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「寝てるあいだになにやってもいい券♡」

作者: やなぎ怜
掲載日:2026/11/08

「なんですか? これ」

「『寝てるあいだになにやってもいい券』だ。ここに書いてある」

「それはわかりますけど」


 藤司(とうじ)が借りているワンルームの狭い部屋。


 年季の入った折り畳み式のローテーブルをぼやけた色の壁際にどけて、床に並べられた二組の布団は隙間なくぴたりとくっついている。


 その布団の片方にあぐらをかいて座っている藤司は、恋人の紫(むらさき)から唐突に渡された長方形の紙に視線を落とす。


 ぺらぺらの白い紙はコピー用紙を切り出したもののように見える。


 表面には、太めの黒いペンで書かれた「寝てるあいだになにやってもいい券♡」という文字と、それを囲うように縁取りの線が入っている。


「私たちも付き合い出して三年になる」

「そうですね」

「だから、そのー……マンネリ防止みたいな、な?」

「要りますか」

「要らないのか」


 紫の返しに、藤司は黙り込んだ。


 黙り込んで、再び「寝てるあいだになにやってもいい券♡」の文字に目を落とす。


「まあとにかく! 私は寝る。寝たら、好きにしていい」


 いそいそと布団に入る紫は、そのどこか期待するような言葉とは裏腹に、藤司を一瞥だにしなかった。


 既に睡眠導入剤を飲んでしばらく。紫は掛け布団を首元まで掛けて、すぐに寝入ってしまった。


 規則正しい寝息。閉じられた紫の瞼の縁から伸びるまつ毛は長く、常夜灯の明かりの下で、目元にぼんやりと影を落としている。


 紫が完全に寝ていることを確認するように、藤司は紫の顔をの前に手のひらを出してみたり、頬をつついてみたりした。


 そうやってしばらくしてから、紫が本当に寝てしまっていることを知った藤司は、ため息をつく。


 枕元には、寝る前の紫から渡された「寝てるあいだになにやってもいい券♡」。


 藤司は「寝てるあいだになにやってもいい券♡」に向けていた目を、眠る紫へと移し、それから。


 骨張った大きな手を伸ばした――。



 *



 藤司が借りているワンルームの狭い部屋。


 年季の入った折り畳み式のローテーブルをぼやけた色の壁際にどけて、床に並べられた二組の布団は隙間なくぴたりとくっついている。


 その布団の片方に寝転がっていた紫は、不意に目を覚ました。


「ああ、起こしてしまいましたか」

「……なにをしているんだ?」

「見ての通り――麵を茹でています」


 ワンルームなので、メインスペースに敷かれた布団から台所は丸見えだった。


 藤司は明かりをつけた台所の、小さな二口コンロの前に立って、ぐつぐつと音を立てる鍋に菜箸を突っ込んでいた。


 麺を茹でる独特のにおいは、当然のように紫のところまで漂ってきている。


「なんでそんなことをしているんだ」

「なんでって……『寝てるあいだになにやってもいい券』をくれたのはあなたでしょう」

「そうだが……! そうじゃない……!」


 紫は叫びたい気持ちを抑えて、深夜という時間帯に配慮した声量で言う。


「紫さんも食べます? 豚骨醤油ラーメンなんですけど」

「……食べる」


 紫は渋々といった顔と声で答えた。



 *



「たまにはこういうのもいいですよね」

「藤司はこういうことをしないと思っていた」

「なぜです?」

「筋肉ムキムキだから」

「どういう偏見ですか、それ。俺だって深夜にラーメンくらい食べますよ」

「筋肉ムキムキなのに」

「こういうときのために鍛えてるんです」

「嘘だ……」


 狭いワンルームに、豚骨醤油ラーメンの香りが漂う。


 藤司が近所のスーパーで安売りしていたときに買って、ストックしていた袋麺だ。


 いかにもインスタントラーメンといった趣きの、黄色いちぢれ麺はジャンクだがスープをよく吸うので、ストレートに美味さが来る。


 具は冷蔵庫にあった茹で卵と、海苔だけだが、深夜にすするラーメンとしてはこれでじゅうぶんだった。


「紫さんって、深夜にラーメンとか食べなさそうですよね」

「初めて食べた。というか、ラーメン自体あまり食べてこなかった」

「そうなんですね。じゃあ、ひとつ実績解除ということで」

「実績……ふふ」


 紫の生家ではラーメンなどというものは出てこなかった。


 もしどこかで紫がインスタントラーメンを食べたなどと知れば、母親は怒り狂うことだろう。


 母親は紫の教育には非常に熱心で、常時紫を管理し、己のコントロール下に置いておかなければ気が済まない人間だった。


 もしそれが叶わなければ、母親は怒り狂い、ヒステリックに泣き喚き、甚だ理性を失って暴れ回るので、紫は今でも母親という存在が怖い。


 三年。藤司と付き合って三年が経ち、未だに清い関係のままなのは、紫がそういう行為に対して忌避感を持っているからだ。


 男性と女性の交わりは、結婚という契約で清められてもなおおぞましく、汚らわしいものだと母親は言っていた。


 紫がひとりっ子なのは、母親が本気でそう思っている証左であった。


 そんな母親に育てられた紫は、未だに藤司とそういう関係になれない。


 藤司のことが嫌いなわけではない。恋人として付き合っているのだから、当然好きだし、愛情がある。


 けれども母親の言葉が、教育が、未だ紫を縛っている。


 呪いをかけられているのだ。


「紫さん」

「ん?」

「俺、寝ている紫さんをどうこうするとか、そういう趣味はないので。あと、犯罪者になりたくないので」

「うん……」


 紫が渡してきた、「寝てるあいだになにやってもいい券♡」の意図を藤司は正確に汲み取っていた。


「……呪いなら、あせらずひとつずつ解いていきましょう」

「ん……。……嫌だったか? 券……」

「ちょっと。でも紫さんのことは嫌いにはならないんで。失敗ならだれだってしますし。それに、俺のことを思ってのことでしょう?」

「ん」

「だから、いいんです」

「……ごめん」

「いいですよ」


 ラーメンを食べ終えて、歯磨きをして。それからしばらくぐだぐだしたあと、布団に入って今度こそ眠る。


 ありふれた夜なのだろう。


 しかし、大切な思い出がまたひとつ、確かに増えた夜だった。

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