「寝てるあいだになにやってもいい券♡」
「なんですか? これ」
「『寝てるあいだになにやってもいい券』だ。ここに書いてある」
「それはわかりますけど」
藤司が借りているワンルームの狭い部屋。
年季の入った折り畳み式のローテーブルをぼやけた色の壁際にどけて、床に並べられた二組の布団は隙間なくぴたりとくっついている。
その布団の片方にあぐらをかいて座っている藤司は、恋人の紫から唐突に渡された長方形の紙に視線を落とす。
ぺらぺらの白い紙はコピー用紙を切り出したもののように見える。
表面には、太めの黒いペンで書かれた「寝てるあいだになにやってもいい券♡」という文字と、それを囲うように縁取りの線が入っている。
「私たちも付き合い出して三年になる」
「そうですね」
「だから、そのー……マンネリ防止みたいな、な?」
「要りますか」
「要らないのか」
紫の返しに、藤司は黙り込んだ。
黙り込んで、再び「寝てるあいだになにやってもいい券♡」の文字に目を落とす。
「まあとにかく! 私は寝る。寝たら、好きにしていい」
いそいそと布団に入る紫は、そのどこか期待するような言葉とは裏腹に、藤司を一瞥だにしなかった。
既に睡眠導入剤を飲んでしばらく。紫は掛け布団を首元まで掛けて、すぐに寝入ってしまった。
規則正しい寝息。閉じられた紫の瞼の縁から伸びるまつ毛は長く、常夜灯の明かりの下で、目元にぼんやりと影を落としている。
紫が完全に寝ていることを確認するように、藤司は紫の顔をの前に手のひらを出してみたり、頬をつついてみたりした。
そうやってしばらくしてから、紫が本当に寝てしまっていることを知った藤司は、ため息をつく。
枕元には、寝る前の紫から渡された「寝てるあいだになにやってもいい券♡」。
藤司は「寝てるあいだになにやってもいい券♡」に向けていた目を、眠る紫へと移し、それから。
骨張った大きな手を伸ばした――。
*
藤司が借りているワンルームの狭い部屋。
年季の入った折り畳み式のローテーブルをぼやけた色の壁際にどけて、床に並べられた二組の布団は隙間なくぴたりとくっついている。
その布団の片方に寝転がっていた紫は、不意に目を覚ました。
「ああ、起こしてしまいましたか」
「……なにをしているんだ?」
「見ての通り――麵を茹でています」
ワンルームなので、メインスペースに敷かれた布団から台所は丸見えだった。
藤司は明かりをつけた台所の、小さな二口コンロの前に立って、ぐつぐつと音を立てる鍋に菜箸を突っ込んでいた。
麺を茹でる独特のにおいは、当然のように紫のところまで漂ってきている。
「なんでそんなことをしているんだ」
「なんでって……『寝てるあいだになにやってもいい券』をくれたのはあなたでしょう」
「そうだが……! そうじゃない……!」
紫は叫びたい気持ちを抑えて、深夜という時間帯に配慮した声量で言う。
「紫さんも食べます? 豚骨醤油ラーメンなんですけど」
「……食べる」
紫は渋々といった顔と声で答えた。
*
「たまにはこういうのもいいですよね」
「藤司はこういうことをしないと思っていた」
「なぜです?」
「筋肉ムキムキだから」
「どういう偏見ですか、それ。俺だって深夜にラーメンくらい食べますよ」
「筋肉ムキムキなのに」
「こういうときのために鍛えてるんです」
「嘘だ……」
狭いワンルームに、豚骨醤油ラーメンの香りが漂う。
藤司が近所のスーパーで安売りしていたときに買って、ストックしていた袋麺だ。
いかにもインスタントラーメンといった趣きの、黄色いちぢれ麺はジャンクだがスープをよく吸うので、ストレートに美味さが来る。
具は冷蔵庫にあった茹で卵と、海苔だけだが、深夜にすするラーメンとしてはこれでじゅうぶんだった。
「紫さんって、深夜にラーメンとか食べなさそうですよね」
「初めて食べた。というか、ラーメン自体あまり食べてこなかった」
「そうなんですね。じゃあ、ひとつ実績解除ということで」
「実績……ふふ」
紫の生家ではラーメンなどというものは出てこなかった。
もしどこかで紫がインスタントラーメンを食べたなどと知れば、母親は怒り狂うことだろう。
母親は紫の教育には非常に熱心で、常時紫を管理し、己のコントロール下に置いておかなければ気が済まない人間だった。
もしそれが叶わなければ、母親は怒り狂い、ヒステリックに泣き喚き、甚だ理性を失って暴れ回るので、紫は今でも母親という存在が怖い。
三年。藤司と付き合って三年が経ち、未だに清い関係のままなのは、紫がそういう行為に対して忌避感を持っているからだ。
男性と女性の交わりは、結婚という契約で清められてもなおおぞましく、汚らわしいものだと母親は言っていた。
紫がひとりっ子なのは、母親が本気でそう思っている証左であった。
そんな母親に育てられた紫は、未だに藤司とそういう関係になれない。
藤司のことが嫌いなわけではない。恋人として付き合っているのだから、当然好きだし、愛情がある。
けれども母親の言葉が、教育が、未だ紫を縛っている。
呪いをかけられているのだ。
「紫さん」
「ん?」
「俺、寝ている紫さんをどうこうするとか、そういう趣味はないので。あと、犯罪者になりたくないので」
「うん……」
紫が渡してきた、「寝てるあいだになにやってもいい券♡」の意図を藤司は正確に汲み取っていた。
「……呪いなら、あせらずひとつずつ解いていきましょう」
「ん……。……嫌だったか? 券……」
「ちょっと。でも紫さんのことは嫌いにはならないんで。失敗ならだれだってしますし。それに、俺のことを思ってのことでしょう?」
「ん」
「だから、いいんです」
「……ごめん」
「いいですよ」
ラーメンを食べ終えて、歯磨きをして。それからしばらくぐだぐだしたあと、布団に入って今度こそ眠る。
ありふれた夜なのだろう。
しかし、大切な思い出がまたひとつ、確かに増えた夜だった。




