかにいってしまいました。気にならなくなるほど、彼女に触れられたことに動揺していました。

だけど彼女の手は、彼の腕に触れたまま離れようとしません。それどころか、寄り添って彼の顔を見つめてきます。

「……私、いろいろ知らないこと多くて。

 だから、こういう時どう言ったらいいのか、分からないし……」

彼女の眉が、困ったように八の字に下がっていきした。

クレイグはその表情を見て、背中がむず痒くなるのを感じました。

家に辿り着くまで、絶対に立ち止まってはいけない気がします。今まっすぐに彼女の瞳を覗き込んだら、自分の中の何かが吸い込まれてしまいそうです。

そんなことをぼんやり考えていた彼に、エリカは言いました。

「体が小さいから、クレイグさんのことも抱きしめられないし……だけど、

 靴屋さんにいる間は、私も一緒に頑張りますから……!」


そこまで聞いて、クレイグはようやくエリカのしたいことが分かった気がしました。

この腕に触れた華奢な手は、本当は自分を抱きしめているつもりで。おそらく、慰めてくれているのだろう、と。

話したところで、どうせ過ぎたことだし、エリカには分からない大人の事情だ、と思っていました。だけど、それは大変な思い違いだったようです。

ボロボロの靴を履いていた世間知らずの家出娘の手ひとつで、自分が頬を緩めてしまうなんて、思ってもみませんでした。


クレイグは、コニーを片手で抱き上げました。

体の位置がずれたのが嫌だったのか、小さな口からは「むぅー……」とよく分からない声が零れ落ちます。

その声に、コニーが起きた!……と慌てたエリカは、ぱっと手を離しました。

けれど、すぐにその手が捕まります。大きな、熊のような手に。

「クレイグさん……?」

突然のことに呆然と名前を呼んだエリカを一瞥して、クレイグは前を見据えました。

繋いだ手に、きゅっと力を入れて。

コニーは片手の抱っこに変わっても、すやすやと寝息を立てています。


「エリカ」

短く、ぽつりと呼ぶ声。

彼女はすぐに、口を開きました。

「はい」

条件反射です。呼ばれるたびに、何か用事を言いつけられてきた彼女の、半ば職業病のようなもの。

それを小さく笑った彼は、前を向いたまま言いました。頬のあたりに、彼女の視線がちくちく刺さっているのを感じながら。

「ありがとう」

さらりと放たれた言葉に滲む感情を読み取ったエリカは、ふるふると首を振りました。なんとなく、言葉を並べるのはやめておこうと思ったのです。

「それから」

クレイグが、もう一度口を開きました。


「刺繍、がんばれ。

 エリカなら、きっといいものが出来るよ」

そう言った彼は、手にきゅっと力を込めたのでした。









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