キリストの精神とその系譜
世の中には、漠然と宗教と科学の対立、といった通念がありますね。ガリレオの宗教裁判なんかに象徴されるようなやつ。実際には教会が必ずしも科学に対立的なわけではないし、それ以上になにより、ニュートンが典型ですが、世界史的な科学者というのは熱心なクリスチャンばかりであるというのが事実なので、さほど深い意味のある構図ではないんですが、とにかくまあ一般的にはそういう通念があるように思われます。
それで、近代科学は、アリストテレスの観念的な哲学を、観測に基づいた具体的なデータによる反証で客観的な真理を証明することで乗り越えたと言われますが、ではそういう、主観的な観念を退けて客観性を重視する姿勢はどこから生まれてきたんじゃろ、その具体的なモデルになったような人物は誰なんでしょうね、と考えてみると、意外とそういう人って思い浮かばない。
まず典型的にはソクラテスでしょうか。彼は相対主義的な詭弁を弄するソフィストたちがもてはやされる風潮に我慢ができなかった。真理というのはそんないい加減なもんじゃないと。人は議論によって無知を自覚して普遍的な真理に向かうべきなんだと。そのようなことを生き様を通して示したということですね。
系譜としてはそのソクラテスの後を受けたプラトンがいて、さらにその後を受けたアリストテレスがいて。そしてそのアリストテレスの限界を近代科学が克服した、ということになるわけですが、じゃあアリストテレス哲学の克服ってソクラテスの精神で行われた、言い換えるとギリシア哲学でギリシア哲学を更新した、みたいな話なの?
どうもそれでは説明が不十分な気がしますね。だいたい中世まではアラブ圏の方がギリシア哲学研究も数学も科学も盛んだったんですから、その理屈でいくと近代科学もそのままアラブ圏で発生するのが順当な流れじゃないですか。しかし、実際の歴史はそうはならなかった。なぜなんでしょう。
西洋精神の説明としてはヘレニズムとヘブライズムということが言われますね。ヘレニズムはギリシア哲学のことで、ヘブライズムはユダヤ教やキリスト教といった一神教のことです。ギリシア哲学には既に原子といった概念もありましたから、これが科学に大きな影響を与えたというのはわかりやすい。では、ヘブライズムも科学に影響したんでしょうか。したとしたら、どのように影響したんでしょうか。これがどうもわかりにくい。
わかりにくいんですが、よくよく考えたら、主観的な観念に流されないで客観的な真理を示したという構図。これってまんまパリサイ派とキリストのそれやんけ。パリサイ派というのは当時のユダヤ教の神官、要するに、ルールが大事!ルールを守る俺たちが偉い!って感じの人たちです。それに対して、キリストはそういうルール至上主義みたいなの違うんじゃね?ルールを守って人に冷たくするのと、ルールを破って人に優しくするのと、どっちが神に対して正しい態度だと思う?わかるよね?といったことをやってひんしゅくを買ったわけですね。
それでユダヤ教の神官に敵視されまくってついに冤罪で十字架にかけられるところまでいくわけですが。そしてそれが人類の罪を背負って自身が犠牲になるということになるわけなんですが。それはいわば己の都合という主観性を排して客観的な真理に仕えるということだよなーって。その後でキリストは復活するわけですが、これが生物学的に肉体が生き返ったという文字通りの意味なのかどうかはただの人間の私にはなんともいえません。神の子ならそういうこともありえるよね、くらいの理解です。
大事なのは、主観性を排して客観性に殉じる、という態度が少なくとも抽象的にここで示されている、と理解することができる、ということですね。ここで科学者当人は熱心なクリスチャンばかりである、という事実と符合してくるんですよね。つまり、宗教対科学という、既成のルールと客観的な真理が争うような場面において、キリストの精神に見習っているのは実はむしろ科学の方である、ということです。パリサイ派対キリストという構図がそのまま重なるんですね。
世界史というのはそういったキリストの精神を受け継いできた、預言者→神学者→科学者→起業家などがリードしてきたものだったんだね、というのが私の理解になります。ここ100年ほどの世界はアメリカがほぼ独走状態ですが、かの国がピューリタンという最も熱心なクリスチャンたちによって建設された国で、現代でも信仰熱心な風土だというのは世界的には常識です。そのような信仰に真面目な環境で理系インテリがインターネット、スマホ、AIといった技術革新で世の中に祝福の果実をバラまいている、と捉えることができるわけですね。
ここで注意が必要なのは、だからってアメリカ最高!クリスチャン大正義!というほどには話は単純ではないことですね。当たり前ですがアメリカ人もクリスチャンもただの人間なのでいくらでも間違えるし間違えてきたわけですが。しかしキリストの精神に近づこうとすることによって彼らの少なくとも一部が大きな成果をもたらしてきた、とも考えられるということです。
だからねー。私自身も別に立派な人間ではありませんし、なんか才能あふれる天才とかではないんですけど。こう感じるからには、私もキリストの精神に向かうべきだよなーとは素直に思うんですよね。私ごときに何ができるのか、という感じはありますが、それでもやりたいことは明確にありますし、そこでなんらか成果が出たらここで私が言ってるようなことの正しさが証明されることになるのかもしれませんし、そうだとしたら、それはそのままキリストへの賛美歌にもなるわけですね。
まあ一般にはあまり共感されない話でしょうけどね。それでも私はできるだけそういう道を行きたいなーと思います。




