小鳥の刺繡糸 5
何かをひらめいたり、やってみたいことがあると、コニーはそこへ向かって猪突猛進な子どもで。そういうところは、父親のクレイグが靴作りに没頭してしまうところと良く似ている気がする……というのは、ここ数日でエリカが気づいたこと。
興奮気味に「ココにことりさんで、こっちにはタンポポで……!」と捲し立てるコニーと、それを宥めるエリカの攻防を眺めながら考えを巡らせていたジーナは、ぱむ、と手を叩きました。
「ねぇ、コニーさん」
唇の端を持ち上げた彼女は、手を叩く音に思わず口を閉じたコニーに尋ねました。
「……うん?」
いいことひらめいた!……と最高潮に盛り上がっていた気分が落ち着いたのか、彼女は小首を傾げてジーナを見つめます。
するとジーナは、きょとん、としているコニーに言いました。笑みを浮かべて。
「そのハンカチ、あなたに差し上げるわ」
「えぇっ?!」
さらりと放たれた台詞に驚いたのは、そばにいたエリカでした。彼女は思わず声を上げて、手をぶんぶん振りました。
「でもあのっ、これって売り物……!」
コニーには、“気に入ったものがあったら言ってね”とだけ伝えてありました。靴を売って得たお金がまだ手元に残っているので、それで何か買ってあげるつもりで。
もちろん昨日“仲間外れにされた”と思ったコニーが拗ねてしまったことが発端なのですが……。
「わぁぁっ、おねえさんありがとー!
さっきはおばちゃん、って言ってゴメンナサイ!」
エリカがあわあわと言葉を紡いでいる横で、コニーが早口で捲し立てます。しかもドサクサに紛れて謝りつつ、魔法の言葉を使って。嬉しさのあまり飛び出た言葉のせいかお世辞は上滑り、謝罪には誠意が欠片も感じられません。
クレイグがたまに頭を抱える理由を理解出来たような気がしたエリカでしたが、とにかく今はコニーの口を塞ぐよりも先にジーナに謝るべきだ、と思って口を開きます。
ところがエリカが謝るよりも早く、ジーナが言いました。
「それはもういいわ。
ところでエリカさん」
「はっ、はい!」
特に声を荒げるでもなく、けれどその目は、やんわり細められています。
きっと大人である自分が怒られるんだ、と直感したエリカは、直立不動になって返事をしました。けれど、聴こえてきたのは予想とは違うもの。
「あなた、刺繡がお得意なの?
それとも、刺繡がお好きなの?」
「へ……」
エリカは虚を突かれて、ぽかんとしてしまいました。
隣では、コニーがこくこく頷いています。
「すごいんだよ、エリカちゃん。
くつしたとかシャツのあなに、かわいいのつけてくれるの」
そう言った彼女が、棒立ちになっているエリカの手に掴まって、片方の靴を脱ぎました。そして、靴下の踵の部分を指差しました。
「ほら」
ベージュ色の生地に、オレンジ色と黄色の糸でヒマワリのような花が刺繡されています。靴ずれなのか、それとも歩き方の癖なのか、コニーの靴下は片方の足の踵の部分が何度も履くうちに薄くなってきてしまうのです。それで、エリカは試しに刺繡をしてみたわけです。
それを見たジーナは、ふむ、と感心しているような、相槌でも打っているかのような吐息を漏らしました。
「ね?
かわいいでしょ~」
コニーが小首を傾げました。短めのポニーテールが揺れています。
「ちょっとコニー……!」
エリカは穴があったら入りたい気分で、内心天を仰ぎました。自らレースを編んで、それを商品にして売っているような彼女に、素人同然の自分の刺繡を見せるなんて。
そんな気持ちを込めて、彼女が小声でコニーを呼びました。彼女は続けて、もう靴を履いて、と言うつもりでした。
するとその時、刺繡を検分するように見つめていたジーナが唐突に言いました。
「コニーさん、お願いがあるの」
「うん、いいよ?」
空のように青い瞳に向かって、コニーが頷きます。
「このハンカチは差し上げるわね。
でもそれとは別に、あと2つ、この店の物から選んでくれないかしら。
エリカさんの刺繡を入れたい物を」
「わぁ……っ」
その言葉に、コニーが目を輝かせました。けれど同時に、エリカが声を上げました。
「えええっ?!」
エリカは声を上げた勢いのまま、ちょっと待って、とコニーに言おうとしました。だけどもう、そこに彼女の姿はなく……。
「あ、あれっ?」
いつの間に靴を履いたのか、コニーは店内を物色し始めました。鼻歌混じりに靴下やショール、ワンピースを広げていきます。
「コニー?!」
コニーが好き勝手したら、きっと品物を片付けるのが大変になってしまいます。彼女は決して、使った物をやりっ放しにしたりする子ではありません。どちらかというと、きちんとした子です。
それは分かっていますが、エリカはこの光景を見たクレイグが何と言うかを想像してみて、やっぱり止めようと思ったのでした。
ところが、ジーナが言いました。
「いいのよ、コニーさんに選んでもらいたいの」
出鼻を挫かれたエリカは、ぐっと言葉を喉の奥に押し留めました。空のような青い瞳が、楽しそうに細められているのを見てしまったからです。
この人はいったい何を考えてるの……そう思いました。
「――――ところでエリカさん。
あなたに仕事の世話をすることが出来る、と言ったの、覚えていて?」
ふいに話しかけられて、ぼんやりしていたエリカは戸惑ってしまいました。しかも突然、仕事の話だなんて。
「……え……?」
気づいた時には、口が勝手に声を発していました。
するとジーナが、そんなエリカを見て小さく噴き出しました。そして困ったような顔をして微笑んだ彼女は、呆然としているエリカの顔を覗き込みます。
「興味があるように見えたけれど、気のせいだったのかしら」
悪戯っぽく細められた瞳が真っ黒な瞳を捉えた瞬間、エリカが我に返りました。彼女の手が、ぐっと握りこぶしを作ります。
「しょっ、紹介していただけるんですか?!」
噛みつくような勢いで尋ねると、ジーナは笑いながら頷きました。
少し離れたところでコニーが「わたしのじゃなくてもいいのー?!」と叫んだので、ジーナが指で“可”の合図を送ります。
コニーが張り切って好きなものを選んでいるので、まるで店内で一戦交えたかのような状態に。一応手に取ったものは、それなりに畳んで積んであるようなのですが……。
そしてその惨状を前に、エリカの脳裏を一抹の不安が掠めたのでした。
まさかこれを片付けるのが仕事、とか言われないよね……と。
「え、私も行くんですか?」
エリカは目をまんまるくして言いました。
帰って来て、さあお夕飯の支度を!……と意気込んだ刹那のことでした。仕事をひと段落させたクレイグが、「エリカとコニーも」と宣言したのです。もちろんキャベツ亭へ、です。
約束通り、帰りに綿飴屋さんに寄ってご機嫌なコニーは、手を洗いにバスルームに駆けて行ったところです。
「だって……いいんですか?」
商談をしに行くはずなのです。そういう趣旨の伝言を頼まれたのですから、間違いありません。それなのに、子どもと居候が一緒に行っても大丈夫なのでしょうか。
眉をひそめたエリカに言われて、クレイグは溜息をつきました。みるみるうちに、その眉間にしわが集まってきます。
「……いいに決まってる」
今ちょっと迷いませんでしたか、と言いかけたエリカは慌てて口を噤みました。クレイグが本当に困っているように見えたからです。
「それに、君とコニーを2人きりで家に置いておくのは心配だから」
「うーん……じゃあ、コニーだけを連れて行ったらどうでしょう」
居候は居候らしく、家で待っていよう。外食について行くなんて……そう思ったエリカの言葉を聞くなり、クレイグの声がものすごく低くなりました。
「論外だ」
エリカを1人で家に残すだなんて、そんな危ないことが出来るわけがありません。それならいっそ3人とも出かけて、空き巣にでも入られた方がましです。
威嚇するような声で短く言い放たれたエリカは、しょんぼり肩を落として頷きました。
そして運悪くその姿だけを見てしまったコニーが、「ケンカしちゃだめーっ」と2人の間に入って来たのでした。
子ども達が家路につく別れの声が、方々から聴こえてきます。クレイグは、それを片方の耳で聞き流しながら歩いていました。後ろからは、手を繋いだエリカとコニーがついてきます。
家を出てすぐに手を差し出したものの、コニーは「きょうはエリカちゃんがいいの」だそうで。父親であるはずの彼は、あっさり振られてしまったのです。
嫌がる素振りはなかったので、きっと家を出る前の“ケンカ云々”が原因ではないはず。きっと昨夜エリカが話してくれた、秘密だというお話のおかげで、2人が仲良くなっただけのこと。ちゃんと一緒にシャワーを浴びてくれたし。大丈夫。
クレイグは、そう思うことにしました。
しばらく歩くと、コニーがこれから行くキャベツ亭について何やら語っているのが聴こえてきます。そして、それにエリカが相槌を打っているのも。
なかなか楽しそうなので、ちょっぴり妬けてしまいます。それに、なんだか切ないような気もします。いつかこんなふうに、いえ、もっとキッパリハッキリ、可愛い娘が手を離れる時が来るのだと思い知らされた気分なのです。
もやもやするものを感じたクレイグは、そっと息を吐き出しました。
そして、この気持ちが重くなる感じは、これからする商談のせいではないんだろうな……なんて。そんなことを思うのでした。
「あっ、ここだよ!」
エリカの手を引くように歩いてきたコニーが、ぴょんぴょん跳ねる勢いで言いました。
立ち止まったクレイグの後ろで、エリカが呟きます。
「なんか、ドキドキする……」
するとドアを開けようとしていた彼が、おもむろに振り返りました。
不思議そうな顔をして見つめられていることに気づいたエリカは、少し迷ってから口を開きました。ここで取り繕っても、きっと意味はないと思ったのです。
「えっと、その……屋敷の外で食事をしたことがなくて。
変なことしちゃったら、教えて下さいね。直しますから……」
そう呟くように言った彼女は、自分がどう見られているのか不安になって俯きました。もういい加減、自分が世間知らずである自覚もあります。
手を繋いだままのコニーが心配そうに彼女の顔を覗き込みました。
「もしかして」
クレイグが言いました。
「だから、1人でも家に残るなんて言ったのかい?」
低いけれど穏やかな声に、エリカの顔が上がります。
けれどその視線は、うろうろと行ったり来たりを繰り返しました。そうではないけれど、それもあったのかも……と思うからです。
もしかしたら、抱えているけれど普段は奥の方に隠している負い目や引け目の類が、“一緒に”という誘い文句に頷くのを拒んだのかも知れません。
エリカが何と答えたらいいのか考えていると、クレイグが、ふ、と吐息を漏らしました。
その気配に、うろうろしていた彼女の視線が彼の顔に戻ってきます。
お互いの視線が絡んだ瞬間に、クレイグが頬を緩めて言いました。
「……ばかだな、エリカは」
そして言葉と一緒に大きな、ふかふかした手がエリカの頭を撫でていきました。ぽふん、するん、と。それを数回繰り返して。
そのやり取りを間近で見ていたコニーは、とっても迷っていました。父親に注意するべきが否か、本気で悩んでいました。
だって、本当は“ばか”は言ってはいけない言葉なのです。そう父親から教えられたのです。一度だけ友達とケンカして言い放った時には、ものすごく怒られたのです。
そういうわけで、父親が間違えたからには、コニーが注意するべきだと思うのです。
たしかに父親は今、エリカに向かって「ばかだな」と言ったのですから。
だけど悩み抜いた結果、コニーは父親を注意するのはやめることにしました。
どういうわけかエリカがほんのり、はにかんでいるように見えたのです。
そして、そんなことよりも、恥ずかしそうに俯いているエリカを抱きしめてあげることの方が、もっともっと大事なことに思えたから。




