プロローグ
世の多くの人々は私、ローラン・ボードワンを、いかなる逆境に於いても決して揺るがない神への信仰心と、人類の救いを真剣に願う慈愛、そのために行動し継続する行動力と意志を併せ持つ高徳の聖職者と讃える。しかし私が自分をそのように思ったことはただの一度もない。
私は高貴な家の生まれでもなければ、イエス・キリストのような神秘的な伝説を持って生まれてきたわけでもなく(他に表現が思いつかなかったから仕方ないが、キリストと私自身を比較することさえ傲慢ではあるまいか)、賞賛を浴びるに値する天賦の才を備えているわけでもない。私はただ、たった一つの、それも周囲の人はまず持つことがない悩みを幼い時から抱え、それから解放される手段を探し求めた末に聖職者の道を選び、欲するものを探すためと、選んだ道に伴う責任を果たすために必要な努力を長い年月を掛けて地道に重ね、それでもなお今以て悩みを完全には解決できていない、おおむね平凡な男に過ぎない。
パリ市内の病院に勤務する外科医であった父は、仕事の都合上主日のミサに出られないことがしばしばだったし、母は毎週主日のミサやその他重要な行事のために私と兄を教会へ連れて行ったが、実情は医者の妻として果たす付き合いの枠を出なかった。
私自身はと言えば、勉強はトップクラスとはいかないが中の上から滑り落ちることはない程度にできて、スポーツは苦手ではないが学校の友人達とのサッカーに積極的に参加するよりは、室内でじっくり本を読んでいる方が好きな、どこのクラスにも一人はいるような内向的な少年として育った。それでもデュマの『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』に心を躍らせる、年齢相応の冒険心も持ち合わせていたが。
そんな私が聖職者を志したそもそもの理由は何かと訊かれたら、私はいつも「いつ目の前に道に迷った魂が現れても、天国への道を示せるようにです」と答えている。ほとんどの人は私の回答を、司牧への熱意と使命感から来るものと思っているようだが、生憎ながらそのようなご大層なものではない。何しろ言葉の綾や言い回しなどではなく、本当に死んでもなお天に召されず地上をさまよっている魂が見えるのだから。
部屋や道の片隅に立っている人の姿が見えるのだけれど、他の人に話してもそんな人はいないと言われる。物心ついた時から私にはそんなことが度々あって、何度も親や学校の先生に注意されたり時には叱られたりした。そんな不可思議な体験を繰り返して八歳になる頃、どうやら私には他の人には見えない人間の魂──いわゆる霊が見えるらしいということに気付いた。
もちろん周りの大人のほとんどはそんなことを信じてくれるはずがなく、殊に職業柄非科学的なことに批判的だった父からは、「霊がいるなんて思うから、何でもない影や模様が霊に見えるんだ」などと叱られた。しかし、ただの影や模様が、私が見ていることに気付いて近づくだろうか?
彼ら霊の多くは、自分の存在に気付いてくれる人がいると構って欲しいのか、それとも自分が召天できない原因を解決して欲しいのか、理由はともかくまとわりついてくる傾向にある。だが私には霊を見ることはできるがそれだけで、霊が何か言ってきても聞き取ることはできず、触ろうとしても霊は私の体をすり抜けてしまう。そういうわけで時間の長短の違いこそあれ、意思の伝達ができないと分かれば霊は最終的には私から離れていくのだが、まとわりついている間はうっとうしくて仕方がなかった。
けれどそんな霊達も、教会では流石に神への畏れからか、はたまた聖堂内の荘厳な雰囲気に打たれてか、一様におとなしくしていていた。なので、主日のミサなどで教会にいる間は私にとって一時ではあるが霊達から解放される安らぎの時間だった。私はできるだけ長い時間教会にいられるよう、聖歌隊に参加し、侍者を務めるなど、教会の活動に積極的に参加した。
この侍者というのは、ミサなどの典礼で祭壇や、典礼で使うパンや葡萄酒、祭器や祭服を準備し、典礼の時には神父の祈りに受け答えをしたり、特定の箇所でベルを鳴らしたりして神父の手伝いをするのが役割で、ミサ答えとも呼ばれている。私が少年だった頃のローマ・カトリックの典礼は世界中どこの教会でもラテン語で捧げられることになっていて、当然侍者の受け答えもラテン語で行わなくてはならず、私も最初はそれらを丸暗記するだけだったが、意味が分からないなりにできるだけ美しく聞こえるよう一生懸命発音を練習して、神父に気に入られようとしたものだ。
私が少年時代通っていた教会には責任者である主任司祭と、それを補佐する助任司祭の他にもう一人、ジャック・イノー神父という年老いた司祭が住んでいた。イノー神父は長年に渡って司牧活動に従事して、既に一線を退いていたが、体が動く限り神と教会と信徒のために尽くしたいと希望して、信徒の告解を聞いたり、洗礼式や結婚式を司式したりと、老いてなお精力的に聖職者としての勤めを果たしていた。
あれは私が一〇歳だった年の六月、燦々たる日差しの下で木々が葉を繁らせ色とりどりに花が咲き誇る、一年で最も心地よい時期の、ある午後のことだった。
その日も私はミサの侍者を務め、日曜学校が終わって他の子供達が家に帰った後も、私は聖堂内で一人信徒席に座って祭壇を眺めていた。とは言っても人並み外れて信仰心が篤かったからではなく、ただ外に出て霊にまとわりつかれるのが嫌だったから、夕方になるまで教会で時間を潰すのが、当時私の休日の習慣だったのだ。
祭壇や、そこに飾られた十字架の細工を見るのも飽きて、今度は壁に掛けられた、キリストが十字架に掛けられるまでの道のりを表す『十字架の道行』と呼ばれる一四枚のレリーフを順繰りに見ようとしたら、イノー神父が入ってきた。ミサはとっくに終わっているのに何の用だろうと思っていたら、神父は私の方へ歩いてきた。当時イノー神父とは疎遠ではないにしても、特別に親しいわけでもなく、司祭と侍者の関係を出ることは無かったから、困惑の度は一層増した。
「やあローラン」
しきりに考えていた私に静かな声で、イノー神父は声を掛けてきた。
「何ですか?」
私はそう尋ねた。愛想のない尋ね方とは思ったが、他に尋ねようがなかったので仕方なかった。だが神父は気にする様子も見せずに言った。
「うむ、まだ子供なのに親のしつけなどでなく自分から足繁く教会に通うなんて珍しいと前から思ってね。他の神父達も侍者の務めなどを実に熱心に務めていると褒めていたよ」
「それはどうも」
「私もこの歳まで長いこと生きて、神と教会に仕えてきたなりに多少は人を見る目が備わっているつもりだ。確かに君は侍者やその他、何かにつけてよく働いてくれている。けど、それが純粋な信仰心によるものにはどうしても見えない。何か他に理由があって、教会に来るための口実として働いているようにしか見えないのだよ。もしそういう理由があったとしたら、私に話してくれないか?」
神父の口調は普段と変わらない穏やかなものだったが、私を見つめる視線はいつになく真剣で、口先だけのごまかしは全て見抜かれそうだったので、私は自分の中にある真実を、簡潔に答えた。
「霊が見えて、まとわりついてくるけど、教会の中ではそうならずに済むからです」
言った途端、私は『ああしまった』と思った。どうせ父や他の大人達と同様、信じてくれるはずがない。下手をしたら今後侍者の仕事などができなくなるだけでなく、教会へ通うのにも支障が出るかもと不安に駆られていたら、神父は僧衣の懐から聖書を取り出し、私にその上に手を置くよう促した。私は言われるままにすると、神父はミサの祈りの如く厳かに尋ねた。
「ローラン、今言ったことは神に誓って本当だね?」
私は即座に答えた。
「はい、本当です」
それを聞いて、神父は満足げに頷いた。
「よろしい、では信じよう。けどこのことは、君がここへ来る理由も含めて二人だけの秘密だ。いいね」
「分かりました」
私がそう約束すると、神父は頷いて去って行った。両親さえ信じてくれなかった私の悩みを真面目に聞いてくれて、なおかつ信じてくれたことが、私はとても嬉しかった。
このことがあって以来、私はこれまで以上に教会の手伝いを意欲的に務め、特にイノー神父には自分から率先して手伝いを申し出るなどして、神父もそんな私のことを実の孫のように可愛がってくれたものだった。私と神父は、年齢こそ離れていたが、信頼とも友情とも取れる、ある意味実の家族以上に結ばれていたと思う。
しかし、そんな満ち足りた関係も僅かな間だけだった。
ちょうど私が小学校を卒業する頃、神父は病に倒れ、もはや回復は絶望的であることを、大人達は明言こそしなかったが、言葉の端々、声の調子や表情から察することができた。
神父が亡くなる三日前、神父の強い希望ということで私は神父が入院する病院に呼び出された。私自身も神父が生きているうちにもう一度会いたかったので病室に行くと、神父は私以外の見舞い客や医者に退室を願った。そうして二人きりになると、病で痩せ衰えながらもなお力を失ってない目で私を見つめ、弱々しくもしっかりした口調で尋ねた。
「ローラン。まだ、霊は見えるかい?」
私ははいと答えると、神父は頷き、一呼吸置いて話し始めた。
「私は長い年月を聖職者としての務めに捧げてきた。その間、多くの人と出会ってきたが、貧困、病、他にも色々な原因で苦しむ人は少なくなかったし、亡くなる時も、心残りがないというのは本当に稀で、家族やその他に未練を残しているのをたくさん見てきた。君が見えるという霊は、多分そういう人達の魂なのだろう」
神父は疲れたのか一旦言葉を切り、一呼吸置いて続けた。
「私が聖職者への道を選んだのは、私自身の希望もあったからだが、それだけでなく、神の側から私を召し出そうとする意志を感じたからだ。カトリックではこれを召命と呼んでいるが、これがなくてはどんなに人間の側が強く希望しても、聖職者になることはできないとされている。
君が霊を見ることができるというのも、単なる偶然ではなく、神が目的を持ってそうされたのかも知れない。そしてそれが、君に対する召命なのかも知れない」
「聖職者!?」
それまで私は目の前のことで精一杯で、将来を漠然としか考えてなかった。だからいきなりそんなことを言われたら、困惑するなと言う方が無理だろう。
「まあ、それが召命かどうか、私が断言することはできない。判断できるのは君自身しかいない。ただ、今のまま避け続けていては、霊の未練は晴れないし、君の悩みも根本的に解決はすまい。しかし、逆に考えれば、霊が見えるなら、迷える魂に天国への道を示すことだってできるだろう。
だが、そのためには生きている人間に天国への道を示すのと同じくらいか、もしくはそれ以上に高度な術を身に付けなくてはなるまい。そのためには、神学を修め、聖職者になるのも一つの方法だということだ。何、心配することはない。もし本当に君のその能力が神からの召命であるならば、途中いくら悩むことがあっても、最終的に君は聖職へ進むことだろう。逆もまた然りだ。
ともあれ、君が将来どんな道を進むことになっても、信仰だけは大切にして欲しい。そこに聖書があるだろう?」
私がサイドボードに置いてあった革張りの本を取って、神父に渡そうとすると、神父は首を横に振る。
「君にあげよう。形見に受け取って欲しい」
思いもしなかったことに、私は目を丸くした。当時は平信徒が聖職者の指導なく聖書を読むのは、誤った解釈を引き起こす原因になるという考えから、推奨されざる行為とされていて、ましてまだ一一歳の子供に聖書を譲るなど、普通ではあり得ないことだったからだ。おかげで神父の話が終わって他の大人が病室に戻って来た時や、家に帰った時など、説明するのが大変だった。
こうしてその日、イノー神父によって、聖職者への道が、子供だった私の前に示された。もちろん私が最終的にその道を選ぶまでにはいくつもの紆余曲折があったわけだが、至って平凡なことばかりで聞いても面白くないだろうからここでは話さないでおく。ただ、その間も侍者の務めはイノー神父が亡くなった後も続けていたし、小学校を卒業後に進学した中等教育前期課程では古典語の授業で神学を学ぶのに欠かせないラテン語とギリシャ語を勉強するなど、相変わらず教会との関わりは続いていた。
そんなわけで、私が中等教育後期課程を卒業し、大学入学資格試験にも合格して神学校への進学を希望した時、周りの人達の反応はおおむね「やはりそうするか」というものだった。この頃になると、動機を訊かれたら、始めにも言った通り「いつ目の前に道に迷った魂が現れても、天国への道を示せるようにです」と、曲がりなりにも神に仕えることを志した身で嘘をつくなどもっての外だが、言葉を選ぶくらいはできるようになっていた。家を継ぐ立場でなかったのも幸いして、私の希望は特にこれと言った障害もなく容れられ、私は黒い僧衣を身に付け、神学校で司祭になるための勉強を始めることになった。
一九六二年、時のローマ教皇ヨハネ二三世によって第二ヴァチカン公会議が開催された。教会の『現代化』をテーマにおよそ一世紀ぶりに開催された公会議は、全世界から枢機卿、司教、大修道院長といった議決権を持つ公会議教父達や、顧問を務める神学者、更にはカトリック以外の教派の代表者までもがオブサーバーとして招かれ、参加者二千人以上という、史上空前の規模となった。
会議では典礼、教会論、聖書と啓示、司教のあり方についてなど多岐に渡る議案が討議され、変革を嫌う動きは教皇庁の高官を中心としてあったが、世界各国の教会で司牧に携わる聖職者とそれらに後押しされた司教達の変革を望む動きはそれ以上に大きく、激動する世界に教会はどう対応するべきか、どれを変えるべきか、反対にどれを変えずに残すべきか、活発な議論が交わされた。無論一神学生に過ぎなかった私が公会議に関わることなどなかったが、教会が一つの時代の節目にさしかかっていることを肌で感じ取り、勉学の合間や食事の席で学友達との話題に乗せることもしばしばだった。
公会議は合間に数ヶ月の間隔を置きながら四回の会期に分けて続けられ、残念ながらヨハネ二三世は第一会期の終了後、公会議の終わりを見ることなくこの世を去ったが、次に教皇に選出されたパウロ六世が会議を引き継ぎ、一九六五年、公会議は終了した。会議中や閉会後に成立した教令などによって、教会では多くの変革が為されたが、最も目立った変化はミサを始めとする典礼においてだろう。
先程も話したが、かつては典礼は世界のどこでもラテン語で行い、ラテン語が分からない信徒は意味も分からずに拝聴するだけだったが、公会議後は現地の言葉で行われるようになり、多くの信徒が理解できるようになった。また、司祭は壁際に置かれた祭壇に向かって、すなわち信徒に背中を向けてミサを挙げていたが、公会議後は信徒の方を向いてミサを挙げるようになり、祭壇もそのために作り替えられた。
劇的な変化に、典礼の普遍性が失われると反対した者も少なからずいたが、大多数の聖職者、信徒はこうした変革を受け入れた。無論私も後者の一人だ。そもそもカトリックの教義や典礼の形式は、キリストが地上で福音を伝えていた頃から全く変わることなく伝えられてきたわけではなく、時代毎に教義を検討、解釈することを幾度も繰り返して今日まで至っているのだ。教義や典礼は人々の救いのためにあるのであって、教義や典礼そのもののためにあるのではないことを忘れてはならない。
いささか話が逸れてしまったが、私が勉学に励んでいた頃のカトリックはそうした情勢にあったわけだ。
さて、私自身はと言えば、生家を離れての寮生活にもすぐに慣れ、神学校で神学と哲学の勉強に没頭した。何故神学と同時に哲学も学ぶのかと疑問に思う人もいるだろう。哲学と言えば、さして詳しくない人でもすぐに思い浮かぶことだろうソクラテスやプラトンを始め、キリスト教が興る遙か昔から多くの人によって論じられてきた上に、抽象的な題材が多くて説明するのが難しいが、敢えて要約するならば、この世界のあらゆる概念、現象の根拠を徹底的に掘り下げ、究極的な根源を理論的に探ろうとする学問である。従って他のあらゆる自然科学、人文科学でも、ある程度以上深く追求していくと哲学との関わりは避けて通れず、神学もその例外ではない。もちろん方法論的に哲学と同一の部分はあっても、神学は神の存在が前提であるが。
難しい話になってしまい恐縮だが、ともかく霊を昇天させるための術を求めて、私は一心不乱に古今の教父や神学者達の学説を吸収しようとした。ここまで来ればおおよそ察しは付くだろうが、当時の私にとって、神学校での勉強は霊が見えることと、そのせいで霊にまとわりつかれる悩みを解決する方法を見つけ出すのが第一の目的で、聖職者になって司牧のために働くのは副次的な義務でしかなかった。
ところが、朝は他の学友達よりも早く起き、夜は寮の消灯時間があるもののギリギリまで本とノートに齧り付き、休日さえも時間を惜しんで勉学に費やす私の姿が、神学校の教師達には篤い信仰に裏打ちされた向学心によるものと映ったようだ。神学校を卒業間近、私は突然校長室に呼び出されると、司牧の意志が勉学ほどにないのを見抜かれたのだろうかと思って緊張する私に、校長は告げた。
「教区では神学校の卒業生から特に選抜した者を、より一層の勉学と研究のためローマへ留学生として送ることになっている。ローラン・ボードワン、ローマへ行く気はないか?」
突然降って沸いたような話に、私は驚きと戸惑いを隠せなかった。同時に、私よりも明確に司牧への使命感を抱いている同期の神学生がいるにも関わらず、彼らを差し置いて聖職者としてのエリートコースとも言うべきローマへの留学生に選ばれたことに、罪悪感さえ覚えた。しかし、神学校で学んだ知識の中に、迷える霊を確実に救うことができる答えが見つからず、より深い知識を得ることができるだろうローマへの留学には抗いがたい魅力があった。数秒間の逡巡の後、私はこの話を受けることに決めた。
カトリックの総本山ヴァチカンを擁し、教師、学生ともに世界中から選び抜かれた俊英が集められたローマでの学業は祖国よりも厳しかったが、同時に大変素晴らしいものだった。それまでの霊を祓う術を探す目的に加えて、フランスを代表して送られた以上、期待に応えなければという義務感も生まれた。目的と手段が入れ替わっている感はあるものの聖職者を目指す以上、死者の霊の問題にかまけて生きている人間のことをなおざりにすることは許されないことだった。更にはローマで学業と思索の日々を送るうち、生きている人間に天国への道を示すことと死者の霊に天国への道を示すことは同一線上にあるのではと考えるようになり、それが一層勉学への励みになった。そうした努力が認められ、私はローマの大学で学位を取得し、司祭に叙階された。
司祭叙階式の日のことは今でも良く覚えている。福音の朗読と聖歌の後、一人ずつ名を呼ばれた私達受階者は叙階式を司式する司教の前に進み出る。司教は私達の指導を担当してきた司祭に、私達が本当に司祭にふさわしいかどうかを問い、司祭が肯定の証言をする。それから私達は席に戻って司教の訓話の後、再び司教の前に出る。司教が私達に司祭の務めを受け入れ、果たすかどうか、いくつかの質問をすると、私達はその度肯定し宣誓を行う。
それら一連の質問の締めくくりに、司教はこう尋ねる。
「あなたは、私達のためにご自分を清い捧げものとして御父に捧げた大祭司キリストに日ごとに固く結ばれ、キリストとともに自分自身を、人々の救いのために神に捧げますか?」
そして私達は答える。
「はい、神の助けによって捧げます」
すると司教は次の言葉で結ぶ。
「あなたのうちに、よいわざを始めてくださった神ご自身が、それを完成してくださいますように」
それから私達受階者は自分を全面的にキリストに捧げる証として床に伏す。他の参列者一同は起立して、神の恵みを求めて諸聖人の連願を歌う。
主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
キリスト、あわれみたまえ キリスト、あわれみたまえ
主よ、あわれみたまえ 主よ、あわれみたまえ
神の母聖マリア われらのために祈りたまえ
聖ミカエル われらのために祈りたまえ
聖なる神の使い われらのために祈りたまえ
洗礼者聖ヨハネ われらのために祈りたまえ
神とキリスト、聖人達への祈りはなおも続き、その間私も参列者達と同じく懸命に祈り続ける。
連願が終わると、起き上がりまた司教の前に進み出てひざまずく。司教は無言で私達一人一人の頭の上に手を置き、使徒の時代からと同じように、聖霊が私達に降りてくるようにと神に願う。この按手と呼ばれる動作を、列席する司祭全ても同じように行い、続いて司教が叙階の祈りを唱える。
祈りが終わると、叙階された私達新司祭は司祭の祭服を着せられる。これは物質的に説明するならばただ服を着替えただけに過ぎないだろうが、私には生まれてきてから自分の魂に羽織ってきたあらゆる物を脱ぎ捨て、新しい別の存在になったような気がして、司祭になることが終点ではなく通過点でしかないことに改めて気付かされたのだった。
こうして晴れて司祭となってフランスに帰国した私に、教会の長上は神学者として更なる研究の道に就くことを期待していたようだった。だが、私は神学校や大学の教職への誘いを全て辞退し、教会で司牧の現場に立つことを希望した。古今の文献に目を通し、分析し、独自の解釈を見出す神学者を否定するわけではないが、学問のための学問、研究のための研究の日々を送るよりも、司牧の現場で実際に多くの人達と向き合うことで、地上の人々の魂を救いへ導く方法を探していきたいと、当時の私は思っていたのだった。
私はパリ市内の教会に助任司祭として配属され、司牧活動が始まった。主任司祭を手伝ってミサを挙げ、信徒の告解を聞き、他にも信徒の青少年関係の仕事を任されたので洗礼式や結婚式、宗教教育も私の役目になった。仕事は大変な量で、しかも何一つおろそかにできないものばかりだったので、毎日夜も明けない早朝や深夜まで起きて準備に費やし、なおかつ日々の祈りと両立させるには大変な労苦を必要とした。しかし少年の頃に見た、イノー神父が老いをものともせず己の命を燃やすようにして司牧に取り組んできた姿は、私にとってまたとない模範となって私を支えてくれた。また、仕事を通した信徒達との触れ合いは、私にとって大きな喜びとなり、同時に地上の人々を救いへ導く方法を探す道でもあった。
そうした生活が四年ほど続いた後、今度はパリ郊外にある教会の主任司祭を命じられた。先の教会と比べれば小さいながらも、教会を一つ任されるのである。責任の重さと更なる労苦を思うと、不安を抱かなかったと言えば嘘になるが、それを上回る期待と熱意に後押しされ、新しい司牧の場へと向かった。そしてその教会で、私はイノー神父に次いで、その後の人生を決める運命的な出会いをすることになる。
あの、夜空に輝く星の光のようにまばゆく、宇宙を疾る流星の炎のように激しく生きた、“星の剣舞姫”に──