レインブーツでスキップ 2
ドアベルの音に、エリカと作業用のエプロンを外しかけているクレイグが顔を見合わせました。人の声こそ聴こえてはきませんが、きっと来客です。
彼は溜息混じりに言いました。
「ごめん、お客さんが来たみたいだ」
出かける前に洗濯を済ませる、と言ったエリカの手伝いをしようと思っていたところでした。手伝えば早く出かけられる、と思っていたのですが……。
エリカは彼の言葉に、静かに手を振りました。
「いえいえ、お仕事頑張って下さい。
じゃあ、その、洗濯が終わったら支度をして、店に顔を出しますね」
彼女の後姿を見送り、クレイグは作業用のエプロンの紐を締め直しました。
そんな彼が、なんとなく気乗りしないまま店を覗くと、そこには棚に並んだ商品を眺めている青年が1人。
彼は静かに佇んでいる青年が誰か、すぐに分かりました。そして、思わず溜息を零しました。無視してみようかとも思いましたが、そんなことをしたら工房まで入ってくるに決まっているので、そういうわけにもいきません。
クレイグが工房と店の境い目で足を止めていると、その青年は人の気配を感じたらしく振り返って手を上げました。
「どーも」
目が合うなり含みのある笑顔を浮かべた彼を見て、クレイグは額を覆って溜息をついてしまいました。ここ数日の間に溜めておいた小さな幸せが、全部逃げていきそうです。
クレイグは、靴を買いに来たように見えない青年に向かって言いました。
「何の用?」
「おま、その言い方はないだろ」
もう少し違った反応を期待していたのでしょうか。たしかに数日ぶりに顔を合わせたような気がしなくもないですが、手と手を取り合って再会を喜ぶような間柄でもなかったはずです。
「用があるから来たんだろう?」
冷やかしならお断りだ、とでも言いたげなクレイグの表情を見て、青年が苦笑を浮かべました。
「いやまあ、用ってほどじゃないんだけど……。
マイラが、クレイグが最近来ない、って嘆いてたからさ。
まさか親子で動けなくなってやしないだろうな、と心配で心配で」
「誰が嘆いてたって……?」
まったく身に覚えのない言葉に、クレイグは首を傾げました。マイラって誰……そんなことを胸の内で呟きながら。
クレイグの反応に、青年はがっくり肩を落としました。
「いやだから、マイラだよ。定食屋の」
そこまで聞かされて、ようやく彼は青年の言いたいことを理解したのでした。
定食屋というのは、おそらく“キャベツ亭”のことでしょう。クレイグとコニーは、たまに外食をすることがあるのです。仕事が上手くいった日、コニーが教会で特別褒められた日、ちょっとだけ家事をお休みしたい日だとか。そんな日にキャベツ亭で好きなものを食べることが、ちょっとした贅沢なのです。
そういえば、そのキャベツ亭で毎回コニーに話しかけてくる女性がいた気がします。
思い至ったものの、それにしても……と、クレイグは首を捻りました。
「それは分かったけど、どうしてその、マイラさん?
……が、そんなことを嘆くんだ?」
「うーん……」
訝しげに青年を見遣ると、今度は頭を抱えて唸り始めました。
「ダメだこりゃ」
「……失礼な奴だな」
思い切り貶された気分のクレイグは、溜息混じりに呟きました。
青年とクレイグが定食屋の話をしている頃、エリカは庭に洗濯物を干していました。今日も雲ひとつない、綺麗な青空です。
洗いたてのタオルを干していた彼女は、洗濯かごから摘まみ上げた小さな靴下を見つめて、くすりと笑みを零しました。
「コニーったら……」
小さな穴が開いているのです。
一か所直せば、別の場所に穴が開き。コニーが毎日お友だちと遊びまくるおかげで、泥汚れを落としたり弾け飛んだらしいボタンをつけ直したり……その繰り返しです。もしかしたら、家事の中で一番手をかけているのは洗濯物かも知れません。
「今度はこっちも塞がなくちゃ」
お転婆な5歳児が昨日も元気に遊んできたらしいことを察して、エリカは思わず頬を緩めて小さな靴下を眺めました。コニーはまだ子どもで足が大きくなるので、少し大きな靴を履く時には靴下を履いているのです。
エリカは修理の必要な靴下を物干の端っこに洗濯バサミで留めて、次の洗濯物を摘まみ上げました。今度はバスタオルです。
「えーっと……」
独りごちた彼女は、籐を輪っかにした道具を取り出しました。輪の中には、十字を描くように木材が組まれています。
その輪に沿ってバスタオルを干した彼女が、次にカゴの中から探し出したのは自分の下着でした。彼女はそれらと、バスタオルで出来た筒の内側に干していきます。
「もう2枚くらい作った方がいいかな」
針仕事が苦ではない彼女は、自分の下着を出来る限り手作りしているのです。既製品も売っていますし、“生活に必要な物は相談して”とクレイグは言ってくれましたが、なかなか言いづらいもので。
「……私が自分でお金を稼げればいいんだけど」
布から延びる紐が絡まないように気をつけて作業しながら、エリカは呟きました。
このバスタオルが筒状になるように干せる輪っかを作ってくれたのは、他でもないクレイグです。彼は、他人に見られたくないものを干すのに使って、と言ってこれをエリカにくれました。
実は先日、急な夕立があったのです。家の中で別のことをしていた彼女がそれに気づいて慌てた時には、すでにクレイグが洗濯物を取り込んでくれていました。
その翌日に、彼はこの輪っか状のものを作ったらしいのです。おそらく、エリカの洗濯物が他のものと一緒に並んで干されているのを見て、気を利かせてくれたのでしょう。
……エリカは、そう思うことにしています。
今日買い物に出た時にでも下着を買いたいことを相談してみようか、などと考えながら残りの洗濯物を干し終えたエリカは、空を見上げました。干し始めた時と同じ、雲のない晴天です。これならきっと、にわか雨も降らないでしょう。
目を細めた彼女は、ひとつ息をついて家の中に入りました。
エリカはベージュの靴を履いて、工房のドアの前に立ちました。手には、買い物用のバスケットを持っています。
店に顔を出す、と言った時にクレイグは何も言っていなかったけれど、本当に自分が出ていってもいいものか。クレイグが家の方に顔を出さないということは、お客さんはまだ店で靴を選んでいるのかも。
そんなことを考えて踏ん切りのつかないエリカは、しばらくドアノブを掴んだまま、じっとその場に佇んでいました。
「……で?」
クレイグが不機嫌そうに、沈痛な面持ちをしている青年に声をかけました。
「用事はそれだけ?」
すると青年は、頭をぽりぽり掻きながら視線を彷徨わせました。
「うん、まあ……いや……」
なんとも歯切れの悪いことを言う青年の視線が、ちらちらと店の奥へと投げられます。それに気づいたクレイグは、何かあるな、と感じて眉根を寄せました。
「気持ち悪いな。
別に靴を買いに来たんじゃないんだろう?」
彼は溜息混じりに続けます。
「二股がバレたのか?
あ、手を出した相手に旦那がいたとか?」
酷い言われようです。青年は、口元をひくつかせて言いました。
「ばっ……そんなわけあるか!」
青年の口から飛んできた唾を手で払いながら、クレイグは溜息をつきました。否定はされましたが、若干図星だったんじゃないかと思いつつ。
「じゃあ何だよ。
あの定食屋に行かなかったくらいで訪ねて来るなんて、不自然過ぎる。
じいさんが亡くなった時くらいだろ、うちに来たのなんて」
クレイグの低い声に、青年は口をもごもごさせました。
音を立てないようにドアを開けて、そっと一歩を踏み出しました。
ドアノブを握ったまま考え込んでいたエリカは、ちょっと声をかけるだけ、と思い切ってクレイグのもとへ行くことにしたのです。
ベージュの靴は、何も考えずに歩くと踵が音を立ててしまいます。エリカは、そっと息を殺して工房の中を通り抜けると、店の中を窺うように顔を覗かせました。
店では、クレイグと金髪の青年が対峙していました。
なんとなく知り合いのような雰囲気のなかで話をしているようですが、お世辞にも会話が盛り上がっているようにも見えません。
エリカは小首を傾げながら、遠慮がちに声をかけてみることにしました。
「……あの」
店の中に響いた上ずった女性の声に、青年が勢いよく振り返りました。
彼の金髪が揺れる様子が眩しくて目をぱちぱちさせたエリカは、クレイグと目が合った瞬間に、はっと我に返りました。そうでした、クレイグは接客中だったのです。
エリカは、咄嗟に直立不動の姿勢を取りました。
「お、お取り込み中すみません……!」
クレイグは、そんな彼女の態度を見て噴き出しそうになりながら首を振りました。すぐそばでは、金髪の青年が食い入るようにして彼女を見つめています。
彼は、呆然と呟きました。
「おいクレイグ……」
その目は、いまだにエリカをじっと見据えています。
「――――エリカ」
クレイグは青年の言葉を無視して、がちがちに固まっているエリカの名前を呼びました。低い声で、穏やかに。
青年が、目を丸くしてクレイグを凝視しました。自分が無視されたことよりも、彼が女性の名前を呼んでいることに驚愕したのです。ついさっき尋ねたキャベツ亭のマイラのことなんて、頭の片隅にも残っていなかったというのに。
「洗濯は終わった?」
「あ、はいっ」
エリカは、愕然として動かなくなった青年をちらちら見ながら、クレイグに返事をしました。お客さんじゃなくて知り合いなのだとしても、放置しているのはちょっと失礼なんじゃないか……そんなことを思いながら。
するとクレイグは、笑みを浮かべて頷きました。
「分かった。じゃあそろそろ行こう。
今からだったら、コニーが帰るまでに間に合う」
そこまで聞いて我に返ったのか、自分が放置されていることに気づいた青年が、ようやく声を上げました。
「え、ちょ……っ」
「あの……?」
お客さんを置いて行く、ということなのでしょうか。焦ったように手をばたつかせる姿を一瞥したエリカは、おろおろしながらクレイグを見遣りました。
するとクレイグが口を開くより早く、青年が言いました。遠慮のない視線を、小首を傾げたエリカに向けて。
「やっぱりか。コニーと一緒に歩いてる女がいる、って聞いて……。
まさかとは思ってたけど、いつの間にこんなことになってたんだよ?!」
半ば興奮気味に言葉をぶつけられて、クレイグは顔をしかめました。そして、エリカの前に立って青年に対峙します。その視線から、彼女を隠すように。
一方エリカの方は、突然熊のようなクレイグの背中が目の前で視界を塞いだので、仕方なく横からちょっとだけ顔を出してみたり。
「煩いぞ、ハンス」
クレイグは、たしなめるような口調で溜息混じりに言いました。何がショックなのかは分かりませんが、靴を買う気がない友人に構うだけの余裕は、今はありません。早く材料を揃えて、試作品を完成品にしてしまいたいのです。
そんな2人のやり取りを見ていたエリカは、ハンスと呼ばれた青年とクレイグは知り合いなのだという結論に至ったので、思い切って口を開きました。
「あ、あの、はじめまして。
エリカといいます……!」
もしかしたら、これから顔を合わせる機会があるかも知れない。挨拶はきちんとしなければ。そんなことを考えたのです。
エリカがどもりながらも声をかけた瞬間、クレイグが不快そうに顔を歪めました。彼女は彼の背中の方にいるので、まったく気づきませんでしたが。
するとハンスが、面白い玩具を見つけた子どものように目をキラキラさせて、小首を傾げたエリカに目を向けました。
「はじめまして!
俺、ハンス。クレイグとは飲み友達」
にこにこしているハンスを、クレイグが眼光鋭く睨みつけます。まさに野生の熊です。ハチミツの壺に手を突っ込んでぽわぽわしているような、飼い馴らされた熊とは違います。
その熊熊しい彼は、へらっとしているハンスに言いました。
「友達じゃない。知り合いだ」
「うんじゃあ知り合いでいいからよろしくねエリカちゃん」
泣く子も黙るほどのクレイグの形相にも動じないハンスは、にっこり笑って、呆然と視線を投げてくるエリカに手を差し出しました。
けれどその手をクレイグの大きな手が、べしんっ、と払いのけます。
「おわっ」
悲鳴に似た声を上げたハンスは、それでも笑みを浮かべたままです。
その表情を見たエリカが、思わずクレイグに向かって言いました。
「クレイグさん、お客さんの手を払っちゃダメです……。
ハンスさん、まだ靴を選んでいる途中なんでしょう?」
そのひと言に、2人の口から出た声が重なりました。「――――え?」と。2人とも、ぽかんと口を開けたまま。
そんなことは目に留まらないエリカは、小首を傾げてクレイグの顔を見上げました。




