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「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝を捧げて祝福し、割って、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体である』」
私は祭壇上の皿から取ったパンを掲げ、会衆に見せる。
それからパンを皿に戻し、次いで祭壇から杯を取ると、同じように掲げて見せる。
「食事の終わりに同じように杯を取り、あなたに感謝を捧げて祝福し、弟子に与えて仰せになりました。
『皆、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯、あなた方と多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい契約の血である。
これを私の記念として行いなさい』」
主イエス・キリストが弟子達と囲んだ最後の晩餐を記念するために、私達聖職者は日々ミサを挙げる。今はそのミサの中で最も重要と言える、聖変化のくだりに入っていた。これによって、ただのパンと葡萄酒は聖体と聖血、つまりキリストの体と血に変化するのだ。もちろん外観や科学的組成は変わらず、昔から批判はあり、これからもなくなることはあるまい。しかし、概念としては確かに変化するのであり、この聖変化がミサからなくなることもないだろう。
ミサが進むと聖体拝領に入る。並んでやって来る信徒達一人一人に対し、私は「キリストの体」と唱え、「アーメン」と答える信徒に、聖体となったパンを配るのだ。
並ぶ人達のほとんどは町の住人達。かつては“教会の長女”と呼ばれていたフランスも、昨今は若い世代を中心とした教会離れが問題になっているが、当時はまだ多くの住人がミサに集まってきたものだ。他に旅行者などが混ざることもあったが、パリの郊外と言っても取り立てて著名な観光名所もない町だったから、商用で来た者か、あとは徒歩やヒッチハイクの途中で立ち寄る者などが一人か二人、時たま来る程度だった。
そんな所に見知らぬ東洋人の少女が親子連れでもなくやって来れば、目立つなと言う方が無理だろう。
年はせいぜい一〇から一二、三歳といったところ。腰まで届く長い黒髪に黒い瞳、東洋人の割には白い肌をした小柄な少女だ。身に纏っている黒いドレスもたくさんのレースやフリルで飾られており、この服装も違った意味で他の参列者から浮いていた。
流石に親子連れでないとは言っても一人ではなく、大人の男と一緒だったが、これもまた普通ではなかった。
身の丈は他の大人と比べても頭一つ飛び抜けていて、それに比例して肩幅も広いがっしりとした体格を黒のスーツとアスコットタイで固めた姿。これだけでも十分目立つというのに、更に驚くべきは、彼が東洋人ではなくどこから見てもヨーロッパ系の顔立ちで、それが従者か執事の如く彼女に付き従っているということだった。
人種的に東洋人が西洋人に劣る、などという考え方は毛頭無いが、当時はまだ東洋人が西洋人に仕えることはあっても、その逆はあり得ないという考えがステレオタイプとして未だ根強く残っていたから、体の大きさの差も相まって二人の取り合わせはとても異様に見えた。
やがて聖体拝領を終えてミサは閉祭となり、私は僧衣の上に着ていた祭服を脱いで、ミサの後も残る信徒達としばらく会話する。例の二人も町の人達からどこから来たのか、何の用かなどと訊かれていたが、男の方は礼儀正しく相手しながら質問の答えについてははぐらかしていたのに対し、少女の方は相手をするのも面倒らしく、隅の方で男が話を終えるのを待っていた。だが、待ちきれなかったらしく男の側へ歩いて行くと男の背中を無言でつねった。
「いつまで話してるのロベール。さっさと戻るわよ」
痛さに振り向く男に、少女はそう言ってさっさと歩いて行く。
「申し訳ありませんアニェス様、只今参ります」
ロベールと呼ばれた男は文句も言わず、去っていく少女の後へついて行った。
そして二人の姿が見えなくなると、人々の話題は彼らのことになる。
「一体何なんだろうね、あの二人は?」
「男の人の方はロベールと言ってたからフランス人なんでしょうけど、問題は女の子の方よね」
「アニェス様とフランス語の名前で呼ばれてたけど、あれはどう見たって東洋人だぞ」
「その割には綺麗なフランス語だったから、この国在住なのかも知れないな」
「となると中国人の可能性が一番高いな」
「でも中国人だったらパリの中華街から離れて何でこんな所まで来たのかしら?」
「さあなあ」
何しろ情報が少ないからろくに推測もできず、話は次第に別の話題へ移っていった。
町の人達が帰って昼食を済ませると、私は聖堂の側に建つ司祭館で事務仕事をする。
赴任後一ヶ月ほど務めて、私はこの教会の現状──信徒達の信仰心、暮らし向きや、教会を取り巻く聖俗様々な問題などがおおよそ把握できていた。内にも外にも大小様々な問題があったけれど、最大の問題は午前もミサを挙げた聖堂にあった。
十八世紀後半に建てられた石造りの聖堂は大きさこそパリのノートル・ダム大聖堂には遠く及ばないが、空へ向けて高く張り出されたリブ・ヴォールト様式の天井や整然と立ち並ぶ柱、色鮮やかな窓のステンドグラス、派手さこそないが緻密な細工の施された祭壇などが織り成す調和が当時のゴシック・リヴァイバルの特徴を色濃く残し、神の家としてふさわしい荘厳、壮麗な佇まいを形成していた。しかし、百年にも渡る年月は確実に建物全体を老朽化させており、今は所々で壁の漆喰のひび割れや石材の痛みが現れている程度だが、早いうちに全体的な修復工事が必要なのは明らかだった。とは言えそのためには金が、それも教会の予算からすれば膨大な金額が必要で、無論ミサなどの度に修復のための献金を求めてはいるが、帳簿に記入された金額を見て、私はつい溜め息をついてしまう。私より前の歴代主任司祭もこの問題に頭を悩ませながら、遂に解決することができず、己の無力を噛み締めながら後任に後を託していったのだった。
修道生活や聖痕で知られるアッシジの聖フランチェスコが、崩壊寸前だったサン・ダミアノ聖堂を再建するために自ら一つ一つ石を積み上げていったように、ここの聖堂の修復も一歩一歩着実に実現へ向けて努力しなければならないとは分かっていたが、それでも一日も早く費用を集め、修復させたいと思うのは、聖職者とは言えまだ三〇そこそこの若者にとってごく当たり前の野心だろう。
しばし私の意識は未だ実現の目処が立たない聖堂修復の未来図に飛んでいたが、玄関から聞こえる呼び鈴の音で唐突に現実に引き戻される。
「はい、今行きます」
私は思考を中断して玄関に向かう。来客の予定はないし、何か届け物だろうかと思いながらドアを開けると、一人の若い女性が立っていた。
年の頃は十代後半から二〇代と言ったところ。均整の取れた身体を女性的ながらも動きやすそうな服装に包んで、ショートカットにした金髪が更に活動的な印象を与える。見覚えがないから、この町の人ではなさそうだった。
「こんにちは。ここの教会の神父さんですか?」
女性は私の僧衣姿を見て、そう挨拶をしてくる。
「はい、私がここで主任司祭を務めるローラン・ボードワンですが、あなたは?」
「申し遅れました。私、エミリー・ベレッタと申します。実は神父さんにお願いがあって参りました」
「お願いですか?」
怪訝そうに私は尋ねた。金やコネ、地位の類があるわけでもない、しがない教会勤めの神父である私にわざわざ何を頼みに来たというのか? ともあれ立ち話も何だから、中で詳しく話を聞こうと思い、私はベレッタと名乗ったその女性を中に招き入れた。
「どうぞ」
私はベレッタを応接室に案内すると、二人分コーヒーを入れて私と彼女、それぞれの前に置く。
「ありがとうございます」
ベレッタはコーヒーカップを取って一口すすると、話を切り出した。
「実は、お願いというのはこちらで所蔵している本のことなんです」
「本、ですか?」
「はい。私はこの国のキリスト教史を研究してまして、こちらで所蔵している本を是非調べさせていただきたいんです」
彼女の言葉に引っかかるものがあったので、私は気になって尋ねる。
「そういうことなら、言っては何ですがこんな小さな教会よりも、パリの図書館や国立古文書館の方が史料は充実しているでしょう?」
「いいえ。私が見たい史料はそういう所にあるのとは違うんです」
彼女は首を横に振る。
「私は実際に司牧の現場で働いていた聖職者による記録が見たいんです。こちらの教会では代々の神父が書いた日誌が、かなり古い時代から保管されていると伺ってます」
彼女の答えに、私はようやく納得がいった。
「なるほど。確かに代々の神父による日誌が書庫に仕舞ってありますけど、今の聖堂に建て替わる前のもあるそうですから数百年分もあって、調べるとしたら膨大な量になりますよ」
「何日かかっても構いません。ご迷惑はおかけしませんから」
「しかし……」
そう私が渋るのは予想していたらしく、ベレッタは服のポケットから小切手を取り出して私の前に突き出した。
「ささやかな額ですが、教会の運営費などにお使い下さい」
彼女は平然と言ったが、小切手に書かれていた額面は、ささやかと言うにはあまりにも多すぎた。
「そう言われましても、こう言っては何ですがあなたのような若い女性が気軽に出すような金額では……」
「ご心配なく。両親が十分な遺産を残してくれましたから。それに、これは神父さんにではなく教会に、つまり神様にお出しするお金なんです。それを神父さんが断るいわれはないはずですよ」
「むぅ……」
ベレッタの理屈と押しの強さに、私は押し黙るしかなかった。一九七〇年代以降、フランスで起こったフェミニズム運動も当時は広まる途上だった中、彼女のような女性は私にとって初めて見るタイプだった。誤解の無いように言っておくが、私は彼女に男としての欲望は誓って抱いてない。ただ、彼女の積極的で果敢な行動が、学問に対する情熱に裏打ちされたものと感じ、好感を抱いたことは否定しない。その時は本当にそう思い、疑わなかったのだ。
そして、彼女から受け取った小切手が、聖堂修復の実現に向けて大きく前進させてくれると思うと、献金という名目の、最後の一押しだと分かっていても、若かった私は受け取らずにいられなかった。
それが私を『常識』の外へ誘う切符になるとも知らずに──