「それ、もう食わんのか」
「それ、もう食わんのか」
始めに聞こえたのはそんな声だった。
かすれ声。
喉がひりついているのを想起させる。
空洞のような声。
「清一。食わんのか」
繰り返される。
合間に風の音が混じった。
気のせいだったかもしれない。
「おい」
鉄を地面に落としたような音。
それが別の人の声だと気づくのが少しだけ遅れた。
「おい。清一」
何かを啜る音。
汁物だろう。
この捕虜収容所ではいつだって汁物しか出ない。
芋も入ってない汁物。
他の奴らが茶を啜るような音を響かせる。
響くものが量を錯覚させる。
味もない汁物が量だけはあると思わせる。
「食わんなら、もらうぞ」
今更ながらに全身が動かない。
横になったまま張り付けられたように。
目、一つさえ動かせない。
いや、瞼を開くことさえも出来ない。
『やめろ。俺の飯だ』
必死になり声を出す。
しかし、喉は張り付き音は出ない。
開こうとした口は唇が糊でくっついたように僅かな隙間に粘り気があるだけだ。
あれほど求めていた水がその粘りから感じられて恨めしい。
なぜ、この唾は喉に落ちてこないのだ。
『やめろ。俺の飯だ。食うな』
必死に声を出そうとする。
閉じた口の中で顎だけが上下に微かに揺れる。
隙間ばかりの歯が軽いのに、動かすことに難儀する。
「俺にも寄越せ」
別の声が聞こえた。
今度ははっきりと。
必死に上下の歯を何度もぶつけて音を出す。
声が出ないならせめて意思を。
だけど、歯の重なる音は自分の頭蓋に響くだけだ。
『俺の飯だ。俺は生きている。勝手に食うな』
かち、かちと歯を鳴らす。
それでも啜る音が止まない。
音が続く。
こちらも歯を鳴らす。
かち、かちと。
何度も。
そして、啜る音が消えた。
『飯』
心で呟くのさえ疲れる。
俺の飯がなくなったんだ。
『飯』
呟く。
疲れるのに。
『俺の飯なのに』
*
「目覚めましたか」
声を聞いて私は目を覚ます。
初老の男性が微笑んでこちらを見つめている。
慌てて傍らに置いてあったスマホに手をやった。
『令和〇年』
文字は間違いなく私の知る暦だ。
安堵の息を漏らす。
全身が汗まみれだった。
「どうでしたか。山田清一の最期は」
私はすぐに返事が出来なかった。
暑い季節はまだ遠いのに全身を濡らす汗。
水の代わりにもならないこれを山田清一はきっと舐めるだろうと思った。
喉はもっと張り付くだろうに。
「お水をどうぞ」
コップに満たされた冷たい水を出される。
取るのが少しだけ躊躇われた。
「お気になさらず。あなたには罪はない」
「……ぁ」
相手の言葉に反応が難しい。
私はこの場所に来たことを強く後悔していた。
ここは某県にある民宿だ。
その一室が山田清一の自室だった。
第二次世界大戦から戻ってこられなかった山田清一の。
この部屋で恐ろしい夢が――おそらくは山田清一の最期が見られる。
それに気づいた遺族はこうして部屋を一般開放している。
無料で。
「どのような形であれ、あの悲惨な時代を知る者が増えるのは良い事だと思います」
コップを先ほどよりも手前に出される。
私はようやくそれを受け取った。
冷たい水が張り付いた喉を落ちていく。
「部屋を移りますか。この部屋では落ち着かないでしょう?」
「……いえ」
問われた言葉に私はぽつりと答えた。
「すみません。もう少し、ここに……」
「かしこまりました」
民宿の主。
山田清一が会ったこともない、彼の孫はにっこりと微笑む。
「ごゆっくりと」




