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「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝を捧げて祝福し、割って、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である』」
私は祭壇上の皿から取ったパンを掲げ、会衆に見せる。
それからパンを皿に戻し、次いで祭壇から杯を取ると、同じように掲げて見せる。
「食事の終わりに同じように杯を取り、あなたに感謝を捧げて祝福し、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなた方と多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい契約の血である。
これを私の記念として行いなさい』」
パリでエミリー・ベレッタと壮絶な戦いを繰り広げた夜が明けた次の朝、私は聖堂でいつものようにミサを挙げる。あの戦いで何度も死にかけたのがまるで夢であったかのように、全く変わらない、いつもの朝の光景。だが、未だ手に残る死霊人形達と切り結んだサーベルの感触や、目に焼き付いているベレッタを焼き尽くした爆炎の色が、夢ではなく現実に起こった事なのだと私に伝えてくる。それでも私は何事も無かったかのように、いつものようにミサを進める。それが聖職者としての務めだから。
そして聖体拝領に入ると、並んでやって来る信徒達一人一人に聖体となったパンをいつものように配る。
「キリストの体」
前に出る信徒に私は唱え、
「アーメン」
そう答える信徒に私はパンを渡す。
歳は十代前半と言った所、腰まで届く長い黒髪に黒い瞳、東洋人の割には白い肌、小柄な体にたくさんのレースやフリルで飾られた黒いドレスを纏った少女、アニェス・紅は微笑みながら──下僕の勤勉さを感心する笑み──パンを両手で受け取った。
「いらっしゃい、ローラン」
その夜訪れた私を、アニェスは食堂の椅子に座してご機嫌で出迎える。
「随分とご機嫌だな、アニェス」
「当たり前よ。剣は完成したし、危険な女も死んだから、今夜はお祝いよ」
私の問いにそう答えるアニェスの前の、白いクロスに覆われたテーブルの上には銀製のナイフ、フォーク、スプーンが号令を待つ兵士の如く整然と並べられていた。
「ほら、いつまでも突っ立ってないで座りなさい。ロベール、料理を出して!」
アニェスに促されて彼女の対面の椅子に座ると、間もなくロベールが台車を押して入ってくる。
「いらっしゃいませ、神父様。今夜はどうぞ祝いの料理をお楽しみ下さい」
そう一礼すると、ロベールは私のグラスにワインを、アニェスのグラスに水を注ぐ。
「白身魚と野菜のテリーヌでございます」
続いてそれぞれの前に出されたテリーヌは、緑色の縁取りがされた白い皿に乗せられ、ピンク色のソースとの色彩が目にも鮮やかだった。
「さあ、お腹も空いたし早く食べましょう」
そうアニェスに勧められて私がテリーヌにナイフを入れると、アニェスも待ちきれなかったようにナイフとフォークを取った。
その後も空豆のポタージュスープ、子羊のロースト、サラダと続き、いずれも私がこれまでに味わった事の無い美味であったのみならず、盛りつけや色合いも食器と見事な調和を成し、すべての要素の良さが最大限に引き出された、そういう品ばかりだった。
最後にデザートのアイスクリームを味わっている時、
「ところで、隕石で剣を作るのが君の目的だったんだろう。これからどうするんだ?」
ずっと気になっていた事を、私は尋ねる。
「そうね、とりあえず目的は果たしたから、しばらくは腰を落ち着けて、好きにやらせて貰うわ」
アニェスはそう返すと、後は何も言わずにアイスクリームを食べ続ける。剣を作るという目的のために、幾つも騒動を起こし、私も何回も死にかけたというのに、この先もし彼女が言う所の『好きなように生き』たら、何が起こるのか想像しようとしたが、寸前に心が拒絶して思いとどまる。
「そう言えば、ネクロスの断片はあの死霊人形の邪法が記されたというものの他にも、まだ沢山有るんだろう?」
私は話題を変えようと、生前のマティルダに最後に会った時、彼女が話してくれた内容を振る。
「ええ。おまけにあの死霊人形の邪法も、ベレッタが死んで、また次の誰かに断片が渡っているはずよ」
不愉快そうに気持ち眉を寄せ、自分でも確認するようにアニェスは答える。
「ではいずれ、あのような事がまた起きる、と言う事ですか?」
紅茶をテーブルに置いたロベールが、不安を露わにする。
「だから何だというの」
アイスクリームを食べ終えたアニェスが、紅茶を一口すする。
「地球の反対側で死霊人形の群れが戦争を起こしたって、私の知った事じゃないけど、もしまた私の前に立ち塞がるのがいたら──」
紅茶のカップをソーサーに戻し、アニエスは続けて言った。
「相手が誰でも何人でも、倒して進むだけよ」
これが、後に冷戦時代のヨーロッパの裏側で、多くの裏社会の住人や、各国の情報機関を騒然とさせる少女、アニェス・紅の名前が世に現れる最初の物語だ。
舞うが如き華麗な剣技で敵を斬り伏せる剣士、世にも稀なる名剣の作り手、食に対し飽くなき追求を続ける美食家、そして冒険家。
多くの人々から好かれ、愛されたと同時に、尋常でない数の人々から嫌われ、憎まれた。
絶体絶命の危機に陥っても諦めやパニックを起こさず果敢に立ち向かった一方で、些細な事で癇癪を起こす事など日常茶飯事。
優雅と暴力、悟りと享楽、聡明と無謀が混沌の如く同居しながらも、一個の人格として成立し、何者にも媚びず、何者をも恐れず、自分の思うがままに道を突き進む自由人──それがアニェス・紅という少女だった。
隕石から作った剣を振るい、時にまばゆく、時に激しく、夜空に輝く星の光のような、宇宙を疾る流星の炎のような生き様故に、“星の剣舞姫”の二つ名を後に冠せられる少女。
彼女の下僕にされた事で、私が教会で祈りの日々を送る生活では遭遇するはずのない、奇想天外な日々にこの先も巻き込まれ、翻弄される事になるかについて語るのは、また後日のことにしよう。
明かりの付いていない暗い部屋。
中央に置かれた椅子に座る女の人影。
壁の一面に開いた窓から漏れる月光に照らされたその髪は光を紡いだような金髪で、純白のドレスから覗く手足は透き通るように白く、眠っているように目を閉じてうつむいたその顔は、芸術家の手による絵画か彫刻のように美しく整っていた。だが彼女は精緻な彫刻が随所に入ったアンティークチェアに座ったまま微動だにしないどころか生気が全く感じられず、それが極めて精巧に作られた人形だと気付くには、よほど鋭い観察眼か、多少の時間を必要とするだろう。
だが、月明かりの下で、彼女の長いまつげに縁取られた瞼が、ゆっくりと開かれる。宝石のように碧い瞳が、スカートの上に重ねられた白く小さな手を映すと、彼女は優雅な刺繍が施された椅子のクッションから背を離し、スッと立ち上がる。
それを合図のように天井の照明が灯り、部屋を明るく照らす。前に置かれた大きな姿見が、彼女の姿をはっきり映すと、姿見に映る顔が喜色に輝く。
「成功した……あの術が……」
彼女は姿見に歩み寄り、より間近で自分の顔を舐めるように見つめる。
ネクロスの断片に記されていた術を研究、発展させて作り上げた、自身の体を人形のそれに置き換える技術の最終形──自身の魂を人形に移す術。発動に必要な最後の手順は『生身の肉体が死ぬ事』で、失敗すれば取り返しが付かないので本当に最後の切り札、保険として準備しておいたのだが、目論見通りに行った事に安堵と幸福感に満ちた表情で鏡に映った自身の新しい体を見る。
「私、解放されたのね……あの醜い肉体からも、老いからも……」
感慨深げに呟くと、彼女は口の端をニタリと吊り上げ、窓へ向き直る。
「今回は失敗したけど、私はこうして生きている。寿命も死も克服した今の私には、次の準備をする時間は幾らでもある。例え次が失敗しても、新しい体に移って次の次がある。例え何度失敗しても、どれだけ年月が掛かっても、最後は私が最も強大で、最も美しい神として君臨するのよ!」
窓越しに空を仰ぎ、彼女は笑う。
心底愉快そうに声を上げて。
発声器官の限界まで絞り出された高く、大きな笑声が、部屋に響き渡った──
こんにちは、たかいわ勇樹です。
前回の更新から約1ヶ月、星の剣舞姫」第5話「グラン・ギニョルは炎のようで」7をアップいたしました。
今回エピローグをお送りしまして、「星の剣舞姫」のストーリーはここで一区切りとなります。
ですが、これでお終いというわけではなく、近いうちに続きのストーリーをお送りしたいと思ってますので、気長に待っていただけると有り難いです。