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次の日から、ベレッタが教会へ通ってくる毎日が始まった。
平日は朝早く、泊まっている宿屋から教会へやって来ると朝のミサに参列。ミサが終わると朝から開いている近くの食堂で朝食を済ませ、それから司祭館の書庫で歴代司祭の日誌と格闘。昼食を挟んで調べ物を続け、日が暮れると宿屋に帰る繰り返しの毎日。あまりに古い日誌だとフランス語でなくラテン語で書かれていたりするので読めないのではないかと心配だったが、初日手が空いた時に書庫へ様子を見に行ったら、彼女は何の苦もなくそうした古い記録を読みこなしていた。
聞いてみたら、ラテン語に古典ラテン語、ギリシャ語といった古典で使われる言語だけでなく、英語、イタリア語、アラビア語にヘブライ語、他にも様々な言語の読み書き、会話ができるそうで、少年時代にラテン語とギリシャ語、神学生時代にイタリア語、それとヘブライ語を少々学んだ程度の私とはまさしく別次元だった。更には各国の歴史、文化、民俗にも造詣が深く、カトリック、プロテスタントを始めとするキリスト教諸教派、その他世界中の様々な宗教について広く深い知識を持っていた。
ベレッタが特に関心を持っていたのは、キリスト教初期の他宗教との関係──キリスト教が派生する元となったユダヤ教を始め、当時盛んだったミトラ教、その他布教地の土着信仰などがキリスト教の教義や祭礼にどう影響したか、または逆にどう影響を与えたかだった。キリスト教が布教の過程でミトラ教などの密議宗教や土着信仰の教義を取り入れていったと言って驚く人もいると思うが、一般にキリストの誕生日とされているクリスマスは、ミトラ教の冬至の祭りがキリスト教に取り入れられたと考えられているし、ヴェネツィアやリオデジャネイロなどで毎年盛大に開催されている謝肉祭 も、古代ゲルマン人の春の到来を喜ぶ祭りがキリスト教の中に入って今の形になったと言われているなど、幾つも例があるのだ。
「他にも中南米ではカトリックの布教に当たって、キリスト教をその土地に馴染ませる手段として、先住民が自分達の宗教儀礼を通してキリストを信仰するのを宣教師達が認めたおかげで、今でも向こうの祭礼に土着の宗教儀礼の要素が残ってたりするんです。他にもメキシコシティの大聖堂のように、土着の宗教の神殿だった場所にキリスト教の教会を建てたりすることもありましたし」
そう説明したところで彼女はハッとなって、「すみません、このくらいのことは神父さんでもご存じですよね」とばつの悪そうな表情で言うので、
「いやいや、なかなか興味深い話でしたよ」
そう私も笑って返したのだった。
さて、ベレッタが書庫で記録の海と格闘していたのと同じ頃、彼女が初めて訪れたのと同じ日にやって来た少女と大男──アニェスとロベールの二人連れも、あれから町に留まって、主日が訪れる度ミサに姿を現していた。
ロベールはその威圧的な体格の割に穏やかな性格で町の人達とすっかり顔なじみになり、ミサの前や閉祭後、参列者の話の輪に加わるようになっていたが、対照的にアニェスは子供にありがちな無邪気さないと言うか、大人びた所があって、同じ年頃の子供達との話や遊びの輪に入ろうとしない。それでいて背伸びしているようにも見えず、むしろ自然な振る舞いであるようにさえ感じられるのだ。しかも二人とも、自分達の素性やこの街に来た目的についてはほとんど明かそうとしなかった。
「あの二人、天気の良い日は朝から晩まで町中を歩き回ってるんだけど、観光してるようには見えないんだよ」
「そうそう、何か探し物でもしてるみたいに時々立ち止まってはキョロキョロ周りを見回したりして」
「私が見た時には、磁石みたいな針が付いた板を持ってたけど、何か調べてたのかしら?」
「大体、女の子とお付きだけで、他に親とか家族はいないのかしら?」
「さあ? 訊いてもまともに答えてくれないんだよね」
町の人達でこんな調子だから、仕方なく私が直接問いただすことにした。別に探偵や警察の代わりを気取ったわけではない。あくまで聖職者として、町の人達の不安の種を取り除く助けになればと思ってのことだ。
「こんにちは、アニェス、ロベール」
ある土曜日の午後、川べりで一休みしている二人を見つけて私は声を掛けた。
「これは神父様、こんにちは」
丁寧に挨拶を返すロベールとは対照的に、
「あら神父、変わった所で会うわね」
神父は教会とセットとでも思ってるような口調でアニェスが言ってくる。
「神父と言っても人間ですからね。用事で外出することだってありますよ」
まあ私はその程度のことで腹を立てるほど人格が未成熟ではないつもりだったから、冷静に答える。
「すみません神父様、アニェス様が失礼なことを言って……」
加えてロベールがペコペコと頭を下げて謝ってくるので、私もそれ以上の追及はしないつもりだったが、
「ロベール、やたらと人に謝るんじゃないといつも言ってるでしょう?」
「あたっ!」
アニェスが言いながらロベールの足を蹴ると、彼は蹴られた箇所をさすりながら、
「ですがアニェス様、相手が神父様なんですから……」
「神父だから何? 神父なら例え向こうが全面的に悪くてもこちらが謝らなくちゃいけないの?」
「そんな極論を言ってる訳じゃなくて、敬意とか礼儀とか、とにかく失礼なことしたら謝らなくちゃいけないでしょう?」
「ロベールが些細なことでもすぐ謝り過ぎなのよ!」
「ちょっとアニェス、いくら何でも言い過ぎではありませんか?」
二人の言い争い(と言うか、アニェスが一方的にロベールを責めているのだが)に、私も黙っているわけにはいかなくて止めに入るが、
「口を挟まないで。これは私とロベールの問題なんだから」
「ですが、いくら使用人に対してとは言え、そこまで酷く言わなくても良いんじゃありませんか?」
「使用人? ハッ!」
アニェスは何を言ってるのという表情で、姿勢を低くしているロベールのみぞおちを殴りつける。
「こいつはそんな上等なものじゃないわよ。分かりやすく言えば、奴隷とは言わないにしても下僕よ、下僕」
頑丈そうな体付きとは言え急所は効いたらしくむせ返るロベールを示しながら、アニェスはそう断言した。
「下僕って、いくら何でもそんな扱いはあんまりだと──」
「良いのです、神父様」
流石に私も手をこまねいているわけにはいかず言い返そうとした所で、そのロベールに遮られる。
「申し訳ありませんアニェス様、出過ぎたことを申しました。これは神父様にではなくアニェス様に謝っているのですから良いんですよね?」
「何馬鹿な質問してるのよロベール。相手が私だからと言う以前に、私に無礼を働いたんだから謝るのが当然でしょ」
今度は下げてきたロベールの頭を殴るアニェス。
「ほら、頭を下げたまま固まってないで、そろそろ行くわよ」
「は、はいっ!」
そう言ってスタスタと歩き出すアニェスに、慌ててロベールがついて行く。そんな二人の後ろ姿を私は呆然と見ていたが、すっかり遠くへ行ってしまった所で、私は彼女達の素性を訊きそびれたことに気付くのだった──
「神父さん、浮かない顔をしてますけど、どうしました?」
教会に戻って、ベレッタに声を掛けに書庫に入ると、彼女にそう尋ねられた。
私が外でのアニェス達との経緯を話すと、ベレッタは少し考えて言った。
「もしかしたらあの二人、泥棒かも知れませんよ」
「泥棒って、そんな──」
私は否定しようとするが、
「考えてもみて下さい。こう言っては何ですけど、特に観光名所の類もないこの町で、私のような、ここにある記録が目的で毎日通っているのならともかく、何日もずっと滞在して、町中を歩き回ってるなんて、どう見たって怪しいじゃないですか。町中回って金目の物がありそうな家を物色したり、逃走経路を確保したりして、盗みの計画を立ててるんじゃありませんか?」
ベレッタの言葉は推測の域を出なかったが、あの二人のここ数日に渡る行動の理由としてかなりの説得力を持っていた。そのため私の心も危うく傾きかけるが、
「いや、君の言うことも確かに一理あるが、証拠がない以上断定はできない。そういうことを調べたり、断定するのは警察の仕事だ。我々のすることじゃない」
彼女よりも自分自身に言い聞かせるように、私は言った。私はなおも言い返そうとする彼女に先んじて言葉を続け、
「君が今言ったことは、私の胸にしまっておくから、君もこのことを他の誰にも言うべきではないと思う。いいね?」
そう言って、私はこの話題を半ば強引に終わらせると、彼女も不承不承ながら「分かりました」と答え、日誌の解読に戻る。
それから私も書庫を出て、しばらくの間細々とした仕事に掛かっていたが、突然書庫の方から「あっ!」という声が聞こえてくる。
「どうしました!?」
私は慌てて書庫へ駆け込む。
「ああ、神父さん。ほら、見て下さいここの記述」
ベレッタは椅子から立ち上がって日誌のページを凝視していたが、私に気付くとページの一箇所を指さしてくる。
「これは今建ってる聖堂の、一つ前の聖堂が建てられた時代に書かれた日誌なんですけど、その聖堂を建てるに当たって以前の聖堂を取り壊したら、床の下からガリア時代──つまりキリスト教が広まる前の土着信仰の祭祀場の跡が見つかったとあるんです!」
確かにベレッタが指さした箇所を見てみると、おおむね彼女が言う通りのことがラテン語で書き記されていた。
「つまりこれは、当時この地域の住民をキリスト教へ教化する際、土着の信仰を吸収、征服するため祭祀場の上に教会を建てたということです!」
喜々として話すベレッタ。その後も彼女は「当時の教会の大きさから考えて、祭祀場の置かれた正確な位置は……」などと独りごちながら日誌と格闘を続け、私も我がことのように嬉しい気分で書庫を出て自分の仕事に戻るのだった。
その夜、いつものように夕食を済ませてからしばしの間本を読み、就寝前の祈りを済ませるとベッドに入ったが、何故か普段よりも早く目が覚めてしまい、目を閉じても全く眠れそうになかったので仕方なくベッドから出る。
時計を見るとまだ午前三時を回ったばかりで、当然まだ夜も明けてない。私は僧衣に着替え、普段の起床時間までの間聖書を読もうと考えながら眼鏡を掛けると、隣の部屋から微かに物音が聞こえてくる。司祭館の手伝いをしてくれている家政婦が来るのはもっと後の時間だし、そもそもこんな時間にこそこそと入ってくること自体が怪しい。
私は極力音を立てないよう注意しながらドアを開けると、足音を忍ばせて寝室を出る。廊下を見ると、隣の部屋のドアは開け放たれており、先程聞こえた音が私の空耳ではなかったことがはっきりした。私はそっと開いている入口から部屋を覗くと、明かりの付いてない部屋の中で書棚をあさっている人影を見つける。
「そこで何をしているんですか!?」
私は強い口調で尋ねながら部屋へ足を踏み入れると、右手を伸ばして壁を手探りし、電灯のスイッチを入れる。
電灯が付いて部屋が明るくなると、書棚をあさっていた人影がはっきり照らし出される。動きやすさを重視した感じの黒い服に身を包み、頭には黒い帽子を被った全身黒ずくめの服装。書棚をあさっていたこともあって、明らかに泥棒が目的で入ってきたのだと私は確信する。それで昨日の昼間、ベレッタからの忠告が頭をよぎる。だがアニェスにしては背が高いし、ロベールにしては背も体格も小さかったから、あの二人の可能性は瞬時に消えた。
「こちらを向きなさい」
今思えば、泥棒に出くわした場合、他に執るべき手段があったのだろうが、その時の私には泥棒の正体が気になっていたので、顔を見せるよう指示したのだった。
だが、人影は口に手を遣ると指笛を鳴らし、何をする気かと思った途端、いきなり後頭部に強い衝撃を受け、私は床に倒され昏倒する。意識が途切れる直前、私の視界に入ったのは、ようやく私の方を向いた人影、忌々しげにこちらを見るベレッタの顔だった──