出会いはベージュの靴と 2
女性はすぐに、事の次第を説明しました。
自分が知らずに大通りの真ん中を歩こうとしていたこと、そこへコニーが駆けてきて、危ないと教えてくれたこと。
「――――だから、迷惑をかけたのは私の方で」
そこまで話した女性は、はたと気づきました。迷惑は、現在進行形で今もおかけしているじゃないですか、と。
「そういうわけなので、あの、ありがとうございました。
じゃあ、ええと、私はこれで……」
慌てた女性は口早に言って軽く頭を下げ、ぱっと踵を返します。そしてその手がドアノブに触れた刹那、男の声とは対照的な高い声が響きました。
「まってまって!」
女性は思わずドアノブにかけた手を引っ込め、振り返りました。すると、コニーがものすごい勢いで飛びついてきました。
「ひゃっ」
驚いた女性の口から、小さな悲鳴が零れました。
見ず知らずの女性に抱きつくなんて、と思った男は娘を諌めようと声を上げます。
「こら、コニー!」
ところが娘は、女性にしがみついて離れようとしません。それどころか、女性を試着用のベンチに座らせてしまいました。
「だから言ったでしょ、パパ!
見てよこのくつ、すんごいボロボロなんだから」
そのひと言に、勢いでベンチに腰掛けてしまった女性は俯きました。自分の靴がボロボロなのは、本当のことです。それでも、こう何度も言われてしまうと自分のみすぼらしさを思い知らされるようで。思いきって帝都にやって来たというのに、心が折れてしまいそうです。
女性は消えてしまいたい気持ちになって、立ち上がろうとしました。
すると、ふいに男が大きな体を丸めるように跪きました。そして、女性がそれに驚いて再びベンチに腰を落とした瞬間、ボロボロになってしまった女性の靴を片方、カポッと脱がせてしまいました。
「……やっぱり」
男は難しい顔をして靴を見つめたあと、素足になって結局動けなくなった女性に言いました。
「この靴、外を歩くためのものじゃないんだけど……」
泣きそうな顔をしている女性に、その言葉がちくりと刺さります。
黙りこんだ女性を見て、男は心の中で溜息をつきました。都合が悪くなると黙りこむのは、結局どの女も同じか……なんて、そんなことを考えながら。
「どーいうイミ?」
コニーが横から言いました。どういうわけか、ふくれっ面です。きっと、自分に分からない大人の会話になりつつあるのを察しているのでしょう。
男はむっすりした娘に、苦笑を浮かべて答えます。
「これはね、コニー。
大きな屋敷の使用人さん達が、絨毯や床を傷つけないように履くんだよ。
……偉い人に怒られないようにね」
「ふぅん」
父親の説明に曖昧な相槌を打ったコニーは、そんなことよりも、と大きな腕をゆっさゆっさと揺さぶります。
「なんでもいいからさ、パパ。
あのくつ、とってきて」
「あのくつ?」
訝しげに娘の顔を覗き込んだ男に、コニーは声を荒げました。ほんとにパパったら、何回言っても分かってくれないんだから!……なんて、少しご立腹なのです。
「だーかーらぁーっ。こないだパパがつくってくれた、わたしのくつ!
あれ、おねえさんにあげることにしたの!」
小さな子どもって怪獣みたい。可愛い。
消え入りたい気持ちで唇を震わせていた女性は、父親の腕をてしてし叩いて喚く女児の口が火を吹く幻覚を見て、ちょっとだけ気持ちが軽くなりました。
男は娘に叩かれて格好を崩し、はぁぁ、と大げさに溜息をつきました。降参、のポーズのおまけつきです。
「わかったよ、わかった。
たしかにパパが言ったんだよね。好きにしていいって。
……まさか本当に、他人に譲渡されるとは思ってなかったけど」
言葉の最後にボソリと付け足して、男はおもむろに立ち上がりました。その傍では、コニーが飛び上がって喜んでいます。こちらは万歳のポーズで。
男が再び店の奥に引っ込んだのを見届けたコニーが、女性の隣に座りました。
「あのね」
鈴を転がすような、というのは、こういう声のことを言うんだな……なんて、そんな感想を抱きつつ、女性はコニーをじっと見つめました。茶色の髪に、光の加減で天使の輪のような艶が出ています。
「わたしがお絵かきしたのを、パパがくつにしてくれたの。
もっと大きくなったら、それはいてお出かけしなさい、って」
「……私にくれたりして、お父さんが悲しまないかな」
父親からのプレゼントを横流しするなんて、よくない。そう言い聞かせるつもりで、女性は言いました。
ところがコニーは、その言葉に首を振ります。
「ううん、いいんだよ。
わたしが、“あげたくなったら、あげてもいいの?”ってきいたら、
“いいよ”って言ってたもん」
「……うーん……」
こともなげに言い切る幼児に、どう太刀打ちしたらいいのか途方に暮れてしまいます。女性は唸って、視線を彷徨わせました。
するとそこへ、店の奥から男が戻ってきました。
男は何も言わずに、女性の足元に靴を置きます。やっぱり娘のために作った靴が他人に履かれるのは、いい気分ではないのでしょう。
それを肌で感じた女性は、どうしたものかと困ってしまいました。横ではコニーが、目をキラキラさせているのです。
「あの、やっぱり私……」
居た堪れなくなった女性は、思わず腰を浮かせようとしました。
その時です。
男がおもむろに靴と、女性の足首を掴みました。そして脱がせた時と同じように、素早く靴を履かせてしまいました。もちろん、反対の足も同じように。
「あ、あのっ、やっぱりこんなこと……っ」
慌てた女性の言葉に、男は何も言いませんでした。ただ、女性の足をぴったり収めた靴を、じっと見つめているだけ。
サイズがどうとか、そういう話ではないのです。同じデザインの靴をいくつも作ることなんて、日常茶飯事です。どちらかといえば、毎回同じように作れなければ職人とはいえません。
男が何も言えずにいたのは、自分の作った靴をこれほど綺麗に履く人物に初めて出会ったからなのでした。
そして不本意にも、ほんの少しだけ心臓が跳ねたからです。
「すっごくステキ!」
ちょっとだけ張り詰めかけた空気をぶち破ったのは、幼い歓声。ぱちぱちと手を叩いたコニーの、無邪気な笑顔でした。
「……ね、パパ!」
嬉しさ満天の笑顔を向けられて、男は思わず呻いてしまいます。同意を求められるなんて、これっぽっちも思っていなかったから。
その反応を見ていた女性はなんだか恥ずかしくなって、着ていたワンピースのポケットに手を突っ込みました。お金を取り出そうと思ったのです。
女性は握った手を広げて、男の目の前に差し出しました。
その瞬間、男の目が点になりました。数枚の銅貨を見て、思考回路がようやくきちんと働き始めたようです。
「……ええと?」
「これじゃ、ダメですか……?」
思わず小首を傾げた男に、女性は俯きました。銅貨を乗せた手のひらが、ふるふると震えてしまっています。
それを見ていたコニーが、目をぱちぱちさせて言いました。
「――――うそ!
おねえさんのお金、これだけ?」
こういう時、子どもというのは割と残酷です。フィルターを通さない、容赦のない言葉をぽろっと放ってくれます。もちろんこの言葉も例外でなく、女性の心をざっくり傷つけてくれました。
「ごめんなさい、私、お金のことよく分からなくて……。
やっぱりこの靴、いただけません」
そう言って、女性は靴を脱ごうと手を伸ばしました。
その時です。店のドアが開いて、子どもが顔を覗かせました。