レインブーツでスキップ 7
クレイグが工房で靴の試作に打ち込んでいる間、居間のソファでは、エリカがコニーに寝る前の絵本の代わりに、ある物語を聴かせていました。
初めて聞くお話に目をキラキラさせているコニーの手には、マグカップ。その中身は、温めたミルクです。
彼女は明日の約束を楽しみに、寝る前のひとときを過ごしているのでした。
「むかしむかし、あるところに……」
エリカが、ゆっくりと話し始めました。
こくり。
コニーが喉を鳴らして耳を傾けます。
「女の子がいました。
名前は……。
名前、は……あれ……?」
「えー……」
首を捻ったエリカを横目に、コニーががっかりして声を上げました。
マグカップの中のミルクが、波打ちます。
「なまえなんか、てきとーでいいから。
つづきー!」
すでに少し眠いのでしょうか。コニーがぶすっとしながらソファに沈みました。
「う、うん。じゃあ、適当な感じでね……」
気を取り直したエリカは、もう一度口を開きました。時間と共に薄らいでしまった記憶を、手繰り寄せながら。
「女の子の名前は、ソフィア。たいそう美しい女の子でした。
ソフィアがまだ赤ちゃんだった頃、お母さんが天国に行ってしまったので、
大きなお屋敷でお父さんと、お手伝いさん達と暮らしていました」
そこまで話したところで、コニーが再び体を起こしました。
「てんごく、ってなあに?
おかあさん、かえってこれないの?」
分かりやすく言ったつもりでしたが、コニーにはまだ身近な言葉ではなかったのでしょう。小首を傾げて、エリカに訪ねました。
エリカは少し考えてから言いました。
「……天国っていうのは、うん、と……。
コニーの住んでる世界でやるべきことを終えた人が、旅立つ場所……かな。
お空の、ずっとずっと向こうにあるんだって」
「おそら……の、ずーっとむこう……」
出来る限りの説明をしたつもりですが、伝わったのでしょうか。自信はありませんが、エリカはぼんやりと呟くコニーの顔を覗き込みました。
すると、コニーが言いました。
「じゃあ、わたしのママもそこにいる?」
小さな彼女の口から飛び出した言葉に、エリカは驚きを隠せませんでした。動揺のあまり、目を合わせることがやっとです。
「え、えっと……どうだろ……」
クレイグからも、何も聞いていないのです。もちろん、エリカが自分から聞こうと思ったこともありません。なんとなく、禁忌に近いものを感じるからです。
そりゃあ、お世話になっている身としては気になります。でも、ちょっとした野次馬根性が身を滅ぼす可能性を考えたら、絶対に聞けません。というか、聞かされても反応に困るくらいです。
ですから、コニーの“ママ”発言はかなりの破壊力を秘めているのでした。
「パパは、おそらからコニーのことみてる、って」
「そ、っか……」
ああ、ついに聞いてしまった。ごめんなさいクレイグさん。絶対に口外したりしません。でも忘れられそうにありません。ごめんなさい許して下さい。
懺悔めいたことを考えたエリカは、コニーに向かって微笑みました。口元がひくひく痙攣してしまいそうなのを、ぐっと堪えて。
「……じゃあ、ママも天国にいるんだね」
小さなコニーが、空を見上げるたびに母の存在を感じていられるなら、それはそれで幸せなのかも知れません。
母だけでなく父の存在も知らないエリカにとっては、それだけでも十分羨ましく思えるのでした。
ちょっぴり感傷に浸りかけたエリカは、黙りこくったコニーに気がついて、お話を続けました。
「そんなある日、ソフィアに新しい家族が出来ました。
新しいお母さんと、お姉さんです。
お姉さんは美しく、お母さんは優しく。ソフィアは幸せでした」
食卓のランプの炎が、時折揺れます。それに合わせるかのように、工房からはクレイグの鼻歌が聴こえてきます。
どうやら試作が捗っているようです。
エリカは笑みを浮かべました。
「ところが――――」
そしてその笑みを消して、ちょっぴり怖い声を出して言いました。
「お父さんが病気になってしまったのです。重い病気でした。
ソフィアの看病も虚しく、ついにお父さんは帰らぬ人となってしまいました」
「やだよぉぉ……っ」
感情移入していたらしいコニーが、情けない声で呟きました。目には、涙が溜まっています。
もしかしたら、自分と父親を重ねたのかも知れません。
少し言葉は難しかったものの、“帰らぬ”を理解したのでしょう。もちろん言葉の意味通り、“父親が帰ってこない”と。
コニーにとっては、この家にクレイグが帰って来なくなることは、死別に等しい絶望なのかも知れません。
エリカは、ちょっと悪いことしたかも、と思いながら小さな背中を撫でてやりました。
「大丈夫。
コニーのパパは、どこにも行かないよ」
そう言って落ち着くまで待っていると、すん、と鼻を鳴らしたコニーが小さな声で、「それで?」と続きを催促してきました。
エリカは笑みを浮かべて頷きました。
「優しいお母さんと、美しいお姉さんが意地悪をするようになりました。
まるでお父さんが天国へ旅立つのを待っていたかのように。
お父さんの遺してくれたお金は、すぐになくなってしまいました。
お手伝いさんの代わりにソフィアが毎日毎日働いて、なんとか暮らしていました。
そんなある日、お城から一通の手紙が届きました」
「おてがみ?
なんの?
だれから?」
小さな口から溢れる矢継ぎ早の質問に、エリカは苦笑を浮かべます。ミルクを啜っていた唇の上に、白い髭が出来ているのを見つけて。
近くに置いておいた手拭きで、コニーの口を拭ってやりながら、エリカは続きを話しました。
「手紙は、舞踏会の招待状でした」
「ぶどおかい?」
なんじゃそりゃ食べ物か、と拍子抜けしたような反応をしたコニーに、エリカは肩を竦めて言いました。
「私も見たことはないんだけど。
お城のホールで、綺麗な服を着た人達がダンスを踊るんだって。
美味しいお食事を食べて、飲んで、歌って。お喋りも。
それからそこには、王子様やお姫様がいるの」
「ふぅん……」
いまいちピンとこない様子のコニーは、かろうじて王子様やお姫様を理解したようでした。
「招待状には、こう書かれていました。
“王子の結婚相手を決めるための舞踏会である。
20歳までの女性は、すべて参加すること”
……って。
ソフィアのお家には、お姉さんとソフィアがいます。
2人とも、ドレスを作ってお城に行かなくては」
「……あ、わかった!
おかあさんとおねえさんが、いじわるしたんだ。
ソフィアはおしろに行っちゃダメ、って!」
どうだ、と言わんばかりのコニーに、エリカは噴き出しました。その通りなのですが、あまりに得意気にしているのが可愛くて。
「え、ちがうの?」
目を丸くした彼女に、エリカは首を振って言います。
「ううん、コニーの予想通り。
結局ソフィアは、意地悪されてお城に行けませんでした。
でもね、奇跡が起きたのです」
「きせき?」
コニーは小首を傾げました。
「そう。不思議で、とっても嬉しいこと。
お城に行けなくてお家で泣いていたソフィアの前に、魔法使いが現れたの。
そして、魔法でドレスを着せてくれて、お城に連れていってくれたのです」
「すごーい!」
悲壮感漂うお話がようやく明るく展開する予感に、コニーが目をキラキラさせました。
エリカは、その様子を眩しそうに見つめて言います。
「お城では、もう舞踏会が始まっていました。
みんなが踊ったりお喋りして、楽しそうです。
ソフィアが楽しい気持ちでそれを見ていると、突然男の人が話しかけてきました」
「おーじさま?!」
「そう。王子様が、ソフィアに話しかけてきたのです。
“一曲踊っていただけませんか”ってね」
「ほわぁぁ……」
コニーが色のついた溜息をつきました。彼女の頭の中には、絵本で見た白馬の王子様が浮かんでいるのです。夢中になり過ぎて、手元がぐらつきます。
エリカは困ったように笑って、コニーの手からマグカップを受け取ってテーブルに置きました。触れた手が温かかったので、きっとそろそろ眠気がやってくるでしょう。
「でもね、コニー」
夢見心地の彼女には申し訳ないけれど、ここからまたひと波乱あるのです。エリカは声を低くして言いました。
「えっ、ソフィア、おーじさまのおひめさまになるんでしょ?」
慌てた様子のコニーを笑みでかわして、エリカは小首を傾げます。
「じゃあ、もうちょっとだけ聞いててね」
「うん、うん……っ」
完全に引き込まれてしまったコニーは、身を乗り出してエリカの膝の上に乗りかからん勢いで頷きました。
「王子様とたくさん踊って、お話をして……。
その時、お城の鐘が鳴ったのです。
ソフィアは言いました。“もう帰らなくては”」
「えっ、かえっちゃうの?!」
含みを持たせた声に、コニーの小さな胸がドキドキし始めました。それは、お話がハッピーエンドになるまで、ずっと続いたのでした。
「助かったよ、ありがとう」
ソファで眠りこけてしまったコニーをベッドに寝かせて、クレイグが戻ってきました。疲れた顔をしてはいますが、それはコニーが少し重くなったこととは関係がないようです。
「おかげで、試作もうまくいったし……」
「よかったですね~」
ごりごりと肩を回しながら呟くクレイグに、エリカは笑みを浮かべました。そして、ミルク用の小鍋を取り出しました。
「お茶、用意しましょうか。
クレイグさん、喉乾いてませんか?」
「ああ、そういえば……。
じゃあ、お願いしようかな」
さっとお茶を淹れたい時、エリカは大きなランプを使います。金属で出来た三脚を用意して、その上に小鍋を置きます。するとランプの炎が、小鍋の底の部分に当たるのです。
マグカップ2つ分のお湯を沸かすのに、数分。その間に、エリカは茶こしに茶葉を入れて用意します。それから、今日は角砂糖も。
もしかしたら、肩をごりごり鳴らしていたクレイグが甘いものを欲しがるかも知れません。それだけで食べられそうな、小さなかたまりを小皿にのせておきました。
ほわほわと湯気が上がるマグカップと角砂糖の小皿をトレーにのせて、エリカは食卓に戻りました。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
エリカの差し出したマグカップを受け取りつつ、クレイグがお礼を言いました。目がしょぼしょぼするのか、目頭を揉んでいます。
彼は小皿にのった角砂糖を摘まんで、そっとお茶の中に落としました。音もなくカップの底に落ちたそれは、すぐにほどけて溶けはじめます。
「ところでコニーには、何の話を?」
クレイグの質問に、エリカは悪戯っぽく微笑んで肩を竦めました。
「ひみつです」
「……コニーが盛り上がってたみたいだから、気になるんだよ」
彼はカップの中身を見つめて呟きました。角砂糖を、スプーンで溶かしながら。
エリカは小皿から一番小さなものを摘まんで、口の中に放り込みました。そして、広がる甘さに目を細めながら言いました。
「あれは、題名のないお話なんです。
私が置き去りにされていて、教会に拾ってもらった話はしましたよね。
そうなる前に、何回も聞かされていたんじゃないかと思うんですけど。
でも誰が読んでくれたお話なのか、全然覚えてなくて……」
そう話すエリカの表情を見たクレイグは、どんな言葉をかけたらいいのか分かりませんでした。ただ、静かに彼女の淹れてくれたお茶を飲んで、「おいしい」とだけ。
エリカは視線を落として囁いたクレイグを見て、ほんの少し頬を緩めたのでした。
工房の棚では、エリカの足にぴったりな試作の靴が明日を待っています。
ちょっとの雨でもへっちゃらな、新しい靴です。




