レインブーツでスキップ 5
ふわっ、と体が浮き上がる感覚に息を飲んだエリカは、たたらを踏みそうになる足に力を入れて立ち上がります。ワンピースの裾が、ゆらゆら波打つように揺れました。
彼女は、手を貸してくれたクレイグの顔を見上げました。
「ありがとうございます」
すると真っ直ぐな目を向けられて戸惑った彼は、少しだけ視線をずらしました。ほんのちょっぴり、頬を緩めて。自分は一体何をしてるんだ、と思いながら。
もちろん、彼のそんな心境にエリカが気づくわけもなく。
「えっと、じゃあ……行きましょうか」
クレイグに探されていた自分が仕切り直すのも変だな、とは思いつつも、エリカは小首を傾げて尋ねました。
でも彼女が言い出すより他なかったのです。その様子を見た限り、クレイグは少しぼーっとしているようなので。
「――――あ……っ」
そこで弾かれたように声を上げたのは、それまで2人の姿を交互に見遣って立ち尽くしていた店主でした。
彼女は立ち上がって、エリカに耳打ちしました。
「あなた、さっき見ていたものはいいの?」
出来る限りの配慮です。下着を買おうとしていたなんて、そこにいる男に聞かれたくないだろう、という。
もっとも、自分たちの目の前で下着を広げていたところだったので、熊のような彼はすでに気づいているかも知れませんが。
するとそれを聞いたエリカは、はっと我に返って巾着を取り出しました。
「買いますっ」
「いくつにする?
1枚で銅貨4枚よ。まとめて買うなら、ちょっと安くしとくけど」
麻で出来た小さな袋を用意しながら、店主が言いました。
巾着の中を覗き込んで少し考えたエリカは、小さな声で尋ねました。
「……3枚買うとしたら、いくらにしてもらえますか?」
「3枚か……そうねぇ、銅貨10枚にしときましょうか」
その間、なんとなく照れくさくて視線をずらしたままだったクレイグは、女性たちの会話を片方の耳で聞いていました。そして、なんともいえない感慨にこっそり溜息をつくのでした。
珍しい黒い髪を、騙されてるとしか思えないような金額で売ってしまったエリカが、市場で値段の交渉らしきことをしているのです。お金の価値について無知だった彼女の、ちょっとだけでも成長した姿を目の当たりにすれば、それは溜息も出るというもので。
そんなことを考えながら、クレイグは店の中を見回しました。
レースをあしらった服やハンカチなど、女性向きの品物がたくさん並べられています。市場に出店している店にしては珍しく、帽子にワンピースにアクセサリー、と華やかに着飾ったトルソーがいくつか置いてあります。
クレイグは、会計を済ませているエリカから離れて、品物のひとつを広げてみました。ちょうど今、女性向けの靴を完成させようとしているところで。どうせなら服装の雰囲気を壊さない靴にしたいので、この機会に勉強しようと思ったのです。
彼はワンピースを何枚か広げて、そしてエリカを一瞥しました。そしてまた、手元のワンピースに視線を戻します。
それを何回か繰り返した頃、会計を終わらせたエリカがクレイグの横に立ちました。
「お待たせしました、クレイグさん」
言葉をかけたエリカは、小首を傾げました。彼の前に、色とりどりの服が広げられていることに気づいたのです。
何してるんだろう。こんなことをするほど、暇を持て余させてしまったのか……などと思いつつも、彼の横顔が真剣なので尋ねるのが憚られます。真顔で女性ものの服を見つめる熊のような男を、通行人が見て見ぬ振りをして通りすぎて行きました。
その様子に思わずエリカが口を開きかけたところで、ふいに、クレイグが後ろを振り返りました。そして、言いました。
「――――店主」
下着の箱を元の場所に戻して、2人を見送るつもりで佇んでいた店主は突然声をかけられて、思わず肩を揺らしました。動揺して、若干声が上ずります。
「な、何かしら」
クレイグは、そんな店主の様子など気にも留めずに言いました。自ら広げたワンピースの中の数枚を指差して。
「これと、これ……と、あれも。
それから、あのトルソーが着ているショールもお願いしたい」
あまりに淡々と言うので、店主は一瞬頭の中が真っ白になりました。
エリカも、彼の言いようがまるで八百屋の店先でトマトやキャベツを指差しているような雰囲気だったので、ぽかん、としています。
「……店主」
「え、ええ。少し待って」
クレイグの口から催促の言葉が出て、店主は我に返ったのか品物を集めました。そして、彼の指差した服や小物を丁寧に畳んで、布の袋に入れ始めました。
「……奥さんにプレゼントだなんて、ステキねぇ」
悪戯っぽく微笑んだ店主の言葉に、それまで呆気にとられて固まっていたエリカが息を吹き返しました。彼女は慌てて尋ねました。
「なっ、なんで私を見るんですか?!」
「あら、違うの?」
取り乱した彼女に、店主があからさまにガッカリした様子で問い返します。
するとエリカが両手をぶんぶん振り回しました。
「ちちちち違いますよ!」
彼女の振り回す手を、当たる寸前で避けたクレイグが言いました。けろりと。
「夫婦ではないしプレゼントでもないけど、服はエリカが着るんだよ」
そのひと言に、顔を赤くして店主に訴えていた彼女の動きが停止しました。そして、顔色ひとつ変えずにいるクレイグを凝視しました。どうやら瞬きするのも息をするのも忘れているようです。
「……なんだ、夫婦じゃなかったのね。
“うちの……”なんて言うから、勘違いしてしまったわ。失礼」
絶句したままのエリカを横目に、店主が溜息混じりに呟いています。
クレイグは、そういえばそんなことも言ったっけ、なんてぼんやりと考えていました。相変わらず動かないエリカを見つめながら。
そして、何と声をかけたら動くんだろうか、なんて考えていた時です。
ようやく我に返ったらしいエリカが、何食わぬ顔で店主にお金を支払おうとしているクレイグに向かって言い放ちました。
「で、でもっ。
買うなら私のお小遣いがありますから!
クレイグさんはコニーのためにお金を遣わないと!」
ごもっともです。
正論です。反論するならどうぞ。
エリカには、そんな自信がありました。
けれど、クレイグはそんな言葉は意にも介さないようで。またしても、けろっと言いました。
「お金のことなら、心配ないよ。贅沢は出来ないけど、蓄えはある。
警備隊の隊員たちの靴は全部、うちが受注してるんだ。
だから、私の腕が落ちない限りお金に困ることはないと思っていい」
さらっと言われて、エリカは言葉に詰まってしまいました。
よくよく考えれば自信過剰な発言ですが、彼女がそう思っていることを察したクレイグは、少し考える素振りを見せてから口を開きました。
「……実は、ハンスが警備隊で発言力のある地位についててね。
私は、酔ってるか女に鼻の下を伸ばしてる彼しか、見たことはないけど」
それを聞いていた店主が、しみじみと呟きます。
「素晴らしいコネをお持ちだわね」
エリカは店主の言葉を聞いて、あるやり取りを思い出しました。
クレイグに地図を描いてもらって尋ねた職業紹介所での、女性相談員とのやり取りです。彼女は“使用人として働くには、コネが必要”だと言っていました。
その時には“コネ”とやらが何なのか理解出来なくて相談員に怒られたのですが、ようやくわかった気がします。
そんなことを考えた彼女は、本当にコネってあったんですね、と半ば感心してクレイグを見つめました。曇りのない、尊敬の眼差しで。
エリカのキラキラした視線を見て見ぬ振りをしたクレイグは、ひとまず彼女は納得してくれた、と解釈することにしました。
「……だから、今買った服は君のもの。
で、服を着て試作の靴を履いた雰囲気を確認させて欲しいんだが……」
彼の台詞を聞きながら、店主は呆れてしまいました。
話の内容から察するに、彼は警備隊に靴を納入する靴職人で。新しい靴を製作するのに、服に合わせた雰囲気を確認したいから女性向けの服を買い込んだ……というわけなのでしょう。
「なるほど、だからプレゼントでもないわけか……。
……そうだわ!」
呆れ半分に2人を眺めて呟いた店主は、あることをひらめいて手を、ぽん、と叩きました。その音で、なんやかんやと店先で会話を繰り広げていた2人の視線が、店主に向けられます。
店主は、にっこり微笑んで言いました。
「わたくし、あなたの作った靴を店に置きたいのだけれど」




