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小鳥の刺繡糸 2









あんまりびっくりすると、何かが1周して声も出なくなるようで。


試作の靴を履いて店の商品棚に並ぶ売り物の靴たちを布で拭いていたエリカは、驚きのあまりに息を止めたまま、やって来た女性を凝視していました。それこそ、穴が開くんじゃないかというくらい。

頭の中が真っ白で、彼女に何と言えばいいのか分からないのです。

クレイグを呼ぶべきでしょうか。そう思うのに、声が出ません。


どうしようどうしよう、と混乱しきった頭でそう繰り返していると、ふいに女性が小首を傾げました。金色の髪が、さらさらと零れます。

「昨日はどうも」

「……ど――――」

にっこり微笑まれたエリカは、一瞬言葉に詰まってから呟きました。

「どうも……」

動くのは唇だけで、手も足も靴を綺麗に拭いていた時のままです。いえ、手のひらはじんわり汗ばんでいるでしょうか。

自分の手が暑くなっているのを感じたエリカは、革は汗や水に強くないんだ、とクレイグが言っていたのを思い出して、ようやく靴から手を離しました。


女性は、物珍しそうに店の中を見回しています。だけど、どうやら商品棚に並ぶ靴たちを見ているわけではなさそうです。

「ええと……」

エリカは、彼女が呟きながら店の奥に視線を投げたことに気づきました。そして、慌てて声をかけました。クレイグの不機嫌な顔は、あんまり見たくありません。

この金髪の女性は、昨日クレイグに“素晴らしい靴だから、わたくしの店に置きたい。ぜひお宅と取引させて!”と持ちかけて断られているのです。

彼は、コネがどうの、と怒っていました。エリカにはよく分からない話でしたが、彼が相当に嫌悪しているのは見ていて分かっています。


「昨日は親切にしていただいて、ありがとうございました」

いろんなことを考えた結果、とにかくクレイグから遠ざけなくちゃ、とエリカが話しかけると、女性は手をぱたぱたさせて笑みを浮かべました。

「こちらこそ、たくさん買っていただけて嬉しかったわ。

 そのワンピースも、よく似合ってる」

「あ、ありがとうございます……」

さらりと褒められたエリカは、思わずはにかんでしまいました。

すると女性が、小難しい顔をして頷きました。その視線は、エリカの履いている靴に向けられています。

「やっぱりクレイグさんは、素晴らしい感性をお持ちなのね。

 あなたが今履いてる靴とも、よく合ってると思うわ」

「へ……」

世間話をするつもりだったエリカは肩透かしを食らったような気持ちになって、思わず声を零してしまいました。結局話題は、クレイグの作る靴になってしまうようです。


女性はエリカが言葉を失ったことなど露知らず、彼女に詰め寄りました。

「だからね」

エリカは「ひっ」と喉を鳴らして一歩後ずさりします。けれど、女性はエリカが空けたはずの間を詰めて、彼女の手を掴んできました。

がっし、とまるで、逃がさないわよ、と言わんばかりの女性の行動に、エリカは息を飲みました。そういえば昨日も、こんなことが起きたような気がします。

刹那の間にそんなことを考えていると、女性はエリカの目を覗き込んで言いました。

青空のような綺麗な瞳からは、一生懸命さしか伝わってきません。逆に言えば、女性は自分がクレイグから煙たがられたことなど、まったくもって堪えていないようで。

「クレイグさんの作る靴を、わたくしの店に置かせていただきたいの!」

そう言い放った女性の、希望に満ちた表情を見てしまったエリカは絶望に似た気持ちを抱いて、思わず口を開きました。

もうダメです。自分だけでは役不足です。

わなわなと震える、かっさかさに乾いた唇が動きました。

「く……っ、クレイグさぁぁぁん!」




せっかく試作が上手くいって忘れかけていた昨日の出来事を呼び起こされて、クレイグは沈痛な面持ちで溜息をついていました。女性店主が現れてからの数分で、もう数え切れないほど。

理由は簡単です。

店に出て行きたくないのです。女性店主と顔を合わせたくないのです。正直言って、ああいう女性が面倒くさくて仕方ないのです。

なんと情けない男でしょう、エリカひとりに相手をさせるなんて。自分でも分かっています。だけど、心の底から嫌なのです。トラウマに近いものがあるのです。

だけどエリカも女性店主も、クレイグのそんな事情なんて知りません。もちろん知らせるつもりもありません。墓場まで持っていきたいことですから。

「……大体、どうやってこの店の場所を調べたんだ……?」

超絶な小声で、彼は呟きました。

店の看板には“クレイグ”の文字は入っていません。置いてもらっている感覚のまま店を継いだので、“ローグの靴屋”のままなのです。

思い当たる節なら、ひとつだけ。自分が名乗った覚えはありませんが、もしかしたらエリカが自分の名前を呼んだのを、聞いて覚えていたのかも知れません。

だけど、もしそれだけを頼りに昨日の今日でこの店に辿りついたのなら、相当な商売っ気と粘着質の持ち主ということになります。

「ああ嫌だ……」

苦虫を噛み潰したような気持ちで、クレイグは囁きました。

その時です。

「クレイグさぁぁぁん!」

怪我でもしたのかと思わせるような、エリカの絶叫が響き渡りました。

彼は、思わず頭を抱えました。

どうやら、彼女ひとりで女性店主の相手をするのは不可能だったようです。居留守ということにして、帰ってくれるのを待とうかとも思ったのですが。






「やっぱり、彼はこの店にいるのね!

 お願いするわ、呼んで来てちょうだい!」

咄嗟にクレイグの名を叫んでしまったエリカは、しまった、と我に返りました。

でももう手遅れです。女性は掴んでいた彼女の手をぶんぶん振り回して、目をキラキラさせています。その雰囲気は、興味のあることに無我夢中になってしまった時のコニーのようです。

夢見る少女のような女性店主は、あわあわするエリカなどお構いなしに、掴んでいる手を揺さぶりました。

「あっ、ちょっ、あのっ」

なんだかもう肩が外れてしまいそうです。関節から変な音が聴こえてきます。骨を伝って脳に響いてくるような感じです。

しかも今は、試作の履き慣れない靴を履いているのでした。あんまり揺さぶられると、重心が傾いてしまいます。

「ちょっと、あなた!

 お願いだからクレイグさんを呼んで来てちょうだい!」

「やめっ、もっ……!」

もはやエリカの顔など、女性は視界に入るだけで見えていないようです。必死さが度を超えて、もはや暴力のようでした。

エリカは煩いし痛いしで、わけが分かりません。そんな、されるがままの彼女の目じりに、なんだかよく分からない涙が溜まり始めた頃。

工房に続くドアが、音もなく開きました。


「クレイグさん!」

いち早くその気配に気づいた女性が、ぱっとエリカの手を離しました。半ば放り出すような仕草で。ぽいっ、と。

「――――えぁっ?!」

放り出された彼女は、反動でたたらを踏んで声を上げました。

するとそこへ沈痛な面持ちのクレイグがやって来て、迷うことなくエリカの腕を掴みました。彼女がよろけないように。

ひとりで女性店主の相手をさせてしまった罪悪感は、ちょっぴりあるようです。

「うぅぅ……くれいぐさぁん……」

精神的にぐったりして自分の名を呼ぶエリカを一瞥して、クレイグは女性店主に向き直りました。その目に、確固たる決意を秘めて。


「お帰り下さい」

女性店主が喜びとも興奮ともつかない表情を浮かべ、何かを言おうと口を開く寸前で、彼が言い放ちました。

ところが、この女性店主は気の立った熊の言うことなど耳に入らなかったようです。表情をひと欠片も変えることなく、両手を組んで言いました。

「やっぱり、ここにいらっしゃったのですね!

 良かった、すごく探しました。

 それで、月に何足取引して下さいます?」

まるで、触ると種が弾け飛ぶ植物のようです。ぽぽぽぽ、と言葉が飛び散ってクレイグにぶつかってきました。

人の話を聞きやがれ、と言葉汚く心の中で言い返した彼は、溜息混じりに言いました。感情を抑えて言葉を紡ぐのは、子どもの頃に身に付けたわざです。

「ここは私の靴屋ですが持ち主は別にいます。

 どれだけ探されたのかは知りませんがお引き取り下さい。

 私はあなたと取引するつもりは一切ありません」

面倒くさいのと怒りとで、言葉遣いがいつもと全然違います。もちろん、当の本人も女性店主もそんなことには気づきませんが。


足の裏に力を入れて立っていたエリカは、冷たい声で刺々しい言葉を女性に投げるクレイグを見て、落ち着かない気持ちになっていました。支えるために掴んでくれた大きな手が、ものすごく力んでいるのを感じたからでもあります。

口を挟んでクレイグを援護したい気持ちはありますが、2人が言葉の応酬を繰り返すスピードについていくことが出来ません。何を言えばいいのか考えが纏まらないのです。

ともかく、エリカは腕をとられたまま立ち尽くしているのでした。


「わたくしは、とりあえずトルソーの分だけ欲しいのですけれど。

 3つ……いえ、5つあると助かります」

「取引するつもりはありません」

「5つとなると、すぐには難しいのかしら。

 それなら、そこの棚にあるものを買い取って店で扱ってもいいかしら」

「棚のものは困ります。

 私の作る靴はすべて私のものです」

「じゃあやっぱり、ひとまず3つ。いただこうかしら。

 それくらいの在庫はありますよね?」

「だから……!」

怒りのこもったクレイグの声に、エリカは直立不動になりました。腕が、捻じり切られるのかと思うくらいに痛みます。

だから引き結んでいたはずの唇が歪んで、悲鳴じみた声が漏れてしまいました。

「――――い……っ?!」

そしてその小さな声が、その場を静まり返らせたのです。


痛みに顔を歪めたエリカを見て、クレイグは我に返りました。どうやら自分でも我を忘れるほど、目の前の金髪女性に怒りを感じていたようです。

「す、すまないエリカ」

思わず謝罪の言葉を口にして離れた彼に、エリカは静かに首を振りました。昨日みたいに、から笑い出来るような心境ではありません。胸の中に、冷たいものが広がっていくのが分かります。

彼女は痛む腕を擦りながら、小さく「いえ」と呟きました。そして、女性店主の目をじっと見つめました。

言いたいことは、あんまり多くはないのです。だから、ハッキリ言うことにしました。

「クレイグさんの話を、ちゃんと聞いて下さい。

 お姉さん、さっきから自分の言いたいことばっかりです」

肩が外れそうになり、腕を捻じり切られそうになり。散々です。

エリカは頭の芯が冷えたような感覚にまかせて、冷静に言い切ったのでした。

思えば、“私に何してくれてるんですか!”という気持ちをちゃんと感じたのなんて、教会に住んでいた頃以来でしょうか。


静かに怒りを撒き散らすエリカを見て、クレイグは愕然としていました。まだ一緒に生活して短いですが、彼女は常に笑みを浮かべているタイプだと思い込んでいたようです。

言葉を失っている彼を一瞥して、女性店主が口を開きました。

「わたくし諦めきれないの。あなたの靴。

 どうしても店に置かせて欲しいんだけど」

なんだかもうプロポーズのような台詞です。そんな台詞を吐いた粘着質な女性店主は、クレイグの顔をじっと見つめました。

けれど彼は、何も言いません。代わりに溜息をつきました。

“諦めきれない”ということは、売りたくない、と言ってるのをちゃんと理解した上で駄々をこねているのか……と、半分呆れてしまったのです。

もうどうやったら帰ってくれるんだ、いっそ頭でも下げればいいのか、などと投げやりなことを考え始めました。


すると彼女は何を思ったのか、今度はエリカに向き直りました。

「あなたは、今はこの店で手伝いを?」

「え?

 ……あ、ええ……そう、みたいです」

腕を擦っていたエリカは突然矛先が自分に向けられて、きょとん、としました。理不尽さに静かに怒っていたはずですが、女性店主の言葉を聞いて、その気持ちは霧散してしまったようです。

エリカはとりあえず頷いてみましたが、実際は手伝いらしい手伝いをしているわけではありません。しているのは家事が中心。家族未満、使用人未満です。

「……そう」

曖昧に返事をしたエリカを見て、女性店主は黙りこくってしまいました。何かを考えているのか、視線を左右に走らせて。

そんな彼女を見て、何か様子がおかしいぞ、と思ったクレイグは、女性店主に声をかけようと口を開きました。

その時です。

女性店主が両手を、ぱちん、と叩きました。








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