表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/5

後日談 栄光の残骸と終わらない悪夢

薄汚れた天井のシミを眺めながら、勇者レオンは覚醒した。

意識が戻ると同時に、身体の右側から焼けるような激痛が這い上がってくる。


「ぐ、ああああああッ……!!」


朝一番の声は、挨拶ではなく悲鳴だった。

かつて黄金の輝きを放っていた右腕は、いまや黒く変色し、包帯の下で腐敗臭を放つ肉塊と化している。

「聖剣グラム」の代償。

アレンというフィルターを失った結果、レオンの肉体は呪いによって不可逆の破壊を受けていた。


「う、うるさいわね……。朝から叫ばないでよ」


隣のベッドから、不機嫌そうな声が響く。

聖女マリアだ。

かつてのような絹の寝間着ではなく、ゴワゴワとした安物の麻布を纏い、乱れた髪のまま起き上がる。

その顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが刻まれていた。


「痛いんだよ! 薬だ、痛み止めをよこせ!」

「もうないわよ。昨日、あなたが全部飲んじゃったじゃない」

「な、なんだと!? じゃあ買ってこい!」

「お金なんてないわよ! この安宿の代金だって、私のアクセサリーを売って作ったのよ!?」


マリアがヒステリックに叫び返す。

狭くカビ臭い部屋に、殺伐とした空気が充満する。

ここは王都の最下層にある簡易宿泊所だ。

一泊銅貨数枚。Sランクパーティ『聖光の翼』が泊まる場所ではない。

だが、今の彼らにはここ以外の選択肢がなかった。


「……僕、お腹空いた」


部屋の隅で膝を抱えていた魔導師ルカが、虚ろな目で呟く。

彼の痩せこけ方は異常だった。

魔力枯渇(ガス欠)の後遺症で、身体が魔素を求めて常に飢餓状態にあるのだ。

かつてはアレンから無尽蔵に供給されていた魔力がない今、彼は魔法一つ使うだけで気絶しかけるほどの虚弱体質になっていた。


「アレンがいれば、こんなことには……」


ルカの口から漏れたその名前に、レオンの表情が般若のように歪む。


「その名前を出すなァッ!!」


レオンは左手で枕を投げつけた。

枕はルカに当たらず、床に落ちて埃を舞い上げる。


「あいつのせいだ……あいつが俺たちを見捨てて逃げたから、こんな目に遭ってるんだ! あいつは裏切り者だ! 大罪人だ!」

「でも、アレンがいた時はご飯も美味しかったし、洗濯もしてくれたし、魔力だって……」

「黙れ黙れ黙れ! 俺はまだ勇者だ! 右腕がなくとも、俺には才能がある! 今日こそクエストを成功させて、あいつを見返してやるんだ!」


レオンは狂気じみた目で立ち上がると、片手で装備を整え始めた。

メンテナンスが行き届かず、錆が浮き始めた鎧。

かつての輝きを失った剣(グラムではなく、なけなしの金で買った中古の鉄剣)。

その姿は、あまりにも惨めだった。


          ◇


冒険者ギルドの重い扉を開ける。

喧騒に包まれていたロビーが、レオンたちの姿を認めた瞬間、水を打ったように静まり返った。

かつては称賛と憧れの眼差しで迎えられた場所。

しかし今、彼らに向けられているのは、侮蔑と嘲笑、そして憐れみの視線だった。


「おい見ろよ、『聖光の翼』だぜ」

「荷物持ちを追い出して自滅したっていう、あの?」

「借金まみれで宿を追い出されたらしいぞ」

「右腕、腐ってるんだろ? 近寄るなよ、臭いが移る」


ヒソヒソという囁き声が、針のようにレオンのプライドを刺す。

彼は顔を真っ赤にして、カウンターへと大股で歩み寄った。


「クエストだ! 高額報酬の討伐依頼を出せ!」


バンッ、とカウンターを叩く。

受付嬢は眉をひそめ、あからさまに嫌そうな顔をした。


「レオン様……先日もお伝えしましたが、現在のパーティランクは暫定停止中です。Sランクの依頼は受注できません」

「ふざけるな! 俺たちはSランクだぞ!? 過去の実績を見ろ!」

「実績なら存じております。しかし、直近の依頼達成率はゼロ。さらにパーティメンバーの欠損、魔力不足……規定により、Eランク相当の採取クエストか、下水道の清掃しか斡旋できません」

「げ、下水道……だと……?」


レオンは絶句した。

世界を救うはずの勇者が、ドブさらいをしろと言うのか。


「あのねえ! 私は聖女よ!? そんな汚い仕事できるわけないじゃない!」


マリアが金切り声を上げるが、受付嬢は冷淡に書類を突きつけるだけだ。


「嫌なら結構です。他に仕事はありません。……あ、そうそう。宿屋『銀の月』のご主人から、ツケの請求が来ていますよ。今日中に支払わないと衛兵を呼ぶそうです」

「ぐ……ッ」


レオンは唇を噛み切りそうなほど強く食いしばった。

金がいる。

生きるため、そして何より、失墜した名誉を取り戻すために。

下水道掃除など論外だ。

魔物を倒す。それ以外に、勇者としての価値を証明する方法はない。


「……行くぞ。野良で魔物を狩る」

「えっ? でも依頼を受けてないわよ?」

「素材を持ち込めば換金はできるはずだ! 王都周辺の森なら、俺たちだけで十分だ!」


レオンは受付嬢を睨みつけると、踵を返してギルドを出て行った。

マリアとルカも、渋々といった様子でそれに続く。

背後で爆笑が起きたのを、三人は聞かないふりをするしかなかった。


          ◇


王都近郊の森。

初心者冒険者が最初に訪れる、難易度の低い狩場だ。

出現するのはゴブリンやスライム、あるいは少し強いウルフ程度。

Sランクパーティであった彼らにとっては、本来なら散歩コースにもならない場所だ。

しかし――現実は非情だった。


「ギャギャッ! ギャアアアッ!」

「くそっ、ちょこまかと! 当たれよ!」


レオンは息を切らし、左手で剣を振り回していた。

相手はたった三匹のゴブリン。

だが、剣筋は鋭さを欠き、踏み込みも浅い。

利き腕ではない左手での操作に加え、右腕の激痛が集中力を削ぐ。

さらに致命的なのは、バランス感覚の喪失だった。

長年馴染んだ重心が崩れ、剣を振るたびに体がふらつく。


「おいルカ! 魔法で援護しろ!」

「やってるよ! ……だめだ、出ない!」


ルカが杖を向けるが、火花が散るだけで魔法が発動しない。

朝食を満足に食べていないため、魔力が底をついていたのだ。

アレンがいた頃は、戦闘中でもおにぎりや魔力ポーションを手渡され、常に万全の状態だった。

空腹と疲労で視界が霞むルカは、ただの棒切れを持った案山子と変わらない。


「マリア! バフだ! 身体強化をかけろ!」

「無理よ! さっきの擦り傷の治療で魔力を使っちゃったもの!」


マリアは木陰に隠れて震えていた。

彼女もまた、魔力管理(燃費)の悪さを露呈していた。

アレンがいれば、最適なタイミングで最低限のヒールを指示してくれたし、不足分は彼がポーションで補ってくれた。

だが今は、小さな傷一つに過剰なヒールをかけ、あっという間に魔力切れを起こしている。


「役立たず共がァッ!」


レオンが叫んだ隙に、ゴブリンの一匹が背後から飛びかかった。

錆びたナイフが、レオンの太腿に突き刺さる。


「ぎゃあッ!?」


激痛に足がもつれ、レオンは無様に泥の中へ転がった。

そこへ残りの二匹も殺到する。

泥水を啜り、ゴブリンの汚い足で踏みつけられる屈辱。

Sランクの鎧も、メンテナンス不足で留め具が緩んでおり、衝撃で外れてしまった。


「や、やめろ……俺は勇者だぞ……!」


ゴブリンが嘲笑うようにキーキーと鳴き、レオンの顔に唾を吐きかける。

殺される。

こんな最弱の魔物に、俺が?

走馬灯のように脳裏をよぎるのは、かつての栄光の日々。

巨大なドラゴンを一撃で屠り、民衆から喝采を浴びたあの日。

――その隣には、いつもアレンがいた。

荷物を持ち、退路を確保し、傷を癒やし、呪いを吸い取ってくれていたアレンが。


「アレン……助けてくれ……」


無意識にその名前を叫んでいた。

だが、誰も来ない。

奇跡は起きない。

ただ、ゴブリンの振り上げた石斧が、無慈悲に振り下ろされるだけだ。


「ヒッ、うわあああああああ!!」


レオンは転がりながら必死で回避する。

石斧が地面を叩き、泥が顔にかかる。

彼を救ったのは、通りがかりの新人冒険者パーティだった。


「おい、大丈夫か!?」

「加勢するぞ!」


銅級ブロンズランクの若者たちが駆けつけ、あっという間にゴブリンを倒していく。

彼らの動きは洗練されてはいなかったが、仲間同士で声を掛け合い、互いをカバーしていた。

まるで、かつてのレオンたちが失ってしまった「連携」を見せつけるかのように。


「……アンタら、もしかして『聖光の翼』の人たちか?」


ゴブリンを倒した後、リーダー格の少年が怪訝そうにレオンを見下ろした。

泥まみれで、悪臭を放ち、傷だらけの元英雄。


「だっ、だまれ! 俺たちは油断しただけだ!」

「……そうっすか。まあ、無理しない方がいいっすよ。もう『終わった』人たちなんだから」


少年は憐れむような目を向けると、ポーションを一本放り投げ、仲間と共に去っていった。

地面に転がった安物のポーション。

それが、今のレオンたちの価値だった。


          ◇


夕暮れ時。

ボロボロになった三人は、重い足取りで王都への道を歩いていた。

ゴブリンの素材は、若者たちが持っていってしまった。

結局、今日の稼ぎはゼロだ。

腹は減り、傷は痛み、精神は崩壊寸前だった。


「……ねえ、もう解散しましょうよ」


沈黙を破ったのはマリアだった。

彼女の目は死んでいた。


「私、実家に帰るわ。こんな生活、もう耐えられない」

「実家? 教会が追放された聖女を受け入れると思うか?」


レオンが冷たく言い放つ。

マリアの肩がビクリと跳ねた。


「お前の悪評はもう広まっている。『勇者パーティを崩壊させた無能な聖女』としてな。今更帰ったところで、修道院の掃除係が関の山だ」

「そ、そんな……」

「ルカ、お前もだ。魔力欠乏症の魔導師なんて、魔法学院の研究材料にされるのがオチだぞ」


ルカが青ざめ、ガチガチと歯を鳴らす。

レオンは歪んだ笑みを浮かべた。

そう、彼らは一蓮托生なのだ。

地獄の底まで、道連れだ。


「俺たちはまだ終わっていない。アレンさえ……アレンさえ連れ戻せば、全て元通りになるんだ」


レオンの思考は、もはや妄執と化していた。

自分の過ちを認めることも、前に進むこともできず、ただ過去の幻影に縋り付く。


「そうだ、アレンを探そう。あいつはまだこの近くにいるはずだ。泣いて謝れば、きっと許してくれる。あいつは俺のことが好きなんだから」


ブツブツと呟きながら、レオンは王都の門をくぐる。

その時、門の近くにある掲示板に人だかりができているのが見えた。

号外が貼り出されているようだ。


『速報! 新星Sランク冒険者アレン、伝説の魔剣を従え、古の邪竜を単独討伐!』

『史上最年少の快挙! 国王陛下より勲章の授与が決定!』

『隣には絶世の美女剣士イヴ! 二人の愛の力、世界を救う!?』


貼り出された似顔絵。

そこには、凛々しく成長したアレンと、彼に寄り添う美しい女性の姿が描かれていた。

その表情は輝きに満ち、希望に溢れている。

泥にまみれたレオンたちとは、まるで住む世界が違っていた。


「あ……あぁ……」


レオンの手から、拾った鉄剣が滑り落ちた。

乾いた音が石畳に響く。


「嘘だ……嘘だろ……?」


単独討伐。Sランク。勲章。美女。

レオンが欲してやまなかった全てのものを、アレンは手に入れていた。

しかも、「荷物持ち」という足かせを外し、「呪い」という重荷を捨てただけで。


「アレンが……Sランク……?」

「すごい……あいつ、本当に強かったんだ……」


マリアとルカが呆然と呟く。

その言葉に、後悔の色が滲む。

もし、彼を追い出さなければ。

もし、彼に優しく接していれば。

今頃、あの栄光の隣に立っていたのは自分たちだったかもしれない。


「ふざけるな……ふざけるなあああああッ!!」


レオンは掲示板に向かって駆け出した。

右腕の激痛も忘れ、似顔絵を引き裂こうと爪を立てる。


「俺のだ! その栄光は俺のものだ! 返せ! 返せよアレン!! お前は俺の道具だろ!? なんで俺より幸せになってるんだ!!」


衛兵たちが飛んできて、暴れるレオンを取り押さえる。


「離せ! 俺は勇者だぞ! レオン・ブレイブだ!」

「うるさい! 公務執行妨害で逮捕する!」

「臭いんだよ、浮浪者!」


地面にねじ伏せられ、泥水を啜る。

視界の端で、マリアとルカが他人行儀に顔を背け、そそくさとその場を立ち去っていくのが見えた。

裏切り。

いや、彼らをつなぎ止めていた「利益」という糸が切れただけの話だ。


「アレン……アレン……ッ!」


冷たい石畳の上で、レオンは声を上げて泣いた。

右腕が熱い。

呪いは骨の髄まで浸食し、彼の命を確実に削り取っている。

代償の支払いは、まだ終わらない。

一生をかけても払い切れないほどの「ツケ」が、彼には残されているのだ。


掲示板の向こう、夕焼けに染まる空はどこまでも高く、残酷なほどに美しかった。

かつて勇者と呼ばれた男の末路を、誰も気にかける者はいなかった。

ただ、一陣の風が吹き抜け、剥がれ落ちた号外の紙片を空高く舞い上げていった。


それはまるで、彼らの物語の完全な「終わり」を告げているかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ