出会いはベージュの靴と 1
雲ひとつない澄んだ空に、教会の屋根から鳩の群れが羽ばたいていきます。バサバサ、という羽ばたきの音と共に方々に散ったもの達が少しずつ集まって、まるで風に揺れるカーテンのようです。
その鳩達のカーテンが大きく揺れた時、教会の鐘が鳴り響きました。
小さな溜息と共に乗り合い馬車から降りた1人の女性の、顎のあたりで切りそろえられた髪が、風で舞い上がります。
女性は暴れる髪を撫でつけて、鳩の群れが飛ぶ空を見上げました。眩しいくらいの清々しい青空に、思わず目を細めて。
数回鳴った鐘の音が空気に溶けこんで、余韻になった頃。教会の大きく重々しい扉が開いて、子ども達が一斉に飛び出してきました。
その中の1人が「木登りしてから帰ろうぜ!」と言い、歓声が上がったかと思えば、数人の男の子達が庭の隅に佇む木々に向かって走っていきます。そうして彼らは青々と茂った芝生に鞄を放り投げて、我先にと木に飛びつきました。
「……コニー、もうかえる?」
やんちゃ盛りの男の子数人を一度に相手してもびくともしない木を眺めながら、赤毛の女の子が何気なく言いました。
コニーは、彼女の視線の先を辿って頷きました。ポニーテールにした茶色の髪が揺れています。
「うん。ごはんつくらないと」
そう答えて、コニーは歩きだしました。
「えー……お花のかんむり、おしえてもらおうと思ってたのにー」
「あー……ごめーん」
つられるように歩きだしたものの残念そうに呟いた赤毛の女の子に、コニーは眉根を寄せて謝りました。そのお誘いはとても魅力的なのです。花冠を頭に載せて、お姫様の気分に浸るのは大好きだから。
「じゃあ、あしたいっしょにやろ!
ね? メアリ」
魅力的なお誘いを断腸の思いで断ったコニーは、教会の門を出たところで片手を上げました。すると最初は口を尖らせていた彼女の顔が、明日ね、のひと言にパッと輝きます。
「やくそくだからね!」
鼻先から頬にかけて、そばかすの広がる彼女の顔は、笑うと真夏に咲くヒマワリのようだ、とコニーは思いました。
2人は手を振って、別々の方向へと歩きだしました。
教会のある丘の上から通りまでは、長い階段が延びています。
コニーは手すりに掴まりながら、一段一段をリズミカルに下りていきました。トントントン、と履き慣れてずいぶん柔らかくなった革の靴が、小気味良い音を立てています。
えーっとえーっと……と、コニーは頭の中に、食糧庫を思い浮かべました。
燻製にした肉と、裏の畑で採ったジャガイモがあったはず。玉ねぎは、今朝スープにしてしまったからもうなくて……。ああでも畑に行けば空豆が採れるかも知れない。
ところが順調に食材のチェックをしていたコニーの足が、唐突にぴたりと止まりました。目の前に、フラフラと歩く女性が現れたのです。
コニーの足が止まったのは、帝都の中心に続く大通りと教会、乗り合い馬車の発着場、それから警備隊の詰め所に続く通りの交わる十字路。大通りの中心は、レンガが敷き詰められています。広い帝都を馬車でも行き来出来るように、と何代か前の皇帝の世に整備されたものです。
フラフラ歩く女性に目を奪われて呆けるように見つめていたコニーは、はっと我に返りました。女性が、馬車も通る大通りの中心に向かっているのに気がついて。
「お、おねえさんっ」
駆けながら、コニーは女性に向かって呼びかけました。肩から斜めにかけている勉強道具の入った鞄が、ゴツゴツとわき腹を叩きます。
その痛みや煩わしさを無視して、コニーは手を伸ばしました。というよりも手のリーチが短いせいでしょう、半ば体当たりするように、女性に向かっていきます。
「――――そっち行っちゃダメぇっ」
ばふっ。
「え……?」
突然小さくて柔らかいものに体当たりをかまされた女性は、その衝撃でたたらを踏みながら呆然と声を零しました。そして咄嗟に受け止めてしまったものの、それが子どもであることに気づいて、困惑したように小首を傾げています。
「あの、お嬢ちゃん……」
迷子かしら、と思いつつ、女性は子どもの体を引き剥がしにかかりました。けれど、その途中で耳に残っていた台詞が蘇ります。たしか、“そっち行っちゃダメ”とかなんとか。
そんなことを思い出した女性が内心で首を捻っていると、力の限りに抱きついていたコニーが、ようやく顔を上げました。
ポニーテールにした茶色の髪が、日に当たってキラキラと輝いています。それに負けないほど、彼女の瞳は瑞々しく真っ直ぐです。
「ここ、馬車がとおるの!あぶないの!
お馬さんはきゅうに止まれないから、おねえさん、ひかれちゃう!」
必死すぎて鼻の穴が膨らんでいることは、おそらく本人も気づいていないのでしょう。
言葉よりもそちらに意識が向けられてしまうのを悟られないように、女性はかくかくと頷きました。生命力の塊のような子どもを目の前に、なんとなく気圧されたのもあるかも知れません。ともかく、子どもの一生懸命な姿を見て噴いてしまうなんて、失礼を通り越して可哀相です。
「……とにかく! 歩くならこっち!」
結局コニーに手をぐいぐい引っ張られて、女性は道の端まで移動したのでした。
「ええっと……」
コニーに手を繋ぐことを要求されて、困惑しながらも言われた通りに自分の手を差し出した女性は、言いにくそうに口を開きました。
「なあに?」
父親よりも小さな、けれど自分よりも大きくて柔らかい手の感触に、不思議な気持ちになっていたコニーは小首を傾げました。
女性は控えめに言葉を紡ぎます。
「どこに向かってるのかな、私達……?」
もっともな質問です。手を繋ぐことを要求したコニーは、彼女をぐいぐい引っ張って歩いているのですから。下手なことをしたら、幼児誘拐か何かの罪を被せられるような気がして、女性はコニーの手を振りほどくことが出来ないのです。もう帝都の道路事情については話を聞いて理解したのですが、お礼を言ってサヨウナラというわけにはいかないのでしょうか。
しかしコニーは、どぎまぎしている女性に平然と言いました。
「うちー」
「……うち?!」
けろっと言い放たれた言葉に、女性は思わず声を上げてしまいました。このままでは、この幼女の家に連れて行かれてしまうようです。
もしかしてこれ、私の方が誘拐されてるんじゃなかろうか……などと、そんなことが頭をよぎります。
女性が内心であたふた慌てていると、コニーが言いました。
「あのね、おねえさんのくつ、ボロボロだから」
「くつ……?
あ、ああ……これは、ちょっと事情が……」
胸がチクリと痛むのを堪えた女性が、口ごもりました。どうして子どもが靴の話なんか……と思う余裕もなく。
子どものコニーには、彼女が悲しそうに俯いた理由がよくわかりません。たくさん歩いて疲れちゃったのかな、なんて、それくらいにしか想像がつきませんでした。
だから、言いました。
「そっか。オトナのジジョウ、ってやつね!」
コニーはふんぞり返って、ふふん、と鼻を鳴らしました。分かってるわ、何も言わないで……そんな台詞があとから付いてきそうです。
その滑稽さに、女性は思わず噴き出してしまいました。
「ここが、あなたのお家……?」
見上げた先には、“ローグの靴屋”の文字。古ぼけた木の看板はペンキが剥げてしまったところがあり、年季が入っています。
呟いた女性がなんとなく踵を返したい気持ちになった刹那、そんなことはお構いなしのコニーが店のドアを開けました。もちろん、手は繋いだまま。
ガランガラン、とドアベルが鳴り響く店の中に女性を引っ張り込んで、コニーは元気な声を張り上げました。
「ただいまぁーっ」
「ちょ……っ、お嬢ちゃん……?!」
思わずたたらを踏んだ女性の背後でドアが閉まった瞬間、コニーはその手を離して店の奥に向かって行ってしまいます。女性が呼ぶ声はもう、耳に入らないようです。
ドアベルの余韻のなか、ぽつん、と店の中に取り残された女性は困り果てて溜息をつきました。そして、仕方なく店の中を見まわしました。なんとなくついて来てしまったけれど、コニーの保護者に挨拶をしたら店を出よう、と思いながら。
それほど広くない店内には、いくつかの棚が置かれていて、そこには何足もの靴が並べられています。男性物や女性物、子ども用の物もあります。
女性はなんとなく、その中の一足に手を伸ばしました。
「……すごい」
それは、革で出来たヒールの靴でした。女性は今までに、これほどまでに丁寧な造りの靴をみたことがありません。
自分が外に出る時に履いていた靴は、革の切り方や縫い付け方が雑でした。もっとも、全てを手作業で行うのですから、多少の歪さは残るものですが。
「立派な方なんだわ」
なんとなく、そう思いました。これほど丁寧に靴を作り、大事に棚に並べているような人物なのです。
女性は持っていた靴を、そっと棚に戻しました。
その時です。店の奥、コニーが消えていった方から物音が聴こえました。
びくっ、と肩を震わせた女性は、両手を握り合わせて店の奥を見つめます。棚にあった商品を勝手に触ってしまって、もしかしたら怒られるかも知れない。そんな思いが浮かびました。
するとふいに、コニーの声が響きました。
「――――おねえさんのくつ、ボロボロだったの!
おそうじのぞうきんよりも、ずーっとボロボロ!」
何かを必死に訴えているらしい声に、女性は慄きました。自分の靴がボロボロなのは、ここに来るまでに言われたことですから、特に驚きません。けれど、それをおそらく靴屋の店主に告げているのです。
女性は、まさか良いカモにされたのかと、軽い眩暈を感じました。きっと高価な靴を買わされるんだ。念書を書かされて、数回払いで……。想像が膨らみます。
けれどその想像力が暴走しかけたところで、低い声が響きました。
「コニー、もうちょっと落ち着いて説明してくれないかな。
全然意味が分からないんだけど……っ?」
なんだか呆れ半分な口調です。ところどころ、声が弾んでいます。
店の奥から出てくる人影が見えて、女性は姿勢を正しました。その背中に緊張が走り、思わず生唾を飲み込みます。よく分からないまま店に入ってしまったけれど、挨拶をしたらすぐ出よう……そんな心づもりで。
そうこうしているうちに、店の奥から1人の男が出てきました。
大柄で、なんだか熊のようだと女性は思いました。本物の熊を見たことはありませんが、むっくりもっさりした絵を見たことがあるのです。
こげ茶色の髪がうしろで纏められて、ぴょこん、と跳ねています。
コニーに手を引っ張られて、とても困っているようです。男は空いている方の手で、頬をぽりぽり掻きながら言いました。
「ええと、その……うちの娘がご迷惑をおかけしたようで……?」
語尾が若干上がっています。やはり事の次第がよく分からないようです。
女性はなんだか居た堪れなくなって、口を開きました。
「いえあの、違うんです……」