小鳥の刺繡糸 3
素晴らしく嫌な予感に、クレイグは思わず口を開きました。
「――――も」
しかし残念ながら彼の声は掻き消され、舞台女優のように通りの良い女性店主の声が響きました。
「あなたを雇わせてくれないかしら!」
もう帰ってくれ、と言いかけたクレイグも、何を言われるのか耳を傾けていたエリカも、一瞬にして硬直してしまいました。
先に我に返って口を開いたのは、クレイグでした。彼は、こめかみを指で揉みながら沈痛な表情を浮かべています。
「ちょっと、待ってくれ。
あなたは一体何を言っているんだろうか」
正直な感想でした。だって、まったくもって理解が追いつかないのです。
この女性店主が最初に話していたのは、“靴の取引をして欲しい”という内容のことだったはずで。それがいつの間にか、“エリカを雇いたい”に変わっているのですから。何をどうしたら、その選択肢が出てくるのでしょう。
当のエリカに至っては、ぽかん、としています。まるで、特大の豆鉄砲を食らった鳩のような顔で。
女性店主は、クレイグの溜息混じりの言葉に大げさなほど頷きました。
「結局わたくしが靴を取り扱わせてもらったところで、クレイグさんには
何も利点がないでしょう?
いえ、靴の代金はお支払いしますけど、そんなの求めてないみたいだし。
だから、ええと……そういえばお名前を伺ってなかったわね」
ここまで独壇場を繰り広げられると、主であるクレイグも疲れ果てたのか、口を挟もうともしなくなっていました。話の通じない相手にひたすら同じことを繰り返しているのは、意外と消耗するものなのです。
「……え、エリカです」
早口に捲し立てた彼女の視線に圧倒されて、エリカは思わず口を開きました。自分の意思とは関係なく、流されるようにして。
ちなみに彼女は、昨日の一件でクレイグが「エリカ」と呼んでいるのを聞いているはずなのですが。きっと、靴のこと以外は記憶の網にかからなかったのでしょう。
「エリカさんね。わたくしのことはジーナと呼んでちょうだい」
呟くような名乗りを聞きとった女性店主……ジーナは、金色の髪をかき上げて話を続けました。
「ええと、エリカさんは最近帝都に出て来たと言っていたでしょう?
頼る人はいるようだけど、今のあなたには仕事が必要ではなくて?」
「そ、れは……」
エリカは言い淀みました。必要かと問われれば、必要に決まっています。
すると、それまで黙っていたクレイグが口を開きました。
「うちに居ればいい、と言ったはずだよ」
彼は、場にそぐわぬ穏やかな声で言いました。そして、エリカが自分で無意識に組んだ両手に、自分の手を重ねました。……ほんの一瞬ではありましたが。
なんとなく、今朝早くにソファの上で小さくなっている姿を思い出したのです。
今までになく優しい顔をしたクレイグの言葉に、エリカはなんとも表現出来ない気持ちになって、ただその顔を見つめました。
そんな2人を眺めて溜息をついたジーナは、自嘲気味に微笑んでいます。
「家庭を守ってる……わけではないのよね?
それなら居場所があるのと世間の役に立つのと、両方必要だと思うけれど。
世馴れしていないお嬢さんのままだと、これからたくさん苦労するわよ。
……わたくしも、そうだったもの」
最後の呟きを聞き逃さなかったクレイグが、首を捻りました。
「……も?」
「ええ。
まあ個人的なことなので、詳しくは控えますけど」
ジーナはそう言うと、肩を竦めてみせました。その目は、追及してくれるなよ、とでも言っているかのようです。
「そういうわけなので、わたくしに靴を取り扱わせていただくお礼に、
エリカさんのお仕事をお世話いたします。
数年後、希望があれば保証人になって転職の手助けもいたします!
商売柄、コネもざくざく。どんな業種でもどんと来い、ですわ!」
おほほほほ、と口元を押さえてふんぞり返らんばかりのジーナの様子に、さすがのクレイグも言葉を失いました。
よく分かりませんが、この女性店主は“自分が頼み込んでいる側”であることを、完全に綺麗さっぱり忘れているようです。もしかしたら、それも元々“世馴れしていないお嬢さん”だったから、なのかも知れませんが……。
そんなことをぼんやりと考えながらクレイグが呆然としていると、それまで黙っていたエリカが口を開きました。
「あの……」
ぼんやりしていたクレイグは、咄嗟にエリカに視線を投げました。何を言う気なんだ、と気が気じゃありません。
彼女の目は、朗々と自分との取引の旨味を語って満足気なジーナを見ています。そして、少しばかり遠慮がちに言いました。
「しっ、仕事って」
「エリカ」
まさか、と思っていたクレイグは、咄嗟に口を挟んでエリカの言葉を遮ります。
一瞬口を噤んだ彼女はすぐに、はっとして言いました。
「……すみません」
そんな2人のやり取りを、ジーナは静かに眺めていました。ちょっとだけ、呆れたような顔をして。そして、職の斡旋をちらつかせてもダメか、と半ば諦め気味に。
だけどこっちにだって意地があるんだから。良いものに出会えたのに、みすみすチャンスを逃すなんてことは出来ない。そう思いながら、彼女は握りこぶしに力を込めます。
するとその時、突然店のドアが勢いよく開きました。
開けられたドアの隙間から、外の通りの喧騒と初夏の空気と、それから元気いっぱいのコニーが入ってきます。
「たっだいま!」
朝出ていった時と、ほとんど変わらないパワフルさに、クレイグもエリカも若干気が遠くなるのを感じました。こちらは特に何もしていないというのに、この消耗具合なのです。
それまで鬱々とするか、ジーナの奔放さに振り回されるか、という空気だった店内が、一気に明るく朗らかになった気がします。
この場の空気にげんなりしていたクレイグは、ほっとしながらコニーに言いました。
「おかえり」
「おかえり、コニー」
あとに続いたエリカと父親に笑みを向けた彼女は、ふと3人目の女性がいることに気が付きました。そして少し考える素振りを見せたあと、形だけの会釈をしました。
“店の中に知らない人がいる時は、お客さんだと思うこと”という、クレイグとの約束があるからです。さあ、お客さんにはご挨拶をしなくては。
「こんにちは!
ゆっくりみてってね、おばちゃん!」
大きな声で、はっきりと。いつもクレイグがお客さんに言っている「ゆっくり……」のくだりも、きちんと言えました。
コニーは、「どうよ?!」と言わんばかりの得意気な顔で、父親を見上げました。鼻の穴も膨らんで、絶対に良いことをした、という確信に満ちています。
だから彼女は、見ていなかったのです。ジーナが途端に、どこぞの祭で使われる化け物の面のような、歪んだ表情を浮かべていた一瞬を。
クレイグもエリカも、コニーのひと言に絶叫しそうになりました。いえ、心の中では「コニーさーん!」と叫んでいました。
なんてこった、と頭を抱えたくなったクレイグは、申し訳ない気持ちの片隅でこう思いました。これでジーナが怒り狂って、店から出て行けばすべて解決するのに……と。
一方のエリカは、あわあわするばかりでコニーを窘めることも出来ずに、ただクレイグを見つめています。代わりに自分が謝る、っていうのもなんか筋違いだし火に油を注ぐような気がする、と思うからです。
2人がそれぞれ考えを巡らせていると。
「――――うふふ」
唐突にジーナが笑みを零しました。それも、かなり恐怖心を煽る微笑みです。
クレイグは、ようやくだ、とこれから起きるであろうことを想像して、あえて何も言わずにいました。
ところがです。
ジーナが言いました。
「これくらい、商売をしてれば誰でも言うわ。全然平気。
……お嬢ちゃん、元気があっていいわね」
言葉の割に傷ついているのは見え見えですが、それでも彼女の言い草にクレイグは絶望してしまいました。これではきっと、怒り狂って退場、という筋書き通りにはいかないでしょうから。
「うん、元気だよ~!」
ジーナに褒められたと思ったコニーは、にこにこしながら言いました。そして、小首を傾げました。どうしてパパとエリカちゃんは、このおばちゃんに靴を取ってあげないんだろう、と。
「おばちゃんは、どんなくつをかいにきたの?」
褒められついでにご用向きを伺うつもりになった彼女に、ジーナは言いました。
「クレイグさんの作る靴を店に置かせて欲しい、ってお願いしてるとこよ。
あなたの履いてる靴も、クレイグさんのよね。ほんと、素晴らしい出来だわ。
……ああ、だから、今日は靴を買いに来たんじゃないのよ」
「そうなんだ~」
分かっているのか、いないのか。ジーナの話に耳を傾けていたコニーは、頷いてクレイグを見上げました。その顔は、ものすごくキラキラしています。
クレイグは、嫌な予感に頬を引き攣らせました。
「パパすごーい!」
「え」
思わず声を零した父親を見ずに、小さな娘がぴょんぴょん跳ねます。
「いっぱいうれるといいね!」
目を輝かせ、明らかに尊敬の眼差しを向けてクレイグの手を握ると、コニーはエリカを見上げました。
もう、クレイグは何も言えそうにありません。
すると、それを見ていたジーナが、ふいに口を開きました。眉根を寄せて、思わせぶりに溜息をついて。
「……でもねぇ……クレイグさんが靴を譲ってくれなくて……。
今回は諦めるしかないかも知れないの。お願いしてるんだけど」
その言葉を聞いた瞬間、コニーの目がつり上がりました。
「パパ」
5歳児の凄む声なんて、エリカはこれまで聞いたことがありません。あんまり癇癪を起さない、我慢強いコニーが低い声で言いました。
「ひとにイジワルしちゃいけない、っていってたでしょ。
こうえんでブランコひとりじめしてたコに、パパいってたよね。
――――イジワルでくつ、あげたくないの、よくないとおもいます」
娘からのお説教に、クレイグは慌てふためきました。
親に何言ってんだ、なんて、そんなことは思いませんでした。いえ、思うだけの余裕もなかったのです。
常日頃口酸っぱくして言い聞かせていることが、こんな形で自分に返ってくるだなんて思いもしませんでしたから。
厳密にいうと、これは意地悪ではないのです。そのつもりです。ただ、女性に関わりたくない、という一心で。
意地悪、だなんて心外な……そう反論出来ればよかったのですが、そうもいきません。5歳の子どもに自分の何を話せというのでしょう。
ともかく、クレイグはコニーのひと言に黙りこくるしかありませんでした。そして、もう自分が頷くしか道がないことを悟ったのでした。
クレイグは、ジーナを一瞥しました。
「条件は、これから話し合いで決めよう。
……もちろん、それ次第で白紙に戻すこともあるけど」
積年、とまではいかないまでも、長いこと粘ったジーナは、両手を組んで飛び上がらんばかりの勢いで頷きました。
その横で、ほっとしたような、ちょっぴり嬉しそうな顔をしているのはエリカです。
彼女もクレイグの靴をいろんな人に履いて欲しい、と思っていました。だって、試作に打ち込むあまり喉の渇きを忘れてしまうほど、クレイグが頑張っているのを知っているのです。
それから実は、取引の条件の中に“仕事の紹介”という項目を作ってくれるよう、お願いしてみようと思っているのでした。




