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小鳥の刺繡糸 1








「――――は、ぁ……っ」


まるで暗い海の底からやっとの思いで浮き上がってきたかのように、エリカは息を深く深く吐き出し、そして吸い込みました。

額に、汗が浮いています。背中がじっとり濡れて、ものすごく不快です。

触れた指が濡れたのを感じて、エリカは体を起こしました。

あたりはまだ薄暗く、お隣さんの鶏たちが競い合うようにして朝の訪れを告げています。水汲みが日課のクレイグは、おそらくまだ起きては来ないはずです。

「はー……」

寝床に貸してもらっているソファの布地がほんのり湿っているのが分かって、エリカは溜息をつきました。これでは、まだ寝ている2人に何があったのか勘繰られてしまいます。

彼女は、ソファの上で膝を抱えました。こうしている間に汗も引いて、少しじっとりしてしまったソファも元に戻るだろうと思いながら。

抱えた膝に額をくっつけて、エリカは思い出していました。昨夜の自分が、コニーにお話を聞かせてあげたことを。

思いの外、感傷的になっていたようです。

そんな自分に苦笑を浮かべて、エリカは目を閉じました。そして目覚めた時と同じように、深く深く息を吐き出しました。







クレイグはその光景を目にした瞬間、思わず動きを止めました。

「何してるんだ……?」

呆然と呟いて、階段の最後の一段をゆっくり下ります。そして恐る恐る、ソファの上で器用に膝を抱えて動かないエリカの様子を見に近づきました。


このまま自分が水汲みを始めて物音を立てて、その時に飛び起きて怪我でもしたら大変です。近づいても起きない彼女が心配になって、クレイグは手を伸ばしました。

「エリカ、エリカ」

そっと囁きながら、彼女の肩を叩いてみます。

するとエリカは、がばっ、とクレイグが驚くほど体を揺らして顔を上げました。

「――――あ……」

目を覚ました瞬間こそ愕然としていた彼女ですが、すぐに我に返ったらしく口を開きました。でもその視線は、右に左に流れています。

「す、すみません……!」

咄嗟に何を謝っているのか、クレイグにはサッパリでした。だけど彼女がいつもと少し違う、ということは分かります。というか、それくらいしか察することが出来ないのですが。

だから結局、彼はこう言うことにしました。

「いや、その……ごめん」

自分だって、何を謝ってるのか分からないままです。それでも、エリカの言葉に頷いてしまうのは何かが擦れ違う気がしたのでした。

頭の中がもやもやしているところで、エリカがほんの少しだけ口の端を持ち上げて言いました。眠たいのでしょうか、目を擦りながら。

「おはようございます、クレイグさん」

「……うん、おはようエリカ」

違和感を感じながらも、クレイグは朝の挨拶を返したのでした。







「エリカ、ちょっと」

コニーを見送ったエリカは、ぼんやりと台所で食器を洗っているところでした。突然話しかけられて少しだけ驚きはしましたが、すぐに蛇口を捻って水を止めて振り返りました。

「何でしょう?」

「昨日作った靴、履いてみてくれないかな」

エリカは一瞬、何のことかと考えを巡らせました。そしてすぐに、昨日の夜のクレイグが、喉の渇きを忘れるほどに試作に打ち込んでいたことを思い出しました。

そんなことを思い出すのに、こんなに頭が働かないなんて。朝方の出来事は、どうやら思っていた以上に日常生活に支障をきたしているようです。

それを振り払うように瞬きをして、彼女は頷きました。



工房の棚から完成した靴を下ろしたクレイグは、手近な椅子をエリカに勧めました。そして、椅子にかけた彼女の足元に膝をつきます。

「じゃあ――――」

彼の口が言葉を紡ぎ、その手が延びた瞬間でした。

エリカは履いていた室内履きを、ぱっと脱ぎました。履いていたものが、左右共おかしな方を向いて床に転がります。

「はいっ、脱ぎました!」

あまりの早業に、クレイグは言葉を失ってしまいました。そして我に返って、思わず噴き出しました。昨日試作を履かせた時の彼女の慌てようを思い出したのです。そんなに自分にされるのが嫌だったのか、と少し傷ついた反面、そこまで慌てることないのに、と可笑しくて可笑しくて……。


彼が突然喉を詰まらせたように笑ったので、エリカはちょっとだけ頬を膨らませました。彼に手間を取らせないよう、急いで自分で試着の準備をしたのに、と。

すると、クレイグは彼女の表情を見て手を振りました。その眉は、困ったように八の字になってしまっています。

「ごめん。笑うところじゃないか。

 じゃあ、早速……」

ところが、そこまで言った彼は視線を彷徨わせました。そして、その刹那の間に考えを巡らせます。わずかな沈黙のあと、彼は選択肢を用意することにしました。

「私が履かせてもいいかい?

 それとも、自分で?」

子持ちの男性に下から覗き込むようにお伺いを立てられて、エリカは若干申し訳なく思いつつも、もちろんクレイグの手から真新しい靴を受け取ったのでした。



そして履いてみた試作の靴は、思っていたよりもずっと自分の足にぴったりで。その履き心地のよさに、エリカは思わず頬を緩めて息を吐き出しました。

「どうかな」

そう言ったクレイグに、彼女は頷きます。

「ぴったりです……」

呟くような言葉を聞いた彼は、エリカの足をじっと観察し始めました。言うまでもなく、靴を履いた足の具合を、です。踵や爪先、足の甲などを靴の上から触ったり押したりしながら、細かいところを見ていきます。

そうやってある程度の出来を把握したクレイグは、何かに納得したのか、ひとつ頷いてエリカに言いました。

「じゃ、立ってみて」

「はい」

言われるまま、彼女が立ち上がりました。ワンピースの裾が、ゆらりと揺れます。

靴底を厚めに、踵も低くしておいたので体の重心がぶれることもなさそうです。ただ、いつもの靴を履いている時よりも背丈が伸びたような気がして、不思議でなりません。

そんな彼女の様子を確認したクレイグが、また頷きました。

「少し底上げしているから、目線の高さに違和感があるかも知れないな。

 歩いていれば慣れると思うから、しばらく履いたまま過ごしてもらえるかい?」

「分かりました。

 じゃあ、靴の整理整頓でもしてきますね」

たしか店のカウンターの引き出しに、柔らかい布が入っていたはずです。それを使って、商品として置いてある靴達の埃を取ることにしよう。

そう思ったエリカが、クレイグの言葉に頷いて工房から出て行こうとした時です。

ふいに彼が、彼女を呼びとめました。

「エリカ」


「……はい?」

咄嗟に出たのは、間抜けな返事。エリカは何も考えずに声のした方を振り返りました。

するとクレイグが、彼女の頭の先から爪先までを視線で辿って言いました。

「昨日買ったワンピース、よく似合ってる」

さも嬉しそうな微笑みを浮かべた彼は、そんなことを言い放ちました。

突然の褒め言葉を正面から食らってしまったエリカは、しどろもどろになりながら、かろうじて「あ、ありがとうございます」と返しました。買ってくれてありがとう、と、似合うだなんて嬉しい、という気持ちの両方で。

ところがクレイグは、続けてこう言ったのです。

「――――その靴に。雰囲気がぴったりだ。

 あとで残りの服も、靴と合わせて見せてくれるかい?」

この時エリカは思いました。このドキドキを返して下さい、と。

まったくもう、娘がいるというのに。臆面もなく未婚の女性を褒めるだなんて、いくら仕事とはいえ勘違いさせてしまったらどうする気なんだろう。

あとで空に向かって、「聞いて下さいよー」と呟いてやろうか。昨夜のコニーの話では、彼女のママがお空から見ているはずだし。

暴れ回る心臓を宥めながら、そんなことを考えていたエリカは溜息をつきました。そして、どうやっても紡げない言葉の代わりに、そっと頷きを返したのでした。






カウンターの引き出しの中から、エリカは1枚の茶色い布を取り出しました。クレイグの話では、この布は靴を磨くために使うそうです。

彼女は教えてもらった通り、商品棚に並べられた靴の埃を1つ1つ丁寧に拭き取り始めました。子どもの靴から、大人の靴。ヒールがあるものから、紐で締め上げて履くもの。こうして向き合うと、クレイグの作る靴の種類多さに驚かされます。

ちなみに試作の靴は、厚底で目線が多少上がってしまうこと以外は、今のところ大きな不満や改良点もありません。このまま靴をひと通り吹き終えたら、クレイグに報告に行こうと決めました。


そんなことを考えながらエリカが商品棚の整理整頓をしていると、ふいに店のドアが開きました。

大きなドアベルの音は、工房で作業を続けているクレイグの耳にも届いています。だけど彼は、自分が必要なら店頭にいるエリカが取り次ぐだろう、と思って作業に没頭することにしました。

ところが、ドアベルが何度か音を立てて消えていくのと入れ替わるようにして、聞いたことのある声が店の中に響き渡りました。


そしてその声を聞くなり、クレイグの顔が一瞬でしかめられたのでした。








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