レインブーツでスキップ 3
何を勘違いしたのかエリカは、ハンスが靴を買いに来たのだと思い込んだらしいのです。
「あー……」
ハンスが、エリカを見て頬を引き攣らせました。
そのハンスを見て、クレイグは笑いたいのを堪えて至って真剣な顔をしています。だけど真剣な振りなので、目がとっても楽しそうです。
「お手伝い、しましょうか……?」
エリカはクレイグの背後から出て、彼を仰ぎ見ました。ぎゅっと握ったこぶしが、ぷるぷる震えています。役に立ちたい気持ちと緊張に。
“そういえば、ちゃんと用向きを聞いてなかった”と気がついたクレイグが何も言わずにいたら、エリカの視線が横に移動していきました。そして、スラリと背の高いハンスを下から見上げて口を開きます。
「えと、女性へのプレゼントだったら、お力になれるかも知れませんし。
あ、その、あのっ、実は私もクレイグさんの作った靴、履いてて……っ」
どうやら本気らしいその言葉を聞いた彼は、ハンスを一瞥しました。
するとハンスは「え、あ、いやっ……」などと言いながら頭を掻いたりして、落ち着きなく視線を彷徨わせ始めました。
本当は“あのクレイグが家に女を……?!”という噂を小耳に挟んだから、確かめに来たのです。でもそんなことは口が裂けても言えません。数年来の飲み友達がおかしな女に騙されていたら大変だ、と意気込んでいたなんて。
エリカ本人に言えないのは当然ですが、その彼女をすんなり自分のテリトリーに入れたらしいクレイグには、絶対に知られてはいけないような気がします。握手しようとした手を叩き落とした彼のことです、きっと邪推していた自分を怒るに違いありません。
結局ハンスは、女性用の靴を一足買うことにしました。たどたどしいながらも熱心に助言してくれたエリカと、にやにやと人の悪い笑みを浮かべるクレイグに見守られて。
まさかの出費に半泣きになりつつ会計をした際にクレイグが、こそっと「今度キャベツ亭で会ったら奢るよ」と囁いたのが、ちょっとした救いなのでした。
「ハンスさん、良い方ですね。
お相手の方が、靴を気に入ってくれると嬉しいです」
市場までの道を歩きながら、エリカがクレイグを見上げて言いました。思い出すのは、金髪でちょっとだけ細い目をした青年です。
彼が買ったのは、履いたあとに紐を巻き付けて締めるタイプのショートブーツでした。ちゃんとした足の大きさは、靴屋で測らない限り分かりません。だから、比較的誰にでも合うようなものを、ということでした。
「ああ……そうだね」
エリカの言葉に、“そもそも女性に贈るだなんてことに半信半疑”だとは言えないクレイグは、曖昧に頷きました。結局ハンスの来訪の用件は、その口から聞きだせないままなのです。
クレイグの反応に慣れたエリカは、特に何を返すでもなく、熊のような彼の歩幅に遅れないよう足を動かしました。気を緩めると、少しずつ離れていってしまうからです。
そして彼女には、彼にお願いしたいことがありました。いつ言おう、とそればかりが頭の中をぐるぐる回り続けて、変にドキドキしてしまって、まるで告白するタイミングを窺う少女のようです。
そうして勝手な緊張と早歩きのせいでエリカの息が上がり始めた頃、市場のテントが見えてきました。
特に会話らしい会話もしなかったクレイグがふと足を止めたのは、その時です。
クレイグに合わせて足を止めたエリカは、真っ先に深呼吸をしました。
すると、何の前触れもなく彼が彼女を呼びました。
「エリカ」
「あ、はいっ」
長年の使用人暮らしで身に染みついてしまったのか、エリカは自分の名前を呼ばれると、つい背筋を伸ばして返事をしてしまいます。
そんな彼女の様子を見たクレイグは悪いと思いながらも小さく笑ってから、小さな巾着を差し出しました。
エリカの目の前で、巾着がぷらぷら揺れています。受け取らずに小首を傾げれば、彼がそっと口を開きました。
「君のおかげで、靴が一足売れた。
半分は売り上げに入れてもらうけど、半分は君が自由に遣うといい」
それを聞いたエリカは、息を飲んでわずかに目を瞠りました。大きな声を上げたいのを堪えたのは、不審な動きをすると泥棒がやって来る、とコニーに言われたことがあったからです。
驚いて絶句している彼女を、クレイグは若干申し訳なさそうに見遣りました。眉が、八の字に下がっています。
「……といっても、あまり期待しないで。
欲しいものを、いくつも買える金額ではないから」
エリカはその言葉を聞きながら、もしかしてすごくチャンスなんじゃないか、と思っていました。これならお願いしなくても、下着用の生地を買うことが出来そうです。いえ、もしかしたら既製品に手が届くかも知れません。
考えを巡らせた結果、一瞬にして頭の中がお花畑になったエリカは、キラキラした瞳でクレイグにお礼を言いました。
「はいっ、ありがとうございます!」
両手で小さな巾着を受け取る彼女を見て、クレイグの胸に影が差しました。この反応、初めてコニーにお小遣いをあげた時によく似てる……と思ったのです。
あの性格ですから、愛娘は大概“初めての何か”でやらかしてくれています。歴代の武勇伝を語り始めたらキリがないくらい。
「いいかい、よく考えて遣うんだよ」
「はーい」
言い聞かせるようにして伝えましたが、返ってきたのは生返事です。
ものすごく嫌な予感がします。やっぱり自分が持ち歩いて、監督しながら買い物をしようかと迷いましたが思いとどまることにしました。ぼったくられたりして失敗したとしても、それも勉強か、と。
クレイグは、ある程度のことなら、と腹を括ることにしました。
第一、女の子の買い物に口出しをするといろいろ拗らせてしまう、というのを体験済みなのです。コニーに初めてお小遣いをあげた時に。
ものすごく心配そうな眼差しのクレイグと別れたエリカは、市場の端にある生地や服を売る店が並ぶ通りを歩いていました。市場自体には、初めてお遣いに来て以来何度か足を運んでいるので、多少慣れたつもりです。どのあたりに何を売る店が並んでいるのか、なんとなく頭に入っています。
それでも、エリカはキョロキョロと周囲を見回していました。衣服の類が並ぶこのあたりに足を踏み入れたのは、今回が初めてなのです。
この通りを歩いているのは、ほとんどが女性です。たまに男性が歩いていますが、ちょっとだけ気まずそうです。足早に、視線を落としています。
店や人を観察しながら歩いていると、ふいに「お嬢さん」と呼び止められました。けれどエリカは、苦笑いにちかい笑みを浮かべて会釈をして、その前を通り過ぎました。なんだか腰が引けてしまったのです。
彼女は、落ち着いて品物を見せてくれそうな店を探すことにしました。
そうこうしているうちに、通りの突き当たりが見えてきてしまいました。
ローグの靴屋と同じように、市場の中でなく独立したかたちで商売をしている店で買うことになります。もちろん、市場で買うよりも割高です。
そんな贅沢出来ない、と胸の内で呟いたエリカは、溜息混じりに突き当たりまで歩いてみることにしました。その間にも、「お嬢さん、見てってよ」と中年の女性が手招きします。
それも苦笑い混じりの会釈でかわして、困った彼女は視線を巡らせました。すると通りの突き当たりに一軒だけ、呼び込みをする人の姿がない店を見つけることが出来ました。
嬉しくなってエリカが駆け寄ると、店の奥まったところで椅子に腰掛けてレースを編んでいる女性と目が合いました。
「こんにちは。
ごめんなさいね、今ちょっと手が離せないの。
どうぞご自由に、ゆっくり見て行ってちょうだい」
「あ、はい……」
目が合って体を強張らせたエリカは、かけられた言葉を聞いて肩から力を抜きました。まさか、関わりません宣言をされるとは思ってもみなかったのです。
好都合なのですが、なんだか変わった店主のようです。エリカは不思議に思いながら、手近にあった品物を手に取りました。
店の主人が編んでいるレースは、売り物になっているようです。ワンピースにもストールにも、レースが縫い付けられています。髪留めなどの装飾品も見かけます。年頃の女の子でなくても、目移りしてしまいそうなものばかりです。
エリカは目当てのものを探しながら、言われた通りゆっくり品物を見て回りました。けれど、素敵だな、と思う物はあっても、探しているものは見つかりません。
仕方なく彼女は、一心不乱にレースを編み続ける店主を呼びました。
「あの、すみません」
鍵針を動かしている店主は、エリカの声に気づいてくれません。
聴こえていないのかも知れない、と彼女はもう一度、店主を呼びました。
「すみません」
ところが勇気を出して呼びかけたものの、一向に店主が視線を上げる気配はありませんでした。よっぽど集中しているのか、無視されているのか……。
「どうしよう……」
困り果てたエリカは、途方に暮れて考えました。このまま何も買わずに店を出るか、それとももう一度だけ声をかけてみるか。
そうして、せっかく見つけた店だから、と口を開いた時でした。
店主が膝に乗せていた糸の玉が、ころん、と地面に落ちました。
エリカは、今だ、と息を吸い込みました。
「――――あの!
……や、そのっ」
自分で思っていたよりもずっと大きくて通る声が出てしまったことに驚いて、エリカは俯きました。顔が熱くなってきます。
「なにかしら」
そんな彼女が両手で頬を押さえていると、店主がきょとん、とした顔で小首を傾げました。金色の髪が、さらりと流れていきます。
青くて綺麗な瞳に見つめられて、エリカは慌てました。でも、やっと会話が成り立ちそうな気配に、早口になって捲し立てました。
「あっ、お忙しいところすみません。
下着を探しているんですが、見つからなくて……!」
「え?」
突然のことに、店主は呆然を声を零しました。
エリカは彼女の足元から少し離れた場所に転がって糸玉を拾い上げて、差し出しました。そして、困った顔をして言いました。
「お願いします、下着を売って下さい!」
「――――ぷ」
ぷくくく、と笑いだしたいのを必死に堪えている店主が、エリカを見上げてお腹を押さえて肩をぷるぷるさせました。今度は編みかけのレースが落下の危機に晒されています。
「え、あの」
美しい見た目の店主が、唇が開きそうなのを我慢している姿はなんだか滑稽です。でも笑われているのが自分なのは一目瞭然なので、エリカは戸惑ってしまいました。
彼女は、何と声をかけたものか、と考えを巡らせます。すると、おもむろに店主が深呼吸をしました。こほん、という咳払いが、なんだかわざとらしく見えます。
「ふぅ、ごめんなさい。
こんなに必死な顔で下着を買いに来た人、初めてよ」
そう言って、店主は編みかけのレースを箱に戻しました。




