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人は何かに執着する傾向のある生き物だ。
良くある例では財産や地位、服や装飾品、家族や恋人などを求め、手に入れれば手放すこと、失うことを怖れ、拒み、もっと手に入れようとする。そうした執着がエスカレートして盗みや暴力、殺人などの事件が起きるケースは歴史上という大きな視点で見るまでもなく枚挙に暇がないし、それらの最たるものが戦争ではあるまいか。
そのためキリスト教を初め、多くの宗教が物事に執着することを戒めているが、一方で物事に強く心惹かれることで、例えば恋をして、結婚して、子を為して作られた家庭は祝福すべきものだし、一つのことに懸命に努力して学問やスポーツ、芸術などの分野で立派な業績を上げた者は言うまでもなく、例えひとかどの業績を上げられなかったとしても勤勉に、誠実に生きた者は尊敬されこそすれ軽蔑されるものではない。私達カトリックを初めとするキリスト教にしても、古代に幾度も激しい迫害を受け、多くの殉教者を出してきたが、それでもなお迫害や死を怖れず信仰を守り続けた人達のおかげで今日世界中に広まっているのだ。
つまり方向を間違えず、理性を失わず、常に神の言葉を心に留め、強い意志を持って自分の道を邁進し、やがて時が来たならば安らかに神の元へ行けるよう、財産や生への執着を捨てよということなのだろう。
だが現実はそう簡単に執着を捨てられず、死ぬ寸前に至っても財産にしがみつき、他人への愛欲や憎しみを抱き続ける者さえいるのだから、キリストの教え通りに生きるというのは誠に難しいと思い知らされる。
中には死後もなおこの世に執着を残し、霊となって留まる者もいて、そうした者達が見えることが、私に聖職者への道を歩ませるきっかけでもあった。
そして、更にその中には執着が強すぎる余り、その者が生きている、死んでいるを問わず人や世界に多かれ少なかれ影響を──大抵の場合は災厄という形で──及ぼすことがあり、私はアニェス・紅と共に多くの事件と戦いに関わってきたが、それは同時に幾多の、且つ様々な形の執着を見るということでもあったのだ。