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小鳥の刺繡糸 7








木綿のハンカチは、最初のひと針を吸い込むように通しました。

自然のままの優しい色に、青い糸がとてもよく映えています。


幸いなことに各テーブルに大きなランプが置かれているので、手元はくっきりと照らされています。

エリカはコニーの視線のくすぐったさに笑みを零しながら、ゆっくり丁寧に針を刺して、小鳥の輪郭を作っていきます。

彼女が口を閉じたままだからなのか、コニーも何も言いません。でも時折、感嘆めいた吐息が漏れる気配がしました。


そうして、まず小鳥の頭が出来上がりました。といっても、ほとんどただの円なのですが、コニーはそれだけでも目を輝かせています。

エリカがいったん顔を上げて息継ぎでもするかのように、息を吐き出しました。

するとコニーは、今だ、とばかりに囁きます。なぜだか、小さな声でこそこそ喋らないといけないような気がしたのです。

「これ、あたまでしょ?

 つぎは?」

もちろんエリカも声を落としました。

「次はね、おなかのところ」

言いながら、次のひと針を刺します。

コニーはまた固唾を飲んで、青い糸がハンカチに小鳥を描いていく様子を見つめました。





小さなハサミで糸を切って、エリカは全身から力を抜きました。

なんだか肩がゴリゴリします。目も、しょぼしょぼです。何度か瞬きをしてみたら、それまで乾いていた瞳に涙が沁みて痛くなりました。深呼吸すれば、ぽきぽき、と小枝の折れるような音が。

そこでようやく、いつの間にか熱中してしまったようだ、と気づきました。

ハンカチには羽ばたく青い小鳥と、タンポポの花がいくつか刺繍されています。本当は茎や葉も、と思ったのですが、こんなに綺麗な色の糸は高価であるに決まっているので、緑色の糸は使わずにとっておくことにしたのです。幸い、黄色の糸ならクレイグの家にいくらかあります。もちろん、ここにある黄色の糸よりも質はだいぶ劣ってしまいますが。


そういえば、とエリカは隣に視線を投げました。あれだけ出来上がりを楽しみにしてくれていたコニーに、刺繍の出来栄えを見てもらおうと思ったのです。

「……あ」

ところが、ちらりと横を見た彼女の口から声が零れ落ちました。

こくり、こくり、と小さな頭が前に後ろにグラグラ動いているのです。どちらにも倒れないよう、無意識にバランスをとっているようですが、このままではいつテーブルにおでこをぶつけるか分かりません。

エリカは慌てて裁縫道具を片付けて、テーブルの端に寄せました。

そして船を漕いでいるコニーを、そっと寝かせてやりました。わずかに身を捩った彼女が、目を覚ます気配はありません。


ほぅ、とひと息ついたエリカは、すっかり冷めてしまったお茶を口に含みました。飲み干せば、だんだんと頭がスッキリしてきたような気がします。

そこで、改めて自分の施した刺繍を見てみることにしました。

夢中で刺してしまったから、どこか緩いところがあるんじゃないか。撫でたら引っかかるところがあるんじゃないか。

気になるところを、入念にチェックして。

「……大丈夫、かな」


どうして彼女が真剣に刺繍をしていたのか、というと。

彼女が用意してくれた仕事は、店にある品物に刺繍を施すことだったのです。彼女が編むレースだけでは物足りないから、とひらめいたそうで。

そこでコニーに店で品物を選ばせ、それに自由に刺繍をして見せる、というはこびになったわけですが……。

いかんせんコニーの薄くなった靴下をなんとかするのとは、わけが違うのです。これはジーナから渡された、試験のようなもの。刺繍を施したものが商品として認められなければ、エリカの刺繍は必要ありません。

まずはコニーの希望通りのものを、と頑張ってみましたが、果たしてこれをジーナが認めてくれるかどうか……。だからせめて、緩みや皺が出来ていないか、と入念に出来栄えを確認していたのです。


とりあえず、人様に見せられる程度には出来ているようです。エリカはほっとして、肩から力を抜きました。

その時です。

ふいに、横から声がかかりました。


「――――おまたせ」

座っているからなのか、それともテーブルの上に置かれたランプの光が、下からその顔を照らしているからなのか。エリカには、クレイグがいつもよりも大きく見えました。

「……あ」

ほんの一瞬ぼんやりした彼女は、はたと我に返って言いました。

「お疲れさまです」

「うん」

頷いたクレイグが、向かいの席に滑り込んできます。

それを見たエリカは、とっさに尋ねました。

「あれ、まだお話が残ってるんですか?」

「いいや、ジーナさんが少し君と話したいそうだから。

 ……刺繍のことでね」

頬杖をついたクレイグは、ちょっとだけ目を細めてエリカを見つめました。


まるで針のようにチクチクした口調で言われて、彼女は思わず俯きました。やっぱりクレイグは、知らないところで話が出ていたことに気分を害したようです。ジーナから「まだ言わないでね」と念押しされていたとはいえ、ものすごい罪悪感が襲ってきます。

お世話になっている身だとはいえ、決してクレイグの許可を得なければジーナの誘いに頷いてはならない、というわけではないはずです。だから、もし今彼が怒っているのだとしたら、それは理不尽なことなのだということに、エリカはまだ気づいていないようです。


「黙っていて、ごめんなさい」

彼女がぽつりと呟くと、向かいから溜息が聴こえてきました。

ああやっぱり怒ってるんだ……そう思ったエリカは、ふと視線を上げました。そして、思わず息を飲みました。

怒っていると思い込んでいたクレイグが、困ったように微笑んでいるのです。ほんの少し、悲しそうでもあります。

彼は、静かに首を振りました。

「いや、別に怒ってるわけじゃないんだよ。

 まあその、水くさいな、とは思ったけど……」

「みずくさい……?」

エリカは咄嗟に、グラスに残っていたお冷に鼻を寄せました。そして、すんすんと匂いを嗅いでみました。

その瞬間、クレイグが噴き出しました。ぶほ、と。

「君って子は本当に……!」


エリカはそんな彼の様子を見て、呆然としてしまいました。普段感情の起伏がそれほど激しくない彼が、こんなふうに表情を変えるなんて。


ひとしきり笑った彼は、呆然としているエリカに向かって言いました。

「水くさい、っていうのは……そうだな……。

 エリカの口から聞きたかった、って言いたかったんだけど」

言葉の意味を改めて考えながら噛み砕いて説明して、彼はなんだか不思議な気持ちになりました。自分の中にそんな感情が芽生えていたことが、ちょっと意外だったのです。

内心信じられない思いでしたが、口にした言葉に嘘はありません。クレイグは曖昧な笑みを浮かべて、エリカを見遣りました。

「最初に言ったけど、別に使用人が欲しいわけじゃないんだよ。

 私たちがじいさんから受けた恩を、君に返してるだけなんだ。勝手にね。

 だから、君が私に謝る必要はない。

 ……好きな仕事を、好きな場所ですればいい。せっかく家を出たんだから」

そんなことを言われたエリカは、少し悲しくなって俯きました。なんだか突き放されたような気持ちになったのです。

テーブルを挟んで座っているだけなのに、クレイグがものすごく遠くに感じます。数時間前には“自立しよう”と思ったはずでした。でも相手の方から線を引かれて距離を置かれてしまうと、やるせない気持ちになります。

気持ちが波立ったエリカは、どんな言葉を返せばいいのか分からなくなりました。


その時、楽しそうに弾む女性の声が響きました。

「――――あら困ったわ。

 仕事場なんて用意するつもりはありませんけれど」

おほほほ、と口元を押さえて笑うジーナが、二人の目の前に立っています。

「どういうことだ?」

ぽかん、とするエリカをそのままに、クレイグが表情を険しくして言いました。

ところが、ジーナは笑みを浮かべて彼の視線を受け止めています。

「仕事は用意するつもりです。言ったでしょう?

 だけど場所は用意出来ないから、内職、ってことになるのかしら。

 ……ごめんなさいね、エリカさん」

肩を竦めた彼女の言葉に、エリカは曖昧に頷きました。正直なところ、彼女の言っていることの意味が分かりかねていたのです。

「は、はぁ……え、っと……」

それって、どういうことなんでしょうか。

そう言おうとしたところで、クレイグが言いました。

「つまり、君は仕事を得はしたけれど、家はない、ってことだ。

 どうやら住み込みという条件ではないらしいよ」

「えぇ……っ?!」

エリカ、顔面蒼白です。

てっきり住む場所もついてくると思っていたのです。職業紹介所でもらった求人票は、だいたいが寮つきの仕事でしたから。

けれどそんな彼女を見たジーナは、テーブルの上に置いてあった木綿のハンカチを一瞥してから言いました。

「可愛らしい刺繍ね。

 それじゃあ、あと2つ……ワンピースとショールだったかしら。

 自由に刺繍して、出来上がったら店に持ってきて頂戴。

 賃金に関しては……そうね、出来上がりを見てから決めましょう」

そう言った彼女は呆然としているエリカに苦笑して、クレイグに視線を移しました。

「仕入れたい靴はさっきのお話の通りです。

 明日のお昼頃に使いの者を寄越しますから、預けていただければ」

「ああ……」

彼が溜息混じりに頷くのを見て、ジーナはコニーの頭を、そっと撫でました。そして、すやすや眠っている彼女に向かって囁きました。

「コニーさんも、今日はありがとう。

 あなたのおかげで、いろいろと上手くまとまったわ」







初夏とはいえ、朝晩はそれなりに涼しくなります。

エリカは外に出た途端に風に頬を撫でられて、思わず身震いしました。だんだんと頭の中が冷えていくようです。

「寒い?」

何気ないクレイグの言葉に、エリカは首を振りました。そして、彼の顔を見上げて言いました。

「……コニー、起きませんね」

「ああ、まあ……疲れてるのかな。こんな時間だしね。

 ちょっと飲みすぎたかな……。

 あの人が意外と話せる人だったから、つい我を忘れてしまって」

熊のようにがっしりした腕で娘を抱っこしたまま、彼は苦笑混じりに肩を竦めました。

もう夜も更けて、通りにはほとんど人の姿がありません。クレイグの大股な靴音と、エリカの少し速めの靴音が交互に響いています。


ふいに、クレイグが口を開きました。

「それにしても、エリカが刺繍が得意だったなんて知らなかったよ」

エリカは突然そんなことを言われて、少し慌てて手を振りました。

「得意だなんて、そんなことないです。

 昔からやっているし、苦にならないっていうだけで……」

「でもあのハンカチ、結構な出来だったじゃないか」

褒め言葉には、あんまり慣れていないのです。エリカはあわあわしながら、別の話題を、と口を開きました。

「わ、私だって、クレイグさんがお酒を飲むなんて知りませんでした」

すると彼がくすくす笑いだしました。抱っこされて彼の肩に顎をのせていたコニーの口から、唸るような吐息が漏れます。

「そうかい?

 ハンスが店に顔を出した時に言ってなかった?」

「あ……そ、そうでしたっけ……?」

「普段は控えてるんだ。

 何かあった時にコニーを守れるのは、私しかいないから」

そう言って、クレイグは寂しそうな笑みを浮かべました。

その雰囲気がなんだか居たたまれなくて、つい、エリカは口を滑らせました。

「その……奥さんのこと――――」

言いかけて、エリカは頭の中が真っ白になりました。そして思わず息を飲みました。

何を言おうとしてるんだろう。絶対に触れてはいけない場所に触れてしまった。

そんな恐ろしいことを仕出かした自覚で、手が震え始めました。

エリカは必死に、「ごめんなさい」と言おうと口を開きました。


ところが、彼女の言葉が発せられるよりも早く。

「彼女のことは、もういいんだ」

真っ白になった頭の中に、クレイグの声が響きました。

咄嗟にその顔を仰ぎ見たエリカは、言葉を失いました。感じた違和感に、自分の失言を一瞬忘れそうになったのです。

彼の顔に浮かんでいるのは、亡き妻を想うが故の、という表情ではありませんでした。なんというか、真っ白でした。何の感慨もない、無の表情。

エリカは、彼の悲しみはもう枯れ果ててしまったんだ、と思いました。

「あんな女は、コニーの母親なんかじゃない」

彼女は絶句しました。

自分がした失言なんて、霞んで消えてしまうほどの衝撃的な言葉でした。だけど何よりも衝撃的だったのは、何の表情も浮かばない彼の顔で。


クレイグはわずかに眉根を寄せて、何かに耐えるようにして吐き捨てた言葉に激しく後悔していました。だって、まさかほろ酔い程度の自分の口から、誰にも言わずにいたセリフが飛び出してくるなんて。まったく思いもしなかったのです。

どうして今。どうして、胸の奥底にしまっておいたのに……。


腕の中のコニーが身じろぎして、重みを増しました。

「……すまない。

 今のは、聞かなかったことにしてくれないか」

彼はすぐに言いました。早口で、そうでもしなければ恨みつらみが連なって止まらなくなってしまいそうで。

「早くかえ――――」


クレイグが視線を前に投げた、その瞬間。

エリカの手が、彼の熊のようながっしりした腕を掴んでいました。

強く、しっかりと。

彼女は彼の腕にしがみつくようにして、顔を伏せています。だから、彼からはその表情は見えませんでした。

「つ、辛かったの、そのままにしてたらダメだって、先生に言われました。

 だから私で良かったら、その、お話くらいは……っ。

 何も出来ないけど、聴くくらいは……で、出来ませんか……」


ぼそぼそと、でも必死になって、エリカは言いました。









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