元の場所
片づけというのは、要るものと要らないものを分ける作業だと思っていた。
*
母が膝の手術をしたのは、六月だった。
人工関節を入れる手術で、前から言われていたものだ。予定して入る手術だから、慌てるようなことは何もない。入院は二週間半と言われた。
私は電車で二時間のところに住んでいる。弟は九州にいる。だから、行くのは私になる。
*
手術の三日後に行くと、母はもう歩行器で歩いていた。
「思ったより痛くないのよ」
そう言って笑った。七十二にしては元気なほうだと思う。父が亡くなってから八年、ずっと一人で暮らしている。
退院支援の看護師さんに、廊下で呼ばれた。
「ご自宅の様子を伺ってもいいですか」
*
私は、実家の間取りを説明した。
築四十年の一戸建て。二階建てだが、母は一階しか使っていない。廊下に段差が二か所ある。風呂場のまたぎが高い。廊下は物が多い。
看護師さんは、ふんふん、と聞いて、それから言った。
「退院までに、少し整理していただけると安心です」
「はい」
「杖で歩かれるので、通り道に物があると危ないんですよ」
もっともだ、と思った。
*
その日の帰りに、私は実家に寄った。
鍵を開けて、電気をつけて、それで、少し立ち止まった。
物が多い。
子どものころから多かったが、こんなに多かっただろうか。廊下の壁際に段ボールが積んである。玄関には靴が十足以上出ている。台所の床にペットボトルの箱がある。
ただ、散らかってはいなかった。
段ボールは壁に沿って一列に並んでいた。靴は爪先を全部そろえて、玄関の右側だけに置いてあった。ペットボトルの箱は、勝手口の手前、いつも同じ場所にあった。
多いけれど、整っている。そういう散らかり方だった。
私はそれを、几帳面な人が物を捨てられないとこうなる、と思って見た。
これは、片づけなければいけない。
*
弟に電話をした。
「手術、うまくいったって」
「そう。よかった」
「退院までに家、片づけないといけないんだって。杖で歩くから」
弟は少し黙ってから、悪いけど頼む、と言った。九州から週末ごとには来られない。分かっていた。分かっていて電話をしたのだから、これは確認みたいなものだ。
「なんかあったら言って」と弟は言った。
言うことはないと思った。片づけるだけだ。
*
次の週から、私は毎週末、実家に通った。
母には電話で報告した。
「玄関の靴、要らないの捨てるね」
「うん」
「廊下の段ボール、中身なんだった?」
「……なんだったかしら」
「じゃあ捨てるよ」
少し間があってから、母は言った。
「あんまり、動かさないでね」
*
その言葉を、母は何度も言った。
捨てないで、ではなかった。動かさないで、だった。
私はそれを、同じ意味だと思って聞いていた。
母は物を捨てられない人だ。昔からそうだった。菓子の空き箱も、紙袋も、輪ゴムも取っておく。そういう世代だ、と思っていた。
変化を嫌う人でもある。父が亡くなったあとも、父の茶碗をそのままにしていた。
だから、動かさないで、というのは、要するに、いつも通りにしておいてほしいということだと思った。
いつも通りにしていたら、母が転ぶ。
*
私が捨てたものを、覚えている限り書く。
玄関の靴が七足。廊下の段ボールが四つ。中身は古い雑誌と、来客用の座布団と、私と弟の教科書だった。
台所の食器棚から、欠けた皿を五枚。使っていない土鍋。賞味期限の切れた缶詰が十一個。
居間のテレビ台の上にあった置物。いただきものらしい木彫りの熊と、こけしが二本。
新聞紙の束。紙袋の束。空き箱の束。
それから、目薬。
*
目薬は、三か所にあった。
居間のテレビ台の引き出しに三本。寝室の枕元に二本。台所の窓辺に二本。
同じ会社の、同じ形のものだった。開封して使いかけのものと、箱に入ったままのものが混ざっていた。
同じものが七本もあるのは、たぶん、もらってきては使わずに置いているからだ。母はそういうところがある。もったいないと言って、使わないまま溜める。
私は、それを一か所にまとめた。
まとめてから、開封済みのうち、古そうなものを四本捨てた。目薬は開けたら一か月、と聞いたことがある。いつ開けたか分からないものを置いておいても仕方がない。
残った三本を、洗面所の棚に入れた。薬は洗面所にまとめる。そう決めて、胃薬も湿布も、全部そこに移した。
一か所にあれば、飲み忘れない。私はそう思った。
*
家具も動かした。
廊下の段差は、ホームセンターで買ってきたスロープで埋めた。二か所とも。
居間のソファは、テレビの正面ではなく壁際に寄せた。そのほうが通り道が広くなる。
寝室のタンスは、部屋の入口から遠いほうに移した。夜中に起きたときに、ぶつからないように。
台所の椅子は、四脚のうち二脚を二階に上げた。
*
照明も替えた。
母の家は、どの部屋も暗かった。電球が古いのだと思った。
廊下の蛍光灯を、明るいLEDに替えた。玄関も、寝室も替えた。人感センサーのついた足元灯を、廊下に二つ置いた。
これで、夜中でも見える。
私は、そう思った。
*
退院の日、母は家に入って、しばらく玄関に立っていた。
「明るくなったでしょう」
私が言うと、母は「うん」と言った。
それから、靴を脱いで、上がった。
杖をついて、廊下をゆっくり歩いた。ちゃんと歩けていた。
居間に入って、ソファが壁際にあるのを見て、少し止まった。
「ここ、動かしたの」
「うん。通りやすいと思って」
「そう」
母は、それだけ言って、座った。
*
三日ほど、私は実家に泊まった。
母は、ソファに座ったら、あまり立たなかった。
膝が痛いのだろうと思った。手術したばかりだ。座っていなさいよ、と私は言った。母は、うん、と言った。
台所で、母が冷蔵庫の前に長く立っていることがあった。何を探しているのか聞くと、なんでもない、と言われた。
夜は、電気をつけたままにしていた。
「消さなくていいの」
「つけといて」
明るいほうが安心なのだと思った。替えてよかった、と私は思った。
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二日目に、母が聞いた。
「台所の椅子、どうしたの」
「二階に上げたよ。四つも要らないでしょう」
「そう」
母は、それきり何も言わなかった。
私は、答えを聞いて安心した。母が家の変化を受け入れている、と受け取ったからだ。
三日目の朝、母が洗面所で立っていた。棚を開けて、閉めて、また開けていた。
「どうしたの」
「ううん」
私はそのとき、洗面所を出た。母が薬の場所を覚えていないのだと思って、あとで一緒に確認しようと考えた。
考えただけで、しなかった。
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母はトイレにも一人で行けたし、風呂も、手すりを持てば入れた。
私は安心して、四日目に自分の家に帰った。
電話は毎日した。変わりない、と母は言った。
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十日目の夜、母が転んだ。
午前二時ごろ、トイレに行こうとして、廊下で転んだそうだ。自分で電話をかけて、救急車を呼んだ。
大腿骨の付け根を折っていた。
転んだ場所は、廊下の、居間の入口の前だった。
そこには、私が置いた足元灯があった。人が通ると光るやつだ。壁際に置いた。通り道の邪魔にならないように、低いところに。
母は、それに躓いた。
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病院に着いたのは、朝の六時だった。
母は手術を待っていて、意識ははっきりしていた。私の顔を見て、すみません、と言った。
「なんで謝るの」
「せっかく片づけてくれたのに」
私は、何も言えなかった。
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その日の夕方、看護師さんに聞かれた。
「お母様、緑内障のこと、娘さんはご存じでしたか」
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私は、聞き返した。
「緑内障、ですか」
「ええ。お薬手帳に。点眼薬が」
看護師さんは、少し困った顔をした。私が知らないと分かったからだと思う。
「六年前からですね。ずっと同じ眼科にかかっておられます」
私は、お薬手帳を見せてもらった。
二か月に一度、同じ日付で、同じ薬が並んでいた。六年分。一度も抜けていなかった。
私は、その手帳を三年前にも見たことがある。母の入院ではなく、風邪で内科にかかったときだ。見たはずなのに、何も覚えていなかった。
薬の名前を読んでも、私には何の薬か分からなかった。分からないものを、私は読み飛ばしていた。
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私は、その日の夜、調べた。
緑内障は、日本人の中途失明の原因の一位だった。四十歳以上の二十人に一人。六十歳以上では十人に一人。
初期には自覚症状がほとんどない。
視野が欠けても、両目で見ていると、欠けているほうを反対の目が補うので、気づかないことが多い。
いちど欠けた視野は戻らない。点眼薬は、進行を止めるために使う。続けなければ意味がない。
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私は、そこで手を止めた。
目薬。
三か所にあった。居間と、寝室と、台所。
私はそれを、一か所にまとめた。
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母は、家じゅうを暗記していた。
あとになって、そう気づいた。
四十年、同じ配置だった。ソファはテレビの正面にあり、タンスは入口の右にあり、椅子は四脚とも台所にあった。廊下には段差が二か所あって、母はその位置を知っていた。
見えていなくても、歩けた。
欠けている場所に何があるかを、覚えていたからだ。
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物が多かった理由も、そのときに分かった。
母は、片づけられなかったのではない。動かさなかったのだ。
段ボールが壁に沿って一列に並んでいたのは、そこを通るときに手が触れるからだ。靴が玄関の右側にそろえてあったのは、右側にあると決めていたからだ。ペットボトルの箱が勝手口の手前にあったのは、そこが勝手口の手前だと分かるからだ。
あれは散らかっていたのではなく、目印だった。
私は、目印を捨てた。
*
私は、明るくした。
明るくすれば見えると思っていた。
視野が欠けているというのは、暗くて見えないということではない。そこに何かがあっても、見えないということだ。
だから、明るさは関係なかった。
関係があったのは、配置だけだった。
私は、それを全部変えた。
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二度目の手術のあと、私は母に聞いた。
「なんで言わなかったの」
母は、天井を見たまま答えた。
「言ったら、来なさいって言うでしょう」
「言うよ」
「でしょう」
母は、そこで少し笑った。
「あの家、四十年住んでるのよ」
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母は、目のことを誰にも言っていなかった。
弟も知らなかった。近所の人も知らなかった。眼科には六年間、一度も欠かさず通っていた。点眼も続けていた。
続けていたから、進行は遅かったのだと思う。
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「動かさないでね」
母は何度も言った。
私は、物を捨てられない人の言葉だと思って聞いた。
母は、自分が家の中を歩ける理由を言っていた。
言い方が同じだっただけだ。
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九月に、母は施設に入った。
膝と股関節の両方を手術したあとで、一人暮らしは無理だという判断になった。判断したのは私だ。母は反対しなかった。
施設の部屋は、四畳半くらいの広さだった。ベッドと、小さいタンスと、椅子が一脚。
母は、入ってすぐの日に、部屋の中を杖で何度も往復していた。何をしているのかと聞いたら、覚えてるの、と言った。
「覚えるって、何を」
「どこに何があるか」
母は、それだけ言った。
私は廊下に出て、少し泣いた。母には見えていない、と思ってから、そうではない、と思い直した。母には、私の顔の位置くらいは見えている。見えていないのは、私のほうだった。
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実家は、いま空いている。
*
私は一度、家具を元に戻そうとした。
ソファをテレビの正面に。タンスを入口の右に。椅子を台所に。
やってみて、分からなくなった。
ソファが壁からどれくらい離れていたのか。タンスと壁のあいだに、何センチあったのか。私は毎年帰っていたのに、何も覚えていなかった。
写真を探した。居間を正面から撮った写真は、一枚もなかった。人が写っている写真ばかりで、家具は端に切れていた。
*
母に聞いた。
「ソファ、どのへんにあったっけ」
母は少し考えて、それから言った。
「もういいよ」
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私は、片づけというのは、要るものと要らないものを分ける作業だと思っていた。
実際にやっていたのは、意味の分かるものと、分からないものを分ける作業だった。
分からないほうを、私は捨てた。
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自分の家に帰って、その夜、私は電気をつけずに歩いてみた。
玄関から廊下を通って、台所まで。冷蔵庫を開けて、水を出して、飲んだ。
どこにもぶつからなかった。
十二年住んでいる家だ。
*
私は台所に立ったまま、しばらくそうしていた。
目は、ちゃんと見えている。




